第30話 仕事と変化2

 待ちに待ったお昼休み。

 部長に頼まれたいた資料をなんとかまとめ終えた私は、それを片手に部長の机へと急いだ。


「あの、加賀部長」

「あ、蓮見さん。頼んでた資料はまとめてくれたかな?」


 優しく問いかけてくる部長。

 でもその様子は、なんだか私を試しているかのよう。


「一応、やってはみたんですけど」


 そう呟きつつ、私はまとめた資料を部長に差し出す。


「どれどれー」


 神妙な表情の部長はそれを受け取ると、ペラペラとページをめくり始めた。


 ——だ、大丈夫……かな……。


 なんとかまとめることはできたけど、それでもあまり自信はない。

 今日までこんな仕事は頼まれても断っていたから、実質資料をまとめるなんて生まれて初めてだ。


「んんんんん」


 わざとらしく喉を鳴らし、内容を確認する部長。

 なぜかそれを待っている間、私の心臓は鳴りっぱなしだった。


「あ、あの、どうでしょうか」

「んんんんん……」


 ペラペラとすごい速さでめくられる資料は、もう終盤。

 そして最後の一枚をめくり終えたかと思うと、部長は一言こう言った。


「うん、よくできてる」

「ほ、ホントですか?」

「まあ細かいところはまだまだだけど。それでもここまでやれれば合格点だよ」

「よ、よかった」


 どうやらうまく資料をまとめられたみたい。

 あんまり自信がなかったから、ちょっとだけホッとした。


 でもなんだろう。


 なぜか私今、すごく嬉しい。

 ただ頼まれた仕事をやり終えただけなのに。

 なんでこんなにも満たされているんだろう。


「それにしても蓮見さん、やればできるじゃないか」

「そ、そうですか」

「うん。てっきり君はこの仕事向いていないのかと思ってたよ」

「は、はあ」

「でもこの調子なら、他の仕事も任せられそうだね」


 そう言うと部長は、机にあったタバコとライターを取った。

 そして笑顔で私の肩をポンと叩くと、


「期待してるよ」


 私の目をまっすぐに見て、そう言ってくれた。

 こんな私に”期待してる”と。


 ——初めて言われたかも。


 入社して此の方、仕事で誰かに褒められることなんて一度もなかった。

 もちろんそれは、私が褒められるだけの仕事をやってこなかったから。

 周りの人も私に期待なんてしてなかったんだと思う。


 でも今日、初めて頼まれた仕事をちゃんとやった。

 上手くできるかわからないけど、それでも一生懸命取り組んだ。


 そしたらなんとかまとめられて。

 部長にもちょっとだけ褒められて。


 ——なんでだろ、嬉しい……。

 

