第33話 蓮見さんと二人暮らし

 夕食の準備をしていた最中。

 不動産会社から電話がかかってきたのは、ほんの数分前のこと。


 その内容は言わずともわかる。

 俺の引越しに関する電話だった。


『ようやく新しい部屋が見つかりましたので——』


 俺が案内されたのは、ここから2駅ほど離れた地区。

 距離的にそう遠くはないものの、県をまたいでの引越しになるそう。

 もちろん新しい家では、正真正銘の一人暮らしをすることになる。


 今ある生活を全て捨てて。

 俺はこの部屋を出て行くことになる。

 蓮見さんとだってもう……。


 そう考えると何だか少し寂しい。

 名残惜しささえも感じてしまう。


 最初こそ嫌々始めた共同生活だったけど。

 それを思い返せば、あながち悪いものでもなかったと思う。


 蓮見さんと同じ部屋で同じ時間を過ごし。

 それがどんどん重なる度、お互いのことを理解していって。


 良いところも悪いところも。

 たくさんのことを知って、ようやく俺たちの日常が落ち着いてきた。

 そう思い始めていたのだが……。


『佐久間様のお名前は、こちらで控えさせていただいておりますので』


 不動産会社からの引越しの連絡。

 もちろんそれはいつか来るとわかっていたものだ。


 しかし——。


 実際こうして現実を突きつけられると、どうも心が痛む。

 本当にあの人を置いて出て行っていいのだろうか。

 俺がいなくてもあの人はちゃんと1人で生活できるだろうか。

 様々な不安が渦巻き、俺の決断を狂わせようとする。


 でも本来あるべき俺たちの日常は、おそらく今の日常じゃない。

 引越しをするべきであることは、十二分にわかっているつもりなのだ。


 それでも俺は決断しかねていた。

 少なからず蓮見さんのことを気にかけてしまっていた。


 あのどうしようもなくだらしない。

 最近ちょっぴり変わり始めた同居人のことを。


『それでは手続きの方に進ませていただきたいのですが、よろしいでしょうか』


 しかし相手は待ってくれない。

 悩んでいる俺に決断の時を迫ろうとしてくる。


 しかし——。


 よく考えてみれば。

 いやよく考えなくとも、俺の中に答えは一つしかなかった。


 そもそも俺たちの出会いは、本当ならなかったはずの出会いだ。

 きっとそれは偶然で、神のいたずらか何かなのかもしれない。

 でもこの先何があろうと、その過去が変わることはない。


 一緒に買い物をしたことも。

 必死になって捜索したことも。


 その全てが俺たち2人の時間であり。

 蓮見さんからもらった、唯一無二の思い出でもある。


 それに彼女はもう大丈夫だ。

 きっと俺がいなくても、立派に1人でやっていってくれる。


 こうして俺が部屋を出る時が来るまで。

 そう思って色々口うるさく言わせてもらってきた。

 しかしそれも今日でおしまいだ。


 蓮見さんはちゃんと変わってくれた。

 だからこそ俺は、何の懸念も残さずここを出なければならない。


 彼女に余計な心配をかけないためにも。

 俺は蓮見さんの日常から、離れないといけないのだ。


「——わかりました。本当にお世話になりました」


 こうなることがわかっていたからこそ準備はしていた。

 しかしいざその場面になると、うまく言葉が出てこないものだ。


 本当ならもっとあっさり承諾するつもりだったが。

 どうやら俺はいつの間にか、この生活を当たり前に感じていたらしい。


『それではこのまま手続きを進ませていただきます。この度は本当にお手数をおかけしてしまって申し訳ありませんでした』

「いえこちらこそ。わざわざ部屋を探してくださりありがとうございました」


 これでいいんだ。

 きっと蓮見さんなら理解してくれるはず。

 そしてお互い別々の場所で、また新たなスタートを切るんだ。


 これ以上俺がお節介を焼くのはもうおしまい。

 この先の彼女の日常に、俺の存在はもう必要ない——。


『引越しの日時の方はどうされますでしょうか?』

