第19話 アルバイターと社会人1
労働とは——。
それは人間が自然に働きかけて、価値ある対象を作り出す活動のことを言う。
人のため。
お金のため。
有意義な時間のため。
生み出される価値の中にも様々なものが存在し、それは決して一つではない。
例え似通った価値観だろうと、そこには必ず差異がある。
ある人は家族と旅行に行くためにお金を稼ぐ。
またまたある人は自分の趣味を全うするためにお金を稼ぐ。
このように両者は"お金"という材を求めて労働をしているわけだが、その生み出した価値を向ける先が、この場合だと全くもって違う。
前者は家族のために。
後者は自分のために。
この価値の向ける先の違いが、労働者1人1人の目的の違い。
そしてその目的こそが、人を労働へと導く動力源になっているのだ。
人が労働をする上で、そういった目的は大切な要素の一つ。
己の中で確かな目的を掲げているからこそ、人は労働する。
労働するからこそ、人は自分の目的を果たすことができる。
つまり労働という概念は、人と目的の架け橋のようなもの。
どちらが欠けても成り立つことのない、生きるための材なのだ。
とはいえ、労働が必ずしも望まれていることとは限らない。
労働者の多くは、それに縛られない自由な時間を求めていることだろう。
もちろんそれは当たり前のことで、俺だってそう思ってる中の1人だ。
しかしそんなに甘くないのが現実というもの。
なぜなら人は、労働をしなければ生きていくことができないから。
"働かざる者食うべからず"と言うように、働かなければ満足に飯も食えない。
つまり何が言いたいかというと。
俺もそろそろバイトを始めないと、生活費がやばいのだ。
蓮見さんと一緒に住んでいるおかげで、ある程度の出費は軽減されている。
しかしいつまでも高校時代に稼いだお金だけで、生活していけるわけもない。
生活費。家賃。学費。その他諸々。
お金の問題を解決するには、働くしかない。
ということで俺は今日から、現役大学生アルバイターになる。
* * *
「佐久間くん、次マグロよろしくね」
そう言って店長は、俺にマグロの切り身を渡してくる。
それは何の変哲もない、スーパーでよく見かけるようなマグロだ。
「あ、厚さは5ミリくらいでいいから」
今指示されたのは、おそらくは切るときの厚さだろう。
まだ入って初日の俺に、そこまで細かく言われても困るのだが。
——てか5ミリってちょっと薄すぎやしないか?
居酒屋で出される刺身なんて、どこもそのくらいなんだろうけど。
だとしてももう少しサービスしてあげてもいいんじゃないかと思う。
「あ、店長。斜めに切った方がいいとかありますかね」
「うーん、まあどっちでもいいかな。任せるよ」
俺が質問しても、店長は「任せるよ」の一言で済ませようとする。
そもそも俺はまだ新人で、この店のルールとか何も知らないんだけど。
——任せないで教えてくれよ。
なんて胸の内で言ったところで、店長に伝わるわけもなく。
このまま何もしないわけにもいかないので、とりあえず俺は包丁を手に持ってみることにした。
「それじゃ、とりあえずまっすぐで」
「うん、よろしくねー」
——ったくこのオヤジ!
とは思いつつも、俺は素直に言われた通りにする。
マグロの切り身の先端部分から約5ミリ。
その辺りに拳を置き、垂直になるよう包丁を合わせる。
そしてゆっくりと手前に引くようにしてマグロを捌いていく。
「おっ。佐久間くん、切り方上手いね」
「そ、そうですかね」
「いやー、大したもんだよ。刺身って意外と切るの難しんだけどね」
「ははっ、ありがとうございます」
なんか知らないけど褒められた。
別にこれくらい誰だってできると思うけど。
「他のバイトの子にやらせるといつも身を崩しちゃうんだよ」
「え、身を崩すってどういうことですか」
「ほら、力を入れすぎてこう……グチャッと」
「ああ」
確かにそういうミスは起こりがちだ。
俺もよく小学生の時は、せっかく買った刺身をボロボロにしてたな。
そして母ちゃんに怒られるまでがワンセットだった……。
ってか俺、そういや小学生で刺身切らされてたよ。
今思うとあれはちょっと鬼畜だったぞ母ちゃん——!
「佐久間くんは料理とかよくするのかい?」
「は、はい。昔はよく母の手伝いでやらされてました」
「そうかい。それは頼りになるねぇ」
「いえ、それほどでも」
なんて謙虚を装ってはみたが、俺とて褒められるのは嬉しい。
本当ならもっと大きな声で「でしょ!!」って言ってやりたかった。
まあ俺の品格が下がるから、そんな真似は絶対にしないが——。
「あの子も君くらい器用だといいんだけどねー」
「あの子……」
というと、おそらくはここで働くバイトの人だろう。
あの刺身をぐちゃぐちゃにするっていう。
「今度切り方教えてあげてくれないかな?」
「えっ、俺がですか?」
「そうそう。歳も佐久間くんと同じくらいだし、気が合うと思うよ」
「いや、気が合うって……」
何を言うかと思えばこのオヤジ。
俺に刺身の切り方を人に教えろと。
——勘弁してくれ……。
何たって俺は新人なんだぞ。
そんな奴に教えられては、相手も気分が悪いだろうに。
それに俺はあまり人と話すのが得意じゃない。
相手が同じ年頃の奴ならなおさらそうだ。
大学でもろくに友達はいないし。
今までだって同級生とろくに話したことがない。
そんな俺に教えを乞うても、おそらくは無駄だと思うが——。
「今度紹介するから、仲良くしてあげてね」
なんて呑気に言っている店長は、何も知らないのだろう。
今だって謎の笑顔で料理を作っているし。
——ちっとはこっちの身にもなれや!
と心の中で叫びつつ。
俺は精一杯の苦笑を浮かべてこう言った。
「喜んで」
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