 こんな気持ち初めて。

 誰かに褒められるのがこんなにも嬉しいなんて。

 私は今まで全然知らなかった。


 今まではずっと楽したいとか、そんなことばかり考えてたけど。

 こんな気持ちになれるなら、また仕事をやってみてもいいかもしれない。


 そしたらまた誰かが褒めてくれるかもしれないし。

 周りの人たちだって、私のことを見直してくれるかもしれない。


 会社だけじゃない。

 うちでも私が頑張れば、同居人の彼だって——。


「それじゃ蓮見さん、僕はタバコ吸ってくるから」

「あ、はい。お疲れ様です」

「はい、お疲れー」


 そして部長は、佇む私の前から歩き去って行く。

 その後ろ姿は、いつも見ていたそれとは少し違って見える気がする。


 それはきっと、私が一歩踏み出してみたから。

 勇気を出してやってみたからだと、今なら思える。



 * * *



「えっ!? 桃子結局頼まれた仕事やったの?」


 会社の1階にある社員食堂。

 そこで一緒にお昼を食べていた夏美は、ラーメンをすする手を止めて、意外そうにそう言った。


「なんでいつもみたいに任せなかったの?」


 続けてそう言ってくるあたり、どうやら夏美はかなり驚いてるよう。

 以前までの私だったら、仕事を頼まれたとしても絶対にやらなかったから、当然と言えば当然かも。


「任せてばっかりじゃダメかなって思って」

「ダメかなって……今まではそうしてたじゃん?」

「うん。でもそろそろ私も頑張ろうかなって」


 あくまで真剣に私が言うと、夏美は目を丸くした。

 そして箸で持ち上げていた麺を、ぽちゃりとスープに落とす。


「麺伸びちゃうよ」

「あ、ああ、うん」


 私が指差してそう言うと、夏美はおもむろに麺を口に運ぶ。

 そしてぼーっとした表情のまま、ズルズルとそれをすする。


 ——そんなに驚くことかな……。


 なんとか麺をすすれているみたいだけど。

 それでも今の夏美は、心ここに在らずって感じ。


 いつもは玉子から先に食べるはずなのに。

 今日はまだそれさえも口につけていない。


「夏美? ねえ、夏美?」

「……ん、んっ? ど、どうしたの?」

「いや、どうしたのじゃなくて。ぼーっとしてるけど」

「あ、ああ。なんか色々考えちゃってね」

「色々って?」


 私がそう尋ねると、夏美はどこか遠い目をした。

 そしてしばらく何かを考えて、誤魔化すように笑って見せた。


「ううん、なんでもない。それより桃子も早く食べないと麺伸びちゃうよ」

「あ」


 そうだった。

 人の心配ばっかりしてたけど、私もラーメン食べてるんだった。


 まだ野菜にしか手をつけてなかったし。

 もしかしたらもう、麺伸びちゃってるかも。


「……ん、ちょっと伸びてる」

「ほら、だから言ったじゃん。相変わらず桃子はおバカだなー」


 ケラケラと笑っている夏美は、すっかりいつもの調子。

 さっきまでは別人のように悩んでたみたいだけど。

 多分それも大したことじゃなかったみたい。


「そういえばさ、幸太郎くんは元気?」

「え、元気だけど」

「そっか。なら良かった」


 夏美はそう言って、ラーメンをすする。

 しばらく様子を見てたけど、他に何も言ってくる感じはなさそう。


 てっきりまた彼を貸してとか言ってくるのかと思った。

 でもそんなつもりはないみたいだし、ちょっと考えすぎだったかも。


「……ふぅぅ、美味しかったー」

「え、もう食べたの?」

「うん、お腹空いてたからペロッといけちゃった」


 いつも夏美は食べるのが早いけど。

 今日は一段と早かったような気がする。


「桃子も早く食べて。アイス買いに行こうよ」

「ちょっとまって」


 急かしてくる夏美に構わず、私はゆっくり麺をすする。


 早食いするのとか苦手だし。

 そもそも今は、そんなにアイス食べたくないし——。


「桃子ってさ、もしかして少し変わった?」


 突然そんなことを呟いた夏美。

 私はその言葉の意味がわからず、思わず食べる手を止めた。


「変わったってどういうこと?」


 そう聞き返しても、夏美は私をまじまじと見つめている。

 でもその瞳は、しっかりと私のことを捉えていないような気がした。

 私じゃない、どこか遠くを見ているような——。


「夏美?」

「……ううん。やっぱりなんでもない」

「なんでもないって……」

「それよりも私、お水もらってくるね」


 そう言って席を立ち上がった夏美。

 その表情を見る限り、まだ何かに悩んでいるようにも見える。


「桃子のも持ってくるね」

「う、うん。ありがと」


 背中を向けた夏美が、厨房の方へと歩いていく。

 私はその後ろ姿を、じーっと眺めていた。


「ねえ、桃子」

「ん、なに」


 すると不意に立ち止まり、夏美はこちらを振り返る。

 そして小さな笑みを浮かべて、私に向かってこう言った。


「幸太郎くんのこと、大事にしてあげなきゃダメだよ?」


 それはあくまでも普通の気遣いの言葉。

 同居人の彼をいたわってのものに聞こえた。


「うん」


 私が頷いて見せると、今度はニコッと笑って再び歩き出す。

 夏美が突然そんなことを言った理由はわからないけど。

 誰かに言われなくても、私は彼を大事に思っているつもり。


 あとどれくらいの間一緒にいれるかわからない。

 でも一緒にいれる間は、ずっと彼のことを大切にしたいって思ってる。

 

 きっと夏美も心配してくれてるんだと思う。

 いつもは適当で呑気な彼女だけど。

 それでも私のたった1人の親友だから。

 

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