第31話 仕事と変化3
「それじゃ桃子、お疲れー」
「うん、お疲れ」
勤務時間が過ぎ、外はすっかり真っ暗になった頃。
偶然同じタイミングで仕事を終えた夏美と、最寄りの駅まで歩いた私は、うちとは逆方向の電車に乗る夏美を、向かい側のホームで見送った。
プルルルルという音が鳴り、間も無くしてドアが閉まる。
ガラス越しに笑顔で手を振る夏美につられ、私も小さく手を振り返した。
——はぁ、今日はちょっと疲れたかも。
いつもよりも早い退勤のはずなのに、なぜかすごく疲れた気がする。
まだ木曜日だから明日も仕事があるし。
今日うちに着いたらご飯を食べてお風呂に入ってすぐに寝よう。
『まもなく電車が参ります——』
そうこう考えているうちに、私が乗る電車も来るみたい。
いつもは帰宅ラッシュで身動き取れないくらい人がいるけど、どうしてか今日はあまり人がいないように感じられる。
まあそれでも十分電車は混んじゃうけど。
もしかしたら座れるかもしれないし、ちょっと期待しておこう。
『ガタンゴトンガタンゴトン』
夏美に遅れること約3分。
ようやくうち方面の電車が到着した。
プシューという音と共にドアが開かれ、ホームで待っていた人が一気になだれ込んで行く。
すっからかんだったはずの電車は、みるみるうちに人に染まり、気づけば軽い満員状態。
もちろん私が座れる席なんて一つも開いてはいない。
うちの最寄りまでは30分くらいだけど、その間にこの状況が変わることはまずないと思う。
大体の人は千葉まで帰るから、東京の外れで降りる私にとって、この人の数はただの苦痛でしかない。
——早く着かないかなぁ……。
いつも車内に表示されてる残りの駅数を数えるけど。
数えれば数えるだけ時間が長く感じちゃう。
『次は御茶ノ水。御茶ノ水です』
御茶ノ水ってことは、まだ乗ってから10分くらいしか経ってないんだ。
でも御茶ノ水は乗り換えをする人が結構いたりするから。
その時にもしかしたら椅子が開くかもしれない。
『御茶ノ水。お出口は右側です』
電車が減速し始めたのと同じくして、車内では降りる人たちがソワソワとドアの方へと移動を始める。
それを悟った私は、椅子が開かないかどうかを目を凝らして見張っていた。
すると——。
——あっ、ひと席空いた。
私が立っていた場所のすぐ目の前。
そこに座っていた男の人が偶然にも立ち上がり、ドアの方へと向かった。
——これ、私座っていいよね?
場所的に、座るなら私か隣の人以外に考えられない。
でも隣の人はサラリーマンらしきおじさんだし。
多分このままいくと私に席を譲ってくれると思う。
『どうぞ』
あ、今目が合ったけど、やっぱり席を譲ってくれるみたい。
他に座りたそうにしている人も特にいないし。
ここは素直に座らせてもらおうかな。
そう思った私は肩にかけていた荷物を取り。
膝に乗せられるように胸元に抱えた。
そして有り難く空いた椅子に座ろうとした時。
「電車、混んでますねぇ」
「そうだねぇ」
私の視界の一片に、おじいさんとおばあさんの姿が映った。
しかもそのおじいさんとおばあさんは、溢れる人の波に流され、私がいる方へど徐々に徐々に近づいてくる。
「ばあさん。足は大丈夫かい」
「ええ、これくらいなんてことないですよ」
2人で手を取り支え合っているおじいさんとおばあさん。
そのおばあさんの方は、手に松葉杖のようなものを持っていた。
それを見る限り、多分少し足が悪いんだと思う。
「15分くらいだからなんとか頑張ろうねぇ」
そう言っておじいさんは、おばあさんの手をぎゅっと握る。
そしてまもなくして、扉が閉まり電車が動き出した。
——あれ……何で誰も……。
その時私が抱いたのは、決して小さくはない不信感。
目の前で2人が大変そうにしているというのに、なんで誰も席を譲ろうとしないんだろうという疑問。
——みんなケータイばっかり……。
見渡す限り、椅子に座っている人たちはケータイばかりを見ている。
それで自分の世界に入り込んで、一切周りを見ようとしていない。
おばあさんがあんなにも大変そうにしているのに。
なんで誰も席を譲ってあげないんだろう——。
「あ、あの……座らないんですか?」
空いた席の目の前で、色々考え込んでいた私。
そんな私を不思議に思ってか、隣にいたおじさんが一声かけてきた。
「えっと、この席取っておいてもらっていいですか」
「は、はい……わかりました」
なぜか心が落ち着かない私は、おじさんにそう告げ2人の元へ。
人の壁に挟まれたまま辛そうにしているおばあさんに声をかけた。
「あの、もし良かったら席空いてるので」
「あら、悪いですよ」
「いえ、混んでますし。それに転んだりすると危ないですから」
私はそう言って、空いた椅子の方を指し示す。
するとおばあさんは、おじいさんと顔を見合わせ、
「ありがとう。それじゃあ座らせてもらうわね」
笑顔を浮かべて、空いた椅子へと座ってくれた。
それを見た私は、なんだか一安心。
でもおじいさんも一緒に座れないのは、ちょっと申し訳ない。
「わざわざありがとうねぇ」
「いえ、これくらい」
「ばあさんは足が悪いから、本当に助かったよ」
おばあさんが座る椅子の前。
そこに私と並んで立っているおじいさんは、嬉しそうにそう言ってくれた。
「でもひと席しか空いてなくて……」
「私はいいんだ。まだ身体も元気だしね」
「でも……」
本当はおじいさんも一緒に座らせてあげたかった。
それだけが私の心残りでならない。
もうひと席空いていればいいんだけど。
あいにく今日も満員で、おじいさんが座れそうな席はどこにも……。
「——あの、もし良かったらかけてください」
私が悩んでいた時、聞こえてきた声。
その声は、おばあさんが座るすぐ隣の男性のものだった。
まだ若くて、私と同い年か少し上かくらいだと思う。
でもその立ち振る舞いを見る限り、結構しっかりしてそうな人だ。
「そんな、悪いですよ」
「いえいえ、僕は間も無くおりますので。良かったら」
「あらそうですか。本当にありがとうございます」
紳士的な対応の男性は、素早く席を立ち上がった。
そしてその空いた席に、おじいさんがゆっくりと腰を下ろす。
「優しい人で良かったですねぇ」
「そうだねぇ」
そして2人は、お互いに笑顔を交わす。
その光景はなんだか暖かくて。
ずっと見ていたいような、そんな気持ちにさえなる。
——私、席譲った。
あまり実感はないけど、私は初めて席を譲った。
今までだったら、誰かがやってくれるだろうとか。
周りの人に任せてばかりいたけど。
でも——。
なんだか今日は自分がやってみようって思えた。
そしたら上手くいって、おじいさんたちにも感謝されて。
——うん、なんだか悪くないかも。
何かをして褒められたりするのはすごく良い。
それはきっと今までの私だったら思いもしなかったことだと思う。
同居人の彼と暮らし始めてから。
そこから私の何かが変わった。
そしてそれを変えてくれたのは紛れもなく彼。
だからこそ私はいつかこの気持ちを彼に伝えたい。
あとどれくらい一緒にいれるかわからないけど。
それでも私は伝えたいんだ。
この”ありがとう”って思いを——。
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