「えっと、一度同居人にも連絡を取りますので……」


 そう呟いた俺の覚悟は、もう固まっていた。

 これでもうこの部屋にいる権利は無くなったのだと。

 そう、思っていた——。


「……って、えっ?」


 しかしその覚悟は、一瞬にして戸惑いの感情へと変わった。

 俺が心を決めたその瞬間、俺の背中から熱い何かを感じたのだ。

 背後から両手で力強く身体を奪われ、俺は上手く身動きが取れない。


 ならばと首を振り向かせてみれば。

 そこには俺の背中に顔を埋める同居人の姿が——。


「は、蓮見さん? ど、どうしたんですか?」


 抱きつくように身体を密着させる彼女は、酷く震えていた。

 身体は熱く、それでもって力んでいるような振る舞いに、俺はその場で立ち尽くすことしかできなかった。



 * * *



『……久間様……どうかさ……しょうか?』


 まだ繋がったままの電話の先から、相手の声が微かに聞こえる。

 何度も何度も俺の名前を呼んでいるようだが、あいにく俺の意識はもうそこにはない。


「え、えっと……」


 背中から強く抱きついている彼女は、埋めた顔を上げようとしない。

 それどころか抱きしめる手の力を緩めてくれる様子も見られない。


 ——聞いてたのか……。


 その様子からして、おそらくは今の話を聞いていたのだろう。

 突然俺が引越しの話なんてしてたら、確かに驚くのも納得できる。


「どうしたんですか、突然」


 でも俺は、彼女の前でその言葉を口にすることはできなかった。

 本当なら面と向かってちゃんと伝えるべきところなのに。

 いざこうして向き合うと、なかなか言葉にする覚悟が固まらない。


「と、とりあえず離してもらっていいですか」


 場を紛らわすようにそう言ってはみたが、蓮見さんは顔を埋めたまま首を横に何度も何度も振っていた。


「え、えっと……ちゃんと説明するので」


 まだ覚悟が固まったわけではない。

 しかしこのまま黙っていても、何も状況は変わらない。


 ならばひとまずは、蓮見さんと顔を合わせるところから始めたい。

 そう思った俺は落ち着いた声で、蓮見さんに促してみたのだが——。


「説明なんていらない」

「えっ?」


 帰ってきたのは思わぬ返事。

 額を背中に当て、顔を俯けたまま。

 まるで全てを知っていたような。

 しかし酷く怯えた声で。


「説明されなくてもわかる」

「そ、そうですか……」


 ——わかるって……。


 そう戸惑っていたのもつかの間。

 彼女は絡めていた腕をほどき。

 埋めていた顔をゆっくりと上げて見せた。


「……ごめん……」


 そして下から俺を見上げるようにしながら。

 まるで何かを訴えかけるようにそう言ったのだ。


 目には涙をため。

 震えたような小さな声で。


「……ごめん……ごめんね……」

「き、急にどうしたんですか……」


 ごめんと言われても、何が何だかわからない。

 本来ならば俺の方が謝らなければならない立場のはずなのに。


 それでも蓮見さんは謝り続けた。

 そして覚悟を決めたように、その思いを口にしたのだ。


「キミのこと、本当は都合の良い奴だって……これで私は楽な生活ができるって……最初の頃はそう思ってたんだけど……」


 今にも崩れ落ちそうになりながら。

 しかし溢れる涙を必死にこらえ、彼女は続ける。


「でも……いつの間にかキミのことが大切になってて……一緒にいられなくなったらって思うとすごく心が痛くて……私……」


 それは紛れもなく、彼女が抱えていた本音。

 共に過ごしたこの数ヶ月でどう心が動いたのか。

 それを体現させるかのような言葉だった。


「こんな気持ちになるの初めてで、なんて言っていいのかわからない……」


 でも——。


「でも……私はこれからも幸太郎と居たい! キミとじゃなきゃいや!」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の中の何かが動いた。

 それはきっと、俺が今まで経験したことのなかった何か。

 確かな憧れを持ちながらも、知らないふりをしていた何か。


 誰かに必要とされる——。


 俺は確かに優秀で人よりも多少は優れているかもしれない。

 でも生まれてこの方、誰かに必要とされるようなことは一度もなかった。


 いつも自分と周りの間に少なくない隔たりを感じ。

 できるだけ迷惑をかけないようにと、一線を引いた日常を送ってきた。


 そうしてきた結果、優れていながらも誰のためにもならない。

 まるで自分のためだけに生きているような。

 そんなくだらない人間に俺はなってしまっていたのだ。


 でも——。


 こうして蓮見さんと暮らし始め、俺は確かな思いを抱いていた。

 誰かに必要とされることはこんなにも素晴らしいことなんだ。

 今までの俺は本当にくだらない生き方をしたきたんだって。


 たとえ利用されるためであっても、俺は嬉しかった。

 だからこそ俺は文句を垂れながら、蓮見さんのお世話をしていた。


 いつか切り離されるとわかっていながらも。

 俺はその現実を卑下しようとはしなかった。


 ——だったら最後まで面倒みなくてどうするよ。


 あとどれくらい。

 なんて先のことを考えるのはもうやめだ。


 俺はこの人と一緒に暮らすって決めたんだ。

 たとえ始めは、それが仕方なくだったとしても。


 今の俺がどう思っているのか。

 それだけが大事なんだと、今なら思うことができる。


「ちょっと待っててください」

「えっ……ど、どうするの?」


 俺が再び電話を耳に当てると、蓮見さんは不安そうに俺を見た。

 おそらくは俺が、このまま引越しの話を進めてしまうんではないだろうかと心配に思っているのだろう。


 しかし。


 今の俺にそんな思い切ったことはできない。

 もちろん始めはそうするつもりだったが。

 蓮見さんの顔を見て、ようやく俺の覚悟も決まった。


「——お待たせしてすみません」

『……あ、良かった。ようやく声が届きました』


 わざわざ部屋を探してくれていた不動産会社には申し訳ない。

 しかし俺とて1人の男として、この思いを無駄にはしたくない。


 そして何より——。


 蓮見さんの期待を裏切ることはできない。

 正しいとは言えない形でも、己の憧れを最後まで貫き通したいのだ。


『それでは引越しの日時ですが——』

「その件ですが。もう少しこの部屋に住むことにしました」

『へっ?』


 電話の向こうからは、腑抜けたような声が聞こえる。

 まあ今の今まで引っ越すつもりだった奴が、突然そんなことを言えばそうなるのも当然だろう。


『す、すみません……今なんとおっしゃいましたでしょうか?』

「もうしばらくこの部屋に住みます。なので俺に引越しは必要ありません」


 きっぱりと言い切り、俺はふと蓮見さんの方を見た。

 すると彼女は目を丸め、意表を突かれたような顔をしていた。


 ——てか口も開いてるな……蓮見さんらしくない。


 いつもはよっぽどのことがない限り動揺したりしないのだが。

 さすがにこれだけのことがあれば、平常心というわけにもいかないらしい。


『で、ですが……同居人様の承諾の方は……』

「同居人の承諾ですか」


 そう言われた俺は、なんの躊躇もせず、驚き固まる蓮見さんにケータイを差し出した。


「蓮見さん、一緒に住むには同居人の承諾がいるそうです」

「う、うん……」


 戸惑いながらも、蓮見さんは俺からケータイを受け取る。

 そして両手でゆっくりと、それを耳に当てた。


「はい……はい……します……はい……」


 そしてほんの数秒足らずで、俺にケータイを返す。


 ——この人はまた……。


 初めてここへ来た時も、確かこんな感じだった気がする。

 俺が一緒に住むというのに、二回返事でそれを承諾して。

 あの時は本当に驚きの連続だったな——。


『あの……佐久間様』


 電話の向こう側から俺を呼ぶ声が聞こえてくる。

 なので俺は慌ててケータイを再び耳へと当てた。


「それで、同居人はなんと」

『これからも同室で構わないと許可をいただきました……』

「そう……ですか」


 それを聞いて、なぜか「ふぅ」と安堵の息が漏れる。

 本当はすぐにでも引っ越すつもりではあったけど。

 もしかしたら俺も、本心はまだ彼女と一緒に居たいのかもしれないな。


『——それでは失礼致します』

「はい、色々とありがとうございました」


 そうして不動産会社との電話は終わり。

 通話終了画面になったのを確認した後、俺はケータイを閉じた。


「さて、遅くなっちゃいましたけど夕飯にでもしますか」


 この先も一緒に暮らすとなれば、特段やることも変わらない。


 まずは夕飯の支度をさっさと済ませること。

 蓮見さんもお腹空いてるだろうし。

 ちゃっちゃとやってしまおう。


「蓮見さん、料理運ぶの手伝ってくださいね」


 そう言いつつ、俺は部屋を出ようとした。


『ギュッ』


 しかし後ろから服の袖を引っ張られ、思わず足を止める。

 何事かと振り返ってみれば、そこにはすっかり見慣れた美人の姿があった。


「どうかしましたか?」

「なんで……」

「ん?」

「なんで引越し断ったの……」


 床にベタッと腰を下ろし。

 俺の足元あたりで視線を泳がせながらそう尋ねてくる様はまるで妹のよう。


 ——全くこの人は。


 この幼い感じは、出会った頃と何も変わらない。

 最近はだいぶ大人になってきたと思ってたけど。

 やっぱり彼女にはまだ、お世話をする誰かさんが必要らしい。


「なんでって。あなたを置いてここを出れるわけないじゃないですか」

「そ、それって……」


 わかりやすく頬を染める彼女。

 しかし俺がここにいる理由は、恋心とかそんなんじゃない。


 出会った頃からそうだった。

 蓮見さんはだらしなくて、目も当てられなくて。

 きっとこの人は”誰か”がいないとダメなんだろうと悟って。


 気づいたら俺はその”誰か”になっていて。

 この人を何とかしてあげたい気持ちになっていて。

 だからこうして引越しという選択肢を捨てて、ここに残ることを決めて。


 ——つまり俺がここにいる理由は……。


 俺がここにいる理由。

 それはもう、一つしかないだろう。


「放っておけないんですよ。蓮見さんのことを」


 俺の部屋には見知らぬ美人が住んでいる。

 そんなことを誰かに言えば、心底驚かれるだろう。


 しかし俺は、この奇妙な現状を。

 そして出会いを、無駄にはしたくはないのだ。


「さ、わかったら手早く準備しましょう」

「……あ、待って。幸太郎にお土産」


 無垢な笑顔で渡されたのは、ほんのり温かいレジ袋。

 その中身を覗いてみれば……。


「肉まん……ですか?」

「うん、昨日食べたいっていってたから」


 彼女に渡されたのは何の変哲もない肉まん。

 しかも二つではなく、なぜか一つだけ。


 ——わざわざ買ってきてくれたのか?


 蓮見さんが俺のために。

 そう思うと、なぜか胸の内が落ち着かなかった。


「蓮見さんはいらないんですか?」

「うーん、一口食べたいかも」

「なら半分こしましょうか」

「うん。する」


 そう言って笑顔で頷くのは、見知らぬ美人の同居人。


 名前は蓮見桃子さん。


 美人でスタイルが良くて、でもだらしなくて。


 素直で心優しいそんな素敵な同居人だ——。

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俺の部屋には見知らぬ美人が住んでいる じゃけのそん @jackson0827

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