第25話 蓮見さんと夏美さん3

「それじゃ蓮見さん、留守番お願いしますね」


 そう言うと彼は、夏美と一緒に買い出しへと出かけた。

 1人部屋に残された私は、特にすることもない。


 お酒はもうほとんど残ってないし。

 酔っ払っているせいか、ゲームをする気も起きてこない。


 ——私ももっとお酒欲しいな。


 どうせ買い出しに行くなら、私の分も買ってきてもらうんだった。

 多分夏美は、帰ってきてからも飲むだろうし。

 ここまで飲み進めて気がついたけど、正直私も少し飲み足りない。


「……はあ、誰もいない」


 さっきまでは賑やかだったのに、今はすごく静かだ。


 部屋の中には私しかいないし。

 窓から吹き込んでいた風の音も、もう聞こえてはこない。


 彼は15分くらいで戻るって言ってたけど。

 ホントにそのくらいで帰ってくるかな。


「んー、何してよ」


 部屋の中を見渡してみたけど、特にすることはなさそう。

 寝ようかなとも思ったけど、今はまだあんまり眠くないし。

 空いたお皿だって、彼が帰ってきたら綺麗に洗ってくれるだろうし——。


「……これ私が洗ったら、あの人喜ぶかな」


 ふと、そんなことを思った。

 いつもは私がやらなくても、彼が全てやってくれる。

 だから私は気にせずゲームしてられるし、のんびりしたりできる。


 手伝ってくださいって口うるさく言うけど。

 それでも彼は一度足りとも、家事をサボったりしたことはない。


 でも——。


 でももし彼がそれを嫌がっていたとしたら。

 私という存在に嫌気がさしているのだとしたら——。


「……あれ……私……」


 なんでだろ。

 ふと考えてしまった妄想のせいで、すごく心が痛んでいる気がする。


 いつもは何も考えず、彼に全てを任せるのに。

 それが当たり前のことだと思っていたはずなのに。


 でも今は、どうしてかすごく心が痛い。

 モヤモヤした感覚が張り付いて、全然離れてくれない。


「おかしい……でも」


 こんな感覚は初めてで、どうするのが正しいのかなんてわからない。


 けど、私も何かしなきゃって思う。

 帰ってきた彼に、お皿を洗ってもらうんじゃなくて。

 彼が帰ってくるまでに、私がお皿を洗わなきゃって——。


「洗剤って、これでいいのかな……」


 気がつけば私は、台所に立っていた。

 部屋のテーブルに並んでいた空皿を全て流し台に運び。

 台所に置かれていた緑色のタワシに、洗剤を馴染ませてみる。


「あとはこれでお皿を……」


 食器を洗ったことなんて一度もないけど。

 多分このアワアワしたタワシで、お皿を擦ればいいんだと思う。


『ゴシゴシゴシ』


 左手でお皿を持って、右手のタワシでお皿を磨いていく。

 なんか思ってたよりも泡の量が多いような気がするけど。

 多分後から水で洗えば、綺麗に落ちてくれると思う。


「あっ」


 今気がついたけど、ジャージの袖がびちゃびちゃになってた。

 そういえば彼は、洗い物をする時は袖をまくっていたし。

 そうした方が、水に濡れなくていいのかも。


「えっと……とりあえずお皿を置いて……」


 ジャージの袖をまくるために、私は一度泡のついたお皿を置いた。

 そして手についていた泡を綺麗に水で流し、洗面台の下にかけてあるタオルで水気を拭いてから、最後に濡れてしまっていた袖を肘のあたりまでまくった。


「これでよしっ」


 袖をまくったので、もうジャージが濡れる心配はない。

 2人が帰ってくるのはもうそろそろだと思うし。

 手早く残りのお皿を洗っちゃおう。


 そう思った私が再度お皿を手に持った。

 そして右手に持ったタワシで、ゴシゴシしようと力を入れた瞬間。


『バリーン!!!!』


 左手に持っていたお皿が手を離れ、そのまま床へと勢い良く落ちた。

 するとその落ちたお皿は、耳に刺さるような大きな音を立て、元の形もわからないくらいバラバラに割れてしまった。


「ああ……」


 床に散らばる白い破片と一緒に、石鹸の泡も飛び散っている。

 多分洗おうとして力を入れた時に、手が滑って落としちゃったんだ。


「どうしよう……」


 お皿を洗おうとしたのに、まさかこんなことになるなんて。

 2人が帰ってくる前に片付けて、少しでも驚いてもらおうと思ったけど。

 やっぱり私には、無理だったのかな……。


『桃子なら絶対できるって!』


 途方に暮れていた私の脳裏に、なぜか夏美の言葉が蘇る。

 今のは確か、夏美と一緒に夜道を歩ってた時の——。


『私もそんな同居人ほしーなー。ねえ、今度私にも貸してよ!』


 また。

 今度は同居人の彼を貸して欲しいと言われた時の——。


『やっぱり羨ましいなー。ねえ桃子、この子うちにも貸して!』


 また。

 またそうやって夏美は、私から彼を奪いたがる。

 羨ましいって言って、彼を自分の元に置きたがる……。


 ——そういえば前にも……。


 ふと思い返してみれば、夏美は昔からこうだった。


 あれは少し前の会社での出来事。

 確か私が部長から仕事を頼まれた時だったと思う。


 あの時夏美はいつものように私の机に遊びに来て。

 任された仕事をしていた私に向かってこう言ったんだ。


『仕事がだるいならさ。任せちゃえばいいんだよ』

『え、任せるって?』

『ほら、課長とか係長とか、他にもたくさんいるじゃん』

『でも、一応私は年下だし』

『もうー、わかってないな桃子は……』


 ——男はうまく利用した方がいいよ。


 そう言われたあの日。

 私は結局任された仕事をやらなかった。

 でもそんな私を誰も責めようとはしなかった。


 部長も、課長も、他の男性社員もみんな。

 私が故意に仕事をしなくても、何も言わず代わりにやってくれた。


 だから私はみんなに甘えて、今日だって頼まれた仕事をやらなかった。

 私がやらなくても誰かがやってくれるからそれでいい。

 あの時夏美に言われた言葉は、正しいものだったんだって。

 そう思っていたのだけど……。


 でも。

 今その言葉を思い返すと、なぜか不安ばかりが湧き上がってくる。

 うまく利用した方がいいという夏美の言葉が、ひどく恐ろしく感じられる。


 ——もしかして私……。


 今までは気づかないふりをしていたけど私……。

 私は彼といる時も、そうやって全てを押し付けてきた。

 自分がやらなくても彼がやってくれるという気持ちがあったから。


 でも今思うと、それは良くないことだったんじゃないかな。

 それでもし彼が嫌がってたら、もう私となんて暮らしたくないんじゃないかな。


『——ねえ桃子、この子うちにも貸して!』


 再び夏美の言葉が蘇って来た時には、私はすでに走り出していた。

 このまま私が待っていても、彼はもう帰ってこないかもしれない。

 私との生活に嫌気がさして、夏美のところに行ってしまうかもしれない。


 ——そんなのは嫌だ……。


 私は彼と一緒に暮らしていたい。

 1人ぼっちになるのはすごく嫌だ。


 これからは言われた通りお手伝いもする。

 知らない人について行ったりもしない。


 だから——。


 だから私から彼を取らないで。

 だって彼は、たった1人の私の同居人なんだから——。


「——待って!」


 2人を見つけたのは、うちを出てすぐの場所。

 それが彼だとわかった瞬間、私の思いは声となり、薄暗い夜道に響いていた。

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