第32話 仕事と変化4
最寄り駅に着いたのは、午後8時を過ぎた頃。
あの後結局座ることができず、ひたすらつり革につかまっていた私の足は、仕事の疲れもあってかなり限界だった。
それでも席を譲ったおばあさんが、降りぎわに「ありがとう」と言ってくれたのは、なんだかすごく心に響いた。
本当は私も座りたかったけど、こうして誰かのために何かができたんだと思うと、勇気を出して席を譲って良かったと思う。
今日の仕事でもそうだけど。
誰かに必要とされることはやっぱり嬉しい。
何もできず誰かに任せっぱなし。
周りからも期待されず、ただ居るだけの存在。
今まではそれで良いと思っていたけど。
やっぱり私も何かしてみたいって思うんだ。
そうやって周りに必要とされる人間に私はなりたい。
私がいないと困るくらいに、周りの人の役に立って。
いずれ同居人の彼にも、私が必要と思ってもらえるように——。
* * *
「640円になります」
いつもの最寄りのコンビニ。
そこでお酒とおつまみを買って、私はうちに帰る。
ホントは疲れてるから寄らないつもりだったけど。
いざコンビニの前を通ると、やっぱりお酒が飲みたくなっちゃった。
けど今日は頑張ったし、自分へのご褒美ってことで良いよね。
「こちら袋別にしますか?」
「あ、一緒でいいです」
それに私が買ったのは、お酒とおつまみだけじゃない。
昨日同居人の彼があんなことを言っていたのを思い出したから、ついでに買ってあげることにした。
確かあれは寝るちょっと前のことだったと思う。
テーブルで勉強していた彼が、ポツリとこんなことを呟いたんだ。
『蓮見さん、なんかお腹空きません?』
『え、別に空いてないけど』
『肉まんとか食べたくないですか』
『別に食べたくないけど』
『そうですか……。なんか俺、今無性に肉まん食べたいんですよ』
『何それ。だったら買ってきたらいいじゃん』
『でも、この時間に肉まんなんて身体に悪いじゃないですか』
『だったら我慢したら』
『はあ……そうします……』
あの時彼は、すごく肉まんを食べたがっていた。
季節は春と夏の間くらいだし、全然旬ではないけど。
それでも彼は、珍しく物欲しそうな顔を浮かべていた。
——これ、喜んでくれるかな。
私が肉まんを買ってきたってわかったら、どんな顔するだろう。
きっと彼のことだから、すごく驚いてくれるんだろうな。
なんだかすごく楽しみになってきた。
「冷める前に早く帰らないと」
どうせならあったかい肉まんを食べて欲しい。
そして彼に”ありがとう”って言われたい。
少しでも私のことを見直してもらいたい。
多分今は夕食の支度をしてる頃だと思う。
今日はバイトないって言ってたし、絶対そうだ。
ならこの肉まんは、気づかれないようにテーブルに置いておこう。
彼がご飯を食べようとした時にびっくりしてもらえるように——。
「はぁ、着いたぁ」
色々考えてたら、あっという間にうちに着いた。
どうせ玄関の鍵は、彼が閉めただろうし。
仕方ないけどここは、バックから鍵を取り出して開けるしかなさそう。
——ええと……確かこのポケットに……。
「あ、あった」
バックの内側に付いてる、小さなファスナー。
私はいつも、ここに鍵をしまうようにしている。
ホントは鍵を入れるケースとか欲しいけど。
あれって結構高いから、進んで買おうとは思わない。
『ガチャ』
私は玄関の鍵を開け、そっと扉を開けてみた。
すると台所は電気がついているので、やっぱり夕飯の支度中みたい。
——彼は……。
小さく開いた隙間から、中を覗き込む。
しかし、台所には彼の姿はない。
——部屋かな……。
部屋の電気もついているみたいなので、きっとそうだ。
彼のことだから、部屋の片付けとかしてくれてるんだと思う。
「そーっと……」
玄関で靴を脱ぎ、私はそっとうちに上がった。
台所を抜け、トイレを超え、やがて部屋の扉の前に差し掛かる。
「ん、何か聞こえるような……」
すると部屋の中からは、何やら話し声が聞こえてきた。
よーく耳をすませてみると、聞こえてくるのは彼の声だけ。
多分誰かと電話をしているんだと思う。
——誰と電話してるんだろ。
俄然興味が湧いた私は、ゆっくりと耳を扉に密着させる。
「——はい、はい、そうですか……」
でも聞こえてくる彼の声は、なぜだか少し暗い。
その感じからして大学の友達とかでもなさそうだし。
もしかしてバイト先からの電話なのかな——?
「——そろそろだとは思ってました。はい、そうです」
そろそろって……一体何のことだろう。
まさかバイト先クビにでもなっちゃったのかな。
もしそうだとしたら私、どうやって声をかければ——?
「——わかりました。本当にお世話になりました」
彼がそう呟いた刹那。
私の耳に思いがけない言葉が舞い込んできた。
「——引越しなんて、少し寂しいかもしれません」
——!?
今彼は引っ越しって言ったのかな。
だとしたら電話の相手は……。
「いえこちらこそ。わざわざ部屋を探してくださりありがとうございました」
やっぱり電話の相手は不動産だ。
多分彼が住める空き部屋が見つかったから、連絡してきたんだ。
でも——。
彼が引っ越すなんて嫌だ。
薄々と気が付いていたけど、あまりにも早すぎるよ。
彼ともっと一緒にいたい。
そう思えてきたばかりなのに。
このタイミングで引越しなんて。
すごく寂しいし……嫌だよ……。
「えっと、一度同居人にも連絡を取りますので……って、えっ?」
気づけば彼は、電話から意識を離し、目を丸くしていた。
そして密着する私を、心底困ったように見下ろしている。
「は、蓮見さん? ど、どうしたんですか?」
息をすればわかる彼の匂い。
そして背中から伝わる温かな彼の温もり。
その全てが心地よくて、ずっとこのままで居たいと思うほど。
——このまま彼を手放したくない。
彼の口から吐かれた一言で、私の中にはそれきりしかなかった。
薄々と気が付いていた事実のはずなのに。
やっぱり私はそれを認めたくはなかったのだと、今なら思える。
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