第16話 歓迎祝宴
牟礼さんの真っ黒な過去を聞かされて以降は、互いにコーヒーも空になったし、レイラさんが次の仕事に向かう時間になったので、早々に解散して俺は通常業務に戻った。
別れ際に「タカシのこと、嫌わないであげてね」とレイラさんが告げたのが、何やら妙に胸に引っかかる。
今日から正社員として正式にアルテスタの社員になったばかりなのに、こんな特大の爆弾を投下されて、俺は一体どんな顔をしてこれから牟礼さんに接すればいいんだ、なんて思いながらデスクにしまった椅子を引くと。
「おい小僧」
「ふぁいっ!?」
牟礼さんに声をかけられた俺の口から、思わず上ずった声が迸った。驚きのあまりに椅子の背もたれを押し込んでしまったようで、ぶつかった拍子にデスクが揺れる。
一層不機嫌そうな顔になった牟礼さんが、俺のデスクの方へと数枚つづりの仕様書を放り投げてきた。
「なに素っ頓狂な声を上げてやがる。仕事だ仕事。内部試験が二件、開発課から上がってきている。シミュレーターでやってこい」
「う……うっす」
何とか平静を取り繕いながら、デスクの上の仕様書を拾い上げると、向かいの席から標さんが顔を出してきた。
「あ、そうそう交野君。ついでに話すようで悪いんだけど、今日仕事が終わった後、時間ある?」
「え? まぁ特に予定はないっすけど、なんかあるんっすか?」
仕様書片手に首を傾げると、標さんがにっこり笑いながら壁の時計を指さした。
「うん、交野君の歓迎会。それに今さんがようやく外出許可が下りたから、快復祝いも兼ねてお祝いするんだ。
江古田の南口に肉バルがあるの知ってる?そこで飲み放題。十八時半から二十時半までなんだけど、どうかな」
「ちなみに交野君は参加費タダです。歓迎される側ですからね」
「えっ、マジっすか!? 行きます行きます、超行きます!」
標さんの言葉の後を継ぐように話した間渕さんの発言に、俺の心は途端に沸き立った。
歓迎会。しかも肉バルで飲み放題。おまけにタダと来たものだ。タダと聞いたら参加しないわけにはいかない。
専門学校に通っている最中は、とにかく安くたくさん飲むことを前提にお店選びをしていたから、大手チェーン居酒屋で安くて薄い酒をどんどん飲むことが中心だったが、これからは社会人。
自分でお金を稼げるようになって、色々なお店を選べるようにもなって。当然お酒もいい具合のものに手を出すこともできる。
正社員になる前、アルテスタに研修がてらバイトに来ていた頃からも、二度三度、標さんや開発課の大田原さん、渡来さんに連れられて練馬や江古田、池袋に行って美味しいお酒を飲ませてもらったものだ。社会人すげー、と何度思ったか知れない。
おまけに今回は今課長の快復祝いも兼ねているわけで。料理も酒もグレードは確実に上がるだろう。今から楽しみで仕方がない。
と、俺が内心でハイテンションになっている中、間渕さんが牟礼さんに視線を投げた。
「牟礼さんは、やはり今日は駄目そうですか」
「ああ、昨日も言ったが、俺は不参加で頼む」
「え、牟礼さん来ないんっすか?」
ぶっきらぼうに言い捨てつつパソコンのモニターに向かう牟礼さんの発言に、俺の目が小さく見開かれた。
そういえばこれまでにも何度か、試験課の中で飲み会に行ったことがあったものの、牟礼さんはいつも不参加だった気がする。飲み会の日は大概十八時に仕事が終わるので、課の人間が揃って練馬駅まで行くと、飲み会参加者が練馬駅前のロータリーでたむろする中、牟礼さんは一人さっさと駅構内に消えていくことが毎回だった。
パソコンのモニターから視線を外さないまま、牟礼さんが小さく眉を寄せる。
「まあな、そもそも俺は酒が飲めないし」
「社内で納会や歓迎会があった時も、いつも不参加か、稀に参加されてもお酒を一滴も口にされないですものね」
間渕さんの言葉に小さく頷くと、ふぅと一つ息を吐いて、牟礼さんは椅子を回してこちらに身体を向けた。その表情は怒っているというよりも、どこか寂しそうだ。
「課長の快復祝いだから、参加したいのは山々なんだが、体調が悪い時期なんでな。課長には、参加できなくてすみませんと、お前から謝っておいてくれ」
「りょ……了解っす」
そう告げた牟礼さんに俺が返事を返すと、その言葉を確かめるように頷いた牟礼さんが再び椅子を回した。パソコンのディスプレイに食い入るように見つめるその様子は、まるで何かを遠ざけるように自分の意識を集中させるようで。
その姿を俺は、先程仕事を言いつけられたばかりだということも忘れてしばし見つめていたのだった。
そこから言いつけられた内部試験をこなし、結果をまとめて終わった頃にはちょうど18時。壁にかけられたアナログ時計が終業のチャイムを鳴らす。
間渕さんも標さんも俺も、パソコンの電源を落として立ち上がる。ちらりと横に視線を向けると、まだ牟礼さんはディスプレイを見てキーボードを叩いていた。
ロッカーからジャケットを取り出した間渕さんが、未だ仕事を終える気配のない牟礼さんに声をかける。
「お先に上がります。牟礼さんはまだ残っていらっしゃいますか?」
「いや、俺も少ししたら出る。締めの仕事はやっとくから、気にせず行ってこい」
椅子の背もたれにグッと身体を寄せると、牟礼さんはこちらにひらりと手を振った。様子を見るに、抱えている仕事の進捗は順調らしい。
その姿を見て内心でホッと胸を撫でおろすと、俺は自分のロッカーからジャケットを取り出して羽織る。そして通勤用の鞄を手に掴んで、ぺこりと牟礼さんに頭を下げた。
「お先に失礼しまーす」
「おう」
短く返事を返し、再びディスプレイに身体を寄せる牟礼さん。そうしてロッカーのドアを静かに閉めた俺の背中を、標さんの大きな手が優しく叩く。
「さ、交野君、行こうか」
「……うっす」
そのまま俺は、牟礼さんを一人残して試験課のフロアを後にする。
後ろの方で、牟礼さんが息を吐き出す音が、静かなフロア内にかすかに聞こえたような、そんな気がした。
練馬駅から西武池袋線に乗り込み、池袋方面に各駅停車で二駅。
江古田駅の改札を出て、南口に降りると。開襟の長袖シャツにゆったりしたパンツ、サンダルを足に履いた初老の男性が、俺達を待っていた。
「やあ皆、お仕事お疲れ様」
「外出許可、おめでとうございます、課長」
間渕さんが言葉を返しつつ頭を下げるのを、男性――
アルテスタの試験課課長である彼は、昨年十月に深度四の魔素症に罹患し、身も心も魔物となった。
病院で人格矯正を施された彼の人格は元の人間と変わらない状態になっているとは言え、ここにいるのはまさしく、強大な力と熟練の技を持つ、世界最強クラスの魔物だ。
しかし、そうだとして。今ここに立っていて俺達に微笑みかける課長の姿は、どう見たって
頭を上げた間渕さんが、ちら、と課長の首元に視線を向けつつ口を開いた。視線の先にはただ、色の淡い肌と端が覗く鎖骨があるばかり。
「『変化』を習得することには成功したのですね」
「うん、変化を五時間維持することにも一昨日成功した。だから外出許可が下りたんだよね」
間渕さんの発した言葉に、課長がこくりと頷く。
そう、今こうして目の前に立っている今路夫の姿は、彼本来の姿ではない。魔物の特殊技能の一つ、『変化』を用いて人間を装っているのだ。
課長の取る人間の姿が安定していることに安堵した様子の標さんが、ぱんと手を叩く。
「さ、あんまりここで駄弁っててもよくないですし、お店に行きましょう。今さんのリクエストに合わせて、肉の美味いところを選んでおきましたから」
「おぉ、やったぁ。久しぶりのいいお肉、楽しみだなぁ」
「よっしゃー、食うぞー!」
久しぶりの外食とあってか、嬉しそうに目を細める課長の前で、俺はぐっと右手を突き上げる。
その高揚感をそのままに、俺達は江古田の南口駅前の通りを歩く。程なくして見えてくる木製の看板と、ウッドデッキ。
扉を開けて、店員さんの案内を受けて店内の真ん中に据えられた四人掛けのテーブル席に着席すると。
「とりあえず、交野君は生ビールでいいですか?」
「あっ、はい、生ビールでお願いします!」
「僕は白ワインでいいかなぁ?」
「了解です、生ビール三、白ワイン一ですね。すみません、肉が食べれて日本酒もある店が、あんまりこの辺無くって」
「いいよいいよ、むしろ江古田まで来てもらって有り難いくらいだよ」
早速飲み放題のメニューに視線を落としつつ飲み物の注文。手早く標さんが注文をまとめる中で、課長が片手に飲み放題メニューを持ちつつ眉尻を下げている。
課長と標さんのやり取りに俺が小さく首を傾げていると、早速運ばれてくる生ビールのジョッキが三つ。課長の頼んだ白ワインも後から運ばれてくる。
それらの飲み物のグラスを、俺達全員が手に取ると。
「それじゃー、始めましょうか。交野君の入社と、今さんの快復を祝して、乾杯!」
「「「乾杯!」」」
ジャカジャカと、ジョッキのぶつかり合う音が店内に響いた。
お酒が進むと、話も弾む。
俺の研修中の話だったり、課長のリハビリと人格矯正の話だったりで賑やかな空間になりながら、めちゃくちゃ美味い肉料理とおつまみがお酒と一緒に腹の中に消えていく。
そして一時間も経つ頃には、四人ともお酒が回ってだいぶ出来上がってきており。
「やぁ~、やっぱり久しぶりに飲むお酒はいいねぇ~」
「今さんってば~、尻尾九本全部出て、店員さんの邪魔になってますよぉ~」
変化が解け、全身もっふもふ黄金色の九尾の狐に
変化を使える魔物はそんなに多くない。人型種の魔物が角や羽を隠したり肌の色を隠したりするのと、賢獣種が人間の姿を取るために使うくらいしか、現状では確認されていない。
そして課長が魔素症に罹患して変化した九尾の狐は賢獣種の一種。人間を誑かし、堕落させて惑わすことを得意とする、瑞獣とも言われる魔物だ。
知能に優れ強力な術を行使でき、人間を見下すことの多い賢獣種の中では、人間に寄り添った生き方、考え方をすることが多いことで知られている。古くから地球にやって来ては人と関わって生きて来たらしく、九尾の狐の血を引いているなんて人も日本には一定数いるくらいだ。
というかぶっちゃけた話、今路夫という人間が九尾の狐の血を濃く引いていることは有名だ。確か母方の祖母が生粋の九尾だったとか。
つまり課長は、一種の先祖返りを果たしてしまったわけだ。吾妻先生が「身体の相性が殊更に良かった」と話すのも無理はない。
九尾の狐なので、お神酒にもなる日本酒は大好き。狐だから当然肉が好き。だから標さんが先程、肉と日本酒が両方ある店を選べなくて謝ったのだ。
そして、五杯目のワインを細長い口吻から舌を出してぺろぺろと舐めながら、課長の翡翠色をした瞳が俺の方に向いた。
「そういえば、元規君、考志君とはうまくやれてる?」
「えっ、やー、どーっすかね……あんまし、うまくやれてる自信はないっす。あ、でも課長に、『今日は参加できなくてすみません』って、伝言は預かったっすよ」
レモンサワーのジョッキを片手に、俺は頭を掻いた。正直、牟礼さんとうまくやれているとは言い難いが、課長の前で取り繕ってもしょうがない。
正直に答えると、課長は吊り上がった大きな目を細めながら、口をへの字に曲げつつ息を吐いた。黒い鼻から出た鼻息が、ワイングラスを微かに曇らせる。
「そうかー、まぁ考志君のことだから、なかなかすんなり受け入れられないだろうなとは思っていたけどね……でも、うん、大丈夫でしょ」
「大丈夫なんっすか?」
俺が不思議そうに首を傾げながらジョッキをテーブルの上に置くと、課長は目を細めたままでこくりと頷いた。翡翠色の中に浮かぶ、縦に細く切れた狐らしい黒い瞳孔が、俺を射抜く。
「うん。考志君みたいなタイプは、何とかして他人を遠ざけよう遠ざけようとするけれど、本心では誰かに助けてもらいたがっている。
元規君とか、レイラさんとか、そういうズカズカと入り込んでくるタイプの人が、彼みたいなのを助けるには一番向いてるんだ。
だから、なんか考志君にあった時に元規君が居合わせたら……まぁ絶対、考志君は怒っちゃうと思うけど。それでもめげずに、力になってあげて欲しいな」
「……分かりました」
そう、優しい声色で話しながら、課長はメインディッシュのローストビーフに箸を伸ばした。話している最中の真面目な雰囲気を一気に崩して、実に美味しそうに赤々とした断面の肉を食んでいる。
分かりました、と言ったはいいものの、本当はどう力になればいいのか、いまいち分かっていない。いざその時になって、自分で助けになれるように動けるのかも分からない。
でも何となく、課長の話を聞いていると、自分にも何かが出来るんじゃないかと、そんな気にさせられるのだ。
「九尾の狐って実は、ものすっごい人たらしなんっすかね……」
「えーなになに、元規君たらされたい? 僕にたらされてダメになりたい?」
「ちょっ、課長、近いっす! あっでもやべえもふもふ……!」
ローストビーフを咀嚼しながら俺の方にしなだれかかってくる課長が、九本の尻尾のいくつかを俺の身体に寄せてきた。
そのもふもふ加減に陥落させられそうになりながら、俺の歓迎会と課長の快復祝いの会は、つつがなく進んでいったのである。
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