第38話 精霊落涙

 C棟での騒ぎが収まった後、俺はB棟入口付近の診察室で、リハビリテーション科の早瀬はやせ先生と話をしていた。内容はもちろん、先のフレイムタイガーについて、である。


「ふーん、なるほどね……」


 俺の説明を聞いた早瀬先生は難しい表情をして唸った。普段からあまり表情の変わらない先生だが、この時ばかりは眉間にシワを寄せている。


「フレイムタイガーが泣いた、という事実だけでも結構騒がれそうなことだけれど、問題はどうして泣いたか、だな……」


 そう話す早瀬先生はなかなかに悩ましそうな表情をしていた。

 それも無理はない。フレイムタイガーは精霊種に分類され、この世の中の理とは違う世界に生きる生き物だ。それが泣いた、という事実は、世間を揺るがすには十分だ。

 俺もそのことはよくよく分かっている。だからこそ、俺は早瀬先生に問いかけた。


「理由はあるはず、っすよね?」

「もちろん」


 俺の問いかけに早瀬先生はすぐに頷く。

 その返答も予想できないわけではない。精霊種とはそれだけ、世界にとって特殊で、特異な存在だからだ。

 早瀬先生が手を組みながら答える。


「精霊種というのは、コンピュータープログラムみたいなものだ。決められたものを処理する能力はずば抜けているけれど、逆に決められたこと以外のことをするのは非常に苦手だ」


 そうしてうつむくようにしながら早瀬先生は話す。その頭を俺は静かに見つめていた。

 精霊種、という魔物は一般の魔物とは違い、世界の理やルールに従って動く傾向が強い。そのルールは厳密に定められていて、外側から行動を変化させる要因が挟み込まれることは少ない。無いと言ってもいい。

 つまり、精霊種であるフレイムタイガーがああいった行動をとったことには、何らかの理由があるはずなのだ。早瀬先生が説明を続ける。


「だから先程フレイムタイガーが泣いたのも、『取り得る行動の一つ』としてプログラミングされていたからに過ぎない。で、プログラムが走り出すにはトリガーになる要因が必要だ。ここまでは分かるかな?」

「まあ……何となく、分かるっす」


 早瀬先生の問いかけに、俺は首を傾げながらも答えた。

 感覚として分からないわけでもない。プログラムはスタートとなる条件があり、その条件があるからこそ動作し、そして結果までをなぞっていく。そこに一つのずれもなく、書き記したとおりに動作する。

 精霊種の動作はそれに通じるものが多分にある。彼らは予め決められたとおりに動き、それをなぞって行動するのだ。

 早瀬先生が頷きながら説明を続ける。


「つまり、あのフレイムタイガーが涙をこぼしたのを引き起こすトリガーが、あの場面の中にはあったわけだ……もっと言うなら、あのフレイムタイガーが脱走を企てたのを引き起こすトリガーもあったはず。じゃあ、それは何だろう?」


 早瀬先生の問いかけに、俺は眉間にしわを寄せた。

 確かにフレイムタイガーの行動には明らかに、その行動を引き起こすに至るトリガーがあるだろう。そしてそのトリガーが間違いなく、俺が目にしたあの一連の流れの中にあるはずだ。

 あの光景を思い返しながら、俺は答える。


「多分、っすけど……泣いた方の理由は、捕まって檻の中に入れられたこと、じゃないかと思うんっすよね」

「なるほどね」


 早瀬先生は俺の言葉にこくりと頷いた。

 他に考えられる要因もない。フレイムタイガーが涙を流したのは檻に入れられてから後のことだ。それなら、檻に入れられる前のことが理由になると思うほかない。


「逃げようとして、失敗した。人間に捕まった。そのどっちかだと思うっす……それが原因で悔しかったから、ってんじゃ、ないと思いますし」


 俺の言葉に早瀬先生は大きく頷いた。ここのところは早瀬先生も概ね同じ意見だったらしい。


「そうだろうね、精霊種には感情というものが存在しない。嬉しいと思うことも無いし、嫌だと思うことも無い。あるのは『脱走に失敗した』という結果だけだ。泣いたことについてのトリガーはそれだろう」


