2-6
心を落ち着かせるための行動というのは、人それぞれ個性が良く出るものだと思う。
あるスポーツマンはいつものジョギングコースを走り、ある僧職は瞑想をし、またある会社員は喫煙室でタバコを吸うと言う。紙に向かって筆を執る者もいれば、我を忘れるほど激しく踊るダンサーもいるだろうし、単に目を閉じて深呼吸をすると答える誰かもいる。
俺にとってのそれは、おそらくヘッドフォンでお気に入りのバンドの曲を聴くというものだ。
だから今、部屋の中でそのアルバムを聴いていた。コンセプトアルバムというもので、一連のテーマや物語に沿って曲が続いていく音楽の映画のようなものだ。ハードロック、細かく言えばプログレッシブロックの類なので、静と動が適度に展開する起伏の激しい流れの中を、たゆたうように美しいメロディが奏でられてゆく。
その音の洪水の中にただ身を委ねて漂うように浸っていると、どんな乱れた心情も忘れて穏やかになってゆける。
楠木の衝撃の仮説を聞いてから、ずっとそのことを考えながら帰宅したが、どうしても心が落ち着かなかった。ゆえに、リラックスするために音楽を聴いているというわけだ。
弐姫は壱姫の分身であるという仮説。
果たしてそんなことがあり得るかどうか。冷静になってきた頭で、改めて考えてみる。
そもそも、壱姫に姉妹がいるならば、そんな仮説も消滅する。戸籍謄本などで確認できるのではないかと思ったのだが、花巻曰く「セキリティが甘い日本でも、そこらへんはクリティカルなプライバシーだから簡単にはハックできないんだゼ?」と否定された。そう簡単にはいかないようだ。
やはり検討する必要がある。
楠木の言う仮説の詳細というのは以下のようなものだった。
弐姫は何らかの事情で葉上壱姫から分離した精神エネルギーの存在で、容姿が似ているのはそのため。記憶がないのは、その事情に関係していて、おそらくは精神的なゆらぎ、不安定さから生み出されたと思われる。そんな不完全な分離状態なので、弐姫は自身が死んだと思っており、その半端さゆえに仮転生体と誤認されている。
現実世界で一般人に視認されないのも、その存在の不確かさに起因する。
一方で、俺だけが弐姫を認識できていることから、葉上壱姫の方と何らかのつながりがあると推測されるが、俺自身にその心当たりがないので、壱姫の方で何か俺と接点があるか、関与している可能性がある。
また、壱姫は弐姫のことを自覚している様子はないので、弐姫を生み出した経緯に関しては、多重人格のケースのように精神的な負荷がかかって、無意識的に切り離した可能性が高い。ゆえに壱姫自身はその記憶を忘れているか、切り離した弐姫に押し付けたと考えられるが、その記憶も弐姫が忘れていることを考えると、分身さえも同様の負荷を感じるほどの何かがあったと推測される。
それらの要因を鑑みると、葉上壱姫には何か重大な事柄、事故または事件の類が過去にあって、それを突き止めることが先決になる、という結論だった。
理にかなっていなくもない、か。筋は通っている気はする。
もともと、常識外の事象に関する謎であるため、現実世界の法則やら物証やらはあまり当てにはならない。その点では、楠木の仮説のように、最初に答え在りきで、他の要因がそこにマッチするかどうかで確度を上げていく方法は正しいアプローチに思える。ただし、その場合は可能性の有無で点と線をつなげるしかないため、こじつけや『絶対にないとは言えない』という悪魔の証明的なもので外堀を埋められるため、都合よく解釈できてしまう欠点もある。要するに、後付けでこういう意味なら納得できるだろうという、利己的な主観である程度のことが説明できてしまう。
けれど、客観性の欠如が危ういとは思いつつも、未知の現象に確定事項がない以上、結局は最も可能性の高い推測でしか語れない事柄でもある。先例の事実がない以上、最終的には納得のいく形で何を信じられるか、といった落とし所しかない。
楠木の仮説に納得できるのかと考えてみると、ある程度は腑に落ちる。大きな破綻はなく、それぞれの説明も可能性としては否定できない。
だが、何かが引っかかっていた。
弐姫が精神エネルギーであることはいい。そのような存在があるかもしれないことは受け入れられる。人には不可思議なパワーがある系の漫画等の設定によく出てくる感情エネルギー万能説は、火事場の馬鹿力的な根性論というか、精神論で有り得なくはないという納得感がある。
けれど、壱姫と弐姫が同一の存在で、分離したものだという推論と説明に違和感があった。百歩譲ってそうだったとして、切り離した弐姫に記憶がないのが解せない。壱姫の精神から何らかの負荷を受けて生まれたのなら、その負の部分を引き取った存在であるはずなので、その核とも言うべき部分を記憶喪失なんて形で忘れているということが有り得るだろうか。
楠木の言い分では、分離した弐姫にとっても負荷が強すぎた何かがあったということだが、弐姫がそのために生まれたのなら、存在理由が曖昧になった時点で消えてしまいそうな気がする。
推論に憶測を重ねても意味はないとは思うが、個人的にピースがハマらないと感じていた。
「何にせよ、壱姫に起こったとされる重大な事柄とやらがないと全部パーか……」
ヘッドフォンを外し、平静さを取り戻したところで、俺はひとりごちる。
思わず声に出していたが、独り言はよくあるので気にすることじゃない。それよりも、次に考えなくてはならないことがあった。
楠木が推論を披露した後で提案してきたことだ。
いつもの口調で、真面目な探偵が言い放った言葉が脳裏に響く。
「そういうことなので、弐姫さんよりも先に秋留さんが壱姫さんと会うべきだと思います」
それはまったく予想外の事態だった。
俺かよ、と思わずにいられなかった。
だいたい、弐姫も弐姫だ。自身にそっくりな人物が登場してきたのだから、当然興味を持って早く会いたいと思うのが普通じゃないだろうか。ところが、そういう要求は一切しないどころか、こちらから話を振らない限りそこには触れないような態度で、最近は箒と枕についてよく分からない考察をしているばかりだった。
こちらも、現時点で壱姫と弐姫の関係性がよく分かっていない以上、引き合わせることのメリットとデメリットの天秤で保留にしておきたい気持ちが強いので、深くは追及しないでいた。
そんな不安定な均衡を破るためにも、楠木の提案は必要な一手なのかもしれない。
けれど、俺自身は正直、あまり気が進まなかったと言わざるを得ない。
……三十路前だろうと何だろうと、なかなかの人見知り系男子なので。
二人以上いる場での沈黙には2つの種類があると思う。
一つは、それぞれが暗黙の了解で何も言わなくてもいい雰囲気を醸し出しているとき。気心が知れた仲間内などでは度々そういう時間の流れが起きる。ある種、心地よい沈黙ともいえる。
もう一つは誰も話すべきことがなく、何を切り出していいか分からないという微妙な空気のときだ。大概、初対面同士の不器用な人間の間で起こる連鎖反応に近い。聞き手主体のタイプである人間がかち合うと、話を振る役がいないことで話題のきっかけが生まれないという悪循環に陥る。どこからか話題のスイッチが入れば、それなりに話に合わせて会話を持たせられる技術があっても、肝心の始まりがないとどうしようもない。奥手だったり、小心者同士である人間が対峙するとままある状況だ。
そして今、確実に後者の方だと言える沈黙が横たわっていた。
俺と葉上壱姫は、閑静な喫茶店のテーブル席で、黙ったままそれぞれの飲み物を口に運んでいた。コーヒーと紅茶と言う違いはあれど、お互いにその味を楽しんでいる余裕はない状況だ。軽く名を名乗って挨拶をしてから、かれこれ3分ほどの時間が過ぎ去っていた。
当然、その間は無言だ。視線も交わさない、というか交わせない。互いに盗み見るように過る程度で、合わせたら負けとばかりに固定はしない。あるいは、それができれば何か会話の糸口にもなりそうではあったが。
元来、俺はおしゃべりではないし、話を振るタイプでもない。こちらから目的があって呼び出したのなら、前もって話題の展開を考えて語りかけることもできるが、今回はそうじゃない。かといって、壱姫の方も招集された側であり、俺と立場は変わらない。
では、今回のセッティングをした主催者はと言えば、ここにはいなかった。楠木は時間と場所を指定して、後から合流するとだけ伝えてきた。俺はすぐに来るものだと思っていたが、どうやら後からというのはかなりの時間的猶予を見積もったものらしい。
おそらく、その予想は壱姫も同じだったのだろう。時折、窓から喫茶店に入ってくる客を見つめている仕草が見られた。
お互いに楠木待ちという態勢に入っていたのだ。
多分それを分かっているからこそ、「楠木、遅いな」「そうですね」という掛け合いさえ、俺たちは声に出せずにいた。分かり切ったやりとりで、二言三言で終わってしまってしまうことが痛いほど見えていたからだ。
せめて他の客の喧騒や陽気なポップスでも店内にかかっていればマシだったのだろうが、生憎とチェーン店とは程遠い小洒落た喫茶店で、静かなジャズが控えめに流れ、まばらな客も個人で本を読んでいるような静寂空間であるため、外部による雰囲気の手助けは見込めなかった。
壱姫の容姿は、写真で見るよりもずっと弐姫と酷似していたが、纏う雰囲気はまるで違った。弐姫のどこかふわっとした感じではなく、凛とした佇まいというか姿勢の良さ、清廉潔白とした趣が滲み出ていた。着ているのが制服というのもあるし、緊張がそう見せている面も否めないが。
ともあれ、このまま黙っているわけにもいかない。
立場は同じといえど、曲がりなりにも俺は大人で向こうはまだ高校生だ。こちらで気遣ってやるのが年長者の務めではある。そう分かってはいるが、大人だって得手不得手というものがあり、年齢だけで役割を押し付けるのもいかがなものか。これが一世一代の大事な場面であるならまだしも、日常の一コマに過ぎないのならそれほど無理をしなくても誰も責められまい。否、責められてたまるか。
などど、いくら自己弁護したって意味はない。
かろうじて場を持たすコーヒーすら、もう半分を切っている。膠着した局面を切り開かねばならない。
話題に困ったら、まずは天気の話をして場をつなげとはよく聞く話だ。無難な会話術のとっかかりとしてどこでも紹介されてはいるが、実際にそれが通用するのは、相手が話を広げてくれる気の利いた人間、あるいはその会話スキルが高い場合だけだ。
会話下手な二人がこのまやかしに手を出すと、「今日は天気がいいですね」「そうですね」「明日は雨だそうですよ」「そうなんですか」という無味乾燥で平坦な相槌で終わってしまう。とりあえず無難に、反射的に答えてしまうのが会話下手の特徴であるからだ。話を広げるチャンスだったと後から気づいても後の祭りだ。
ゆえに、ここはオタクロジックでいくしかない。
好きなこと、趣味についてだけはよくしゃべるというアレだ。
俺が知っている壱姫の情報は少ない。選択は一択だった。
「あー、そういえば、剣道をやっているらしいな。昔から疑問に思っていたことがあるんだが、一つ聞いてもいいか?」
質問することを尋ねるという前口上ほど無駄なものはないと思いつつも、多少でも会話を長く持たせるための姑息な手をつかわずにはいられない。共に一行で終わる会話を避けるためだ。やむを得ない。
「え?あ、はい、どうぞ……」
予想外の切り口だったのか、一瞬驚いた顔をした壱姫は、質問を受諾した。雑談してくるとは思っていなかったのだろう。
「剣道着というか、防具ってやっぱり臭いのか?」
「……」
なんだか微妙な視線を向けられてしまった。
普通に疑問だっただけなんだが、もしかして地雷を踏んだのだろうか。運動部の女子に投げる質問ではないと分かってはいたが、他に機会もなさそうなので仕方がない。聞ける相手に聞いておくのが俺の主義だ。真の男女機会均等法を実践するものである。何か違う気もするが、まぁ、いいだろう。
「いや、別に深い意味はないんだ。昔からよく剣道=臭いイメージというか、そういう話をよく聞くけど、まわりに剣道をやってるやつがいなかったから、本当かどうか気になってただけで。それに、ほら、昔はそうでも今は防具とかも新しいタイプとかがあって、そうでもないとか、最近の実情というか、実際はどうなんだろうってちょっと気になっただけなんだが……」
本当のところを言えば、それほど気になってはいない。ただ、剣道というキーワードで、俺が連想できるものがそんなことぐらいしかないという貧困な知識が原因だった。
「……スポーツであれば、程度の差はあれど皆汗をかきます。ただ、剣道の場合はその汗が防具と密着する時間が長いので、そこで雑菌等と結びついて特有の匂いがあるのは事実です。一般的に言われている印象は、そうした防具を除菌しないで放置している場合のもので、清潔に保っていればそこまでひどくはありません」
「雑菌……臭いってのはそこから来てるのか。なるほど、知らなかったな。けど、防具ってあの面とか、丸洗いできるもんなのか?」
「できなくもないですが、丸洗いとなると素人には難しいので、業者に頼んだ方が傷まないですし確実です。面などは濡れタオルなどで中をよく拭いて、陰干しすると大分違います……剣道に興味があるんですか?」
「ああ、いや、なんとなく疑問に思ってただけなんだ。君は結構強いんだってな。剣道とか、なかなか女の子がやろうとは思わない部活だと思うけど、昔から好きだったとか?」
内容はともかく、思ったより会話が続いているのでよしとしよう。やはり、好きな部類の話なら会話のキャッチボールができる。俺の方がかなり怪しいのはアレだが。
「剣道は……中学の時に先輩から勧められて。なんとなくで続けていたら、そこそこできるようにはなったんですが、もう一歩先には行けそうにありませんね……」
「それはスランプとか?」
「いえ。そういうことではなく、多分、剣道そのものの捉え方で迷いがあるのだと思います。スポーツか武道か、今時精神論なんてと思いもしますが、考え出すと色々と思うことがあったりで……」
「武道……なるほど……」
軽く振ったつもりの剣道話だったが、思ったよりも深いところへ切り込んでしまったようだ。壱姫は真面目な人間なのだろう。普通、初対面の人間に漏らすような内容ではなくなっているが、質疑応答の中で素直に自分の中の葛藤を吐露してしまったようだ。
その辺りに気づいたのか、慌てて話を戻してきた。
「あ、すみません。いきなりこんなこと言われても困りますよね。えっと、気にしないでください。その、つまり、剣道をやっているからといって匂うということはなくて、ちゃんと防具をメンテナンスして清潔に保っていれば、問題はないってことです。ただ、それでもちょっとは、その、他と比べれば、多少は匂いがきついかもしれませんけど……」
最後に結局、臭いことは臭いというニュアンスを否定しないところは、壱姫の実直さが滲み出ていた。
「そうか。いや、変なことを聞いて悪かった。ちょっとすっきりしたぜ」
どうにか間を持たせたものの、話の一区切りがついたところでまた沈黙が迫っていた。
そもそも、今回の目的はもう果たされたと言っても過言ではない。壱姫が俺と対面して、最初から何も反応しなかったということは、俺たちに接点がなかったという証左だ。もちろん、どこかで会った気がするが思い出せないというような淡い記憶しかなくて、何も言ってこないという可能性もあるが、今のところその兆候は見られない。
楠木の仮説の一つは、儚く崩れ去ったと見るべきなんじゃないだろうか。根底を覆すほどではないので、決定的な綻びではないが、俺にとっては残念な結果だ。未だに、弐姫とのつながりが見えない点で何の進展もない。
このもどかしさは、思っているよりもストレスになっている気がした。
「それにしても、剣道をたしなむ人間に先ほどの質問は少しデリカシーが足りないと思います。気を付けた方がいいですよ」
少しは緊張が取れたのか、壱姫の方から話しかけてきた。年上に対して諭すようなことを言ってくる辺り、慣れれば物怖じしない性格のようだ。
「ああ、すまない。俺自身鼻がバカなもんで、そういうのに疎いんだ。エレベーターですかