第15話 毒婦弊害
魔素症に、娘と妻を奪われた。
そう口火を切ったレイラさんの言葉に、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
魔物に、ではなく、魔素症に奪われたとなれば、符術士の一人として、概ね展開は予想が出来る。
俺から視線を外し、リフレッシュルームの壁を見つめながら、レイラさんはぽつぽつと言葉を吐き出していく。
「あれは今から七年前だったわね。タカシには当時、十歳になる娘さんと、十二年連れ添った奥さんがいたの。
その日タカシは娘さんと二人で、家の近所にある大型スーパーマーケットに買い物に出かけたのね。そこに、インキュバスとサキュバスが群れを成して襲撃しにきたの」
遠い目をして説明を続けるレイラさんの口にしたその魔物の名前に、俺は小さく息を呑んだ。
インキュバスとサキュバス。どちらも淫魔と呼ばれ、口にするのも憚られるあんなことやこんなことをしては、人間の体内に魔素を注ぎ込み、魔素症に感染させて淫魔に変えてしまう、恐ろしい人型種の魔物だ。
噛みついたり爪を立てたりして血液中に魔素を流し、魔素症に感染させる通常の魔物と異なり、淫魔は被害者の体内の粘膜細胞を、その体液に含まれる魔素で直接冒していく。
血液中に魔素が侵入した場合は、血液中の抗体が仕事をしてくれるが、粘膜細胞に直接魔素を流し込んだ場合は抗体が意味を成さない。さらに言えば魔素で変質する細胞の総数も段違いに多い。
結果として、血液感染した場合とは比較にならないほど、魔素症の進行が早くなり、深度も深くなるのだ。数時間で震度三、震度四まで達する事例も、数多く報告されている。
それ故に、人型種の魔物の中でも積極的にそういう行動に及ぶ淫魔は、殊更に恐れられているのだ。
「ゲンキも新聞やニュースサイトで見たことがあるんじゃないかしら?二〇一二年八月九日、成増の大型スーパーマーケットで起こった淫魔襲撃事件。
スーパーマーケットの客の実に三割が淫魔に喰われ、深度三の魔素症発症者が五十八人、深度四の魔素症発症者が九人出たあの事件現場に、タカシと娘さんは居た。
そして深度四を発症した九人のうちの一人が、タカシの娘さんなの」
「そんな……淫魔の深度四って言ったら、肉親だろうが親友だろうがのべつ幕なしに喰いまくるようになる、やばいやつじゃないっすか」
話しながら悲しそうに目を細めるレイラさんに、俺は背筋が寒くなるのを感じながら発言した。
こくりと頷きを返すレイラさんの顔を見て、思わず口がきゅっと結ばれる。
魔素症の深度四は脳までもが魔素に侵されて変質し、身体の細胞が魔素を生産するようになると同時に、精神が魔物のそれへと変質してしまう。
肉体が淫魔になり、精神が淫魔のそれになるということは、すなわち淫魔同様にあんなことやこんなことばかりを考え、抵抗感なくそれに及ぶようになるということだ。
その相手がたとえ父親だろうと、兄弟だろうと、子供だろうと、さらに言えば人間じゃなかろうとお構いなし。それが淫魔の淫魔たる所以だからだ。
黙りこくった俺の方に視線を投げながら、再びレイラさんが口を開く。
「勿論、タカシもB級符術士だから対抗したわ。護符は手元にあったし、銃も持っていたからね。
でも、多勢に無勢。自分もサキュバスに組み敷かれている間に、愛する娘さんはインキュバスにヤられ、見る見るうちに淫魔になってしまった、というわけ。
警察隊と、企業の符術士が駆け付けた時……タカシは淫魔と化した娘さんに跨られ、腰を振られ続ける中、悄然と涙を流していたそうよ」
あまりにも、あまりにも生々しいレイラさんの話に、俺は最早返す言葉が見つけられなかった。
自分がいながら魔物の手から娘を守れず、魔物と化した自分の娘と行為に及ぶ。符術士として、最大級に屈辱的な、心を砕かれんほどの悲しみなのは想像に難くない。
再び俺から視線を外し、真っすぐに壁を見つめるレイラさん。その横顔に、俺は声の震えを抑えながら話しかけた。
「牟礼さんがグレード2のキャリアってことは……そこまで淫魔とヤっても、淫魔にはならなかった、ってことっす、よね?」
「そうね。今でも淫魔由来の絶大な精力は有しているけれど、それは薬で抑えている。肉体も人間の範疇だったわ、事件当時はね。
そして彼は、そのことがどうしても許しがたい。
自分は人間のままでいられるのに、娘は人間でいられなくなってしまった。魔素に耐性のある自分の身体が恨めしい……どうせなら自分も、娘と一緒に魔物に堕ちたかった、ってね」
そう言って、レイラさんはふっと天井の方へと視線を向けた。両手の中で、すっかり冷めた紙コップの中のカフェオレが小さく揺れる。
俺は、牟礼さんへの同情の念を抑えることが出来なかった。そこまでの絶望を味わわされたら、俺だったらきっと、符術士の活動を続けることが出来なかっただろう。
愛する者を守れなかったこと。愛する者を差し置いて自分だけ助かったこと。それが自分の体質によるものだということ。
それは、仕方がない。自分の体質を、ひいてはキャリア全体を、憎んだってしょうがない。
天井を見上げたままで、一層そのサファイア色の目を細めながらレイラさんが話を続ける。
「勿論、タカシは荒れたわ。荒れに荒れた。そしてそれに追い打ちをかけるように、タカシの奥さんが離婚を切り出したの。
『自分の娘と行為に及ぶなんておぞましい』――そう言ってね。心身ともにボロボロのタカシと娘さんを置いて、娘さんの転院と同時に去っていった」
「そんな……十年以上連れ添った相手を、そんな無情な捨て方するんっすか!?」
レイラさんの話に、思わず俺は身を乗り出して手を握った。紙コップから溢れたコーヒーが、ぱしゃりと俺の手にかかる。
人間の娘を失ったことは牟礼さんの奥さんも一緒だが、あまりに惨い。
愛する妻にも捨てられた牟礼さんの心情は、察するに余りあるというものである。
いよいよその目を閉じたレイラさんが、天井に顔を向けたままでふぅ、と息を吐いた。
「自分の娘が人間でなくなったこと、自分の夫とそういう行為に及んだこと、その事実を受け入れられない気持ちも、分からないわけではないのだけれどね。
そしてタカシには、支えてくれる人がいなくなった。残されたのは魔物と化した娘と、自分だけ。その娘ももう人間の生活には戻れない。
ただ一人だけで、絶望に打ちひしがれたタカシは、
「え……!?」
レイラさんの発した言葉に、俺はいよいよ驚愕の色を抑えられなかった。
それに今の話の内容から想像するに、どう考えたってまともな薬ではない。
俺の言わんとすることを読み取ったらしく、レイラさんがふるふると首を振った。
「勿論、非合法なクスリよ。魔素を含んで、肉体強化と精神高揚を図るための薬を裏のルートで手に入れて……
だから、タカシは私よりもずっと、ずっと危ういところにいたの。リューゾーが横流しされた護符の存在を突き止め、タカシの居場所を見つけた時、彼は自分の部屋の中でブラッドドッグに変身した状態のまま、ずっと自分の下半身を弄っていたそうよ。
性欲を抑える薬も切れていて、『もう少し遅かったら、外で人を襲って騒ぎになっていたかもしれん』って、リューゾーは言っていたわ」
驚愕を通り越して、俺は絶句するほかなかった。
牟礼さんがそこまで人間として、符術士としてダメな状態まで落ち込んでいただなんて、思いもしなかった。
実際、魔素症の深度四と、状況としては大差がない。牟礼さんの身体が魔素に耐性を持っていて、肉体は魔物でないと言っても、その時に心は完全に壊れてしまっていただろう。
レイラさんはそこまで話して、紙コップの中のカフェラテをぐっと飲み干した。冷たくなったカフェラテを一気に胃の中まで送り込んで、ぐいと口元を拭う。
そうして目つきを鋭くしたまま、口をぽかんと開けたままの俺に視線を向けた。
「リューゾーとセンナの献身的なケアによって、タカシは人間の姿を取り戻したけれど、魔素に蝕まれた身体と、壊れてしまった心はそのまま。
だからタカシはキャリアを憎み、魔物を憎み、人間を憎み、自身を憎む。その心の内は魔物と大差がない……いえ、魔物そのもの、と言ってもいいかもしれないわね。
私がさっき『タカシも気を付けないとダメよ』って言ったのはね、魔物化する危険性の話じゃないの。魔物化した自分の身体を、制御する話なの」
「……それって、つまり、あれっすか。
俺の言葉に、こくりと、大きく頷くレイラさん。
その反応に、俺の背中を冷たいものがぞくりと駆け抜けていった。
俺を嫌う牟礼さんが、俺の前で魔物に変身することが、もしあったとしたら。
自分の恥ずべき部分を、他ならぬ俺に見られたとしたら。
牟礼さんのことだ、容赦なく俺を攻撃しにかかるだろう。きっと躊躇いもなく。
牟礼さんを取り巻く現実を認識したところで、俺はおずおずと、レイラさんに質問を投げた。
「で、あの、レイラさん……俺に今の話をしたこと、牟礼さんに知られちゃ、マズい……っすよね?」
「まぁ、えぇ、その通りだわ。私から聞いたってことは、内緒にしていてね? せめてリューゾーから聞いたってことにして置いて頂戴。
もし私が話したことをタカシが知ったら、私が殺されちゃうわ」
そう苦笑しながらぺろりと舌を出すレイラさんに、俺はげっそりとした表情を隠しきれないのだった。
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