 そこまで話して早瀬先生は言葉を区切った。そうして視線を診察室の窓に視線を向ける。


「そうなると、脱走したきっかけの方だ。誰かに命じられたか、あるいは何かを受け取ったか……あのフレイムタイガーが脱走をするに至ったものが何かあるはずだ、と私は考える。実験動物扱いが嫌になったとか、感情的な理由でない、きっかけがね」


 そう話して、早瀬先生は眼鏡の弦を押さえた。そのまま視線を窓の外、曇天が広がる中野の街へと向ける。

 その視線の先を追いながら、俺は口を開いた。


「C棟の中で何かがあった、ってのは間違いないっすよね」

「そうだね。安来やすぎ君曰く、今日の研究プロセス中もおかしなところはなかった、それが急に起き上がって逃げ出した、と言っていたけれど……」


 そう零しながら早瀬先生は視線を診察室の中に戻す。そうして部屋の中に視線を巡らせると、俺に視線を戻しながらコクリと頷いた。


「うん、ありがとう交野君。貴重な話が聞けた。私はあっちの面々に話をしつつ、状況を見てくる……ん?」


 そう言いながら早瀬先生が立ち上がると。先生はそのまま診察室の外に向けて目を見開いた。そう言えば、先程から何やら部屋の外が騒がしいように感じる。


「何か、騒がしいっすね?」

「そうだね、一体――んっ!?」


 俺が視線を後方、診察室の入り口に向けると同時に、早瀬先生が扉の方に歩み寄ったその時。

 扉ががらりと開いた。その扉の向こうに誰かが立っている。

 ヒト、ではない。魔物だ。まるでハイエナを直立二足歩行させたような、しかし女性だと明らかに分かる姿かたちをした獣人が、扉に手をかけながら俺を見ていた。

 獣人は俺を見てニヤリと笑って言う。


「見ツケタ」

「いっ!?」


 その言葉に背筋を伸ばす俺だ。

 このハイエナ獣人は明らかに俺を目当てにして動いている。それも明確な知性を持った獣人がだ。

 しかしこの言葉のたどたどしい感じ、地球由来の魔物ではない。異世界由来の魔物であることは想像に難くない。

 俺も早瀬先生も言葉を失って、何も言えないでいるその状況で。扉の陰からこそりと顔を覗かせる、人間の女性の姿があった。


「早瀬先生、すみません……あの、405号室の交野さんは」


 その白衣を身に着けた女性は申し訳無さそうに早瀬先生に声をかけた。

 言われるまでもない。俺はここにいるし、逃れようもない。早瀬先生も観念したように頷いた。


「いるよ、この部屋に……何事だ阿部君、これは」

「それが、このウェアハイエナが、急に交野さんはどこにいる、と……」


 そう返すと、阿部と呼ばれたスタッフはおずおずと、開いた扉の向こうからこちらを見ているハイエナ獣人を見た。

 ウェアハイエナ。獣人種の魔物の一つに数えられる魔物の一種だ。地球のハイエナと同様、知略に長け知恵が回ることで知られている。

 その魔物が、俺に。俺が目を見開いている中、視線を集めたウェアハイエナは俺に向けて顎をしゃくりながら言った。


「カタノ。タカハシ、呼ンデイル。ツイテ来イ」

「えっ……?」


 その言葉に、俺は目を見開く。

 タカハシ。ここで名前が出るということは明らかに鷹嘴さんだ。

 思いがけず飛び出したその名前に、俺も早瀬先生も目を見開く。そして一歩、診察室の中に踏み出したウェアハイエナが、俺に向かって手を差し伸べるのであった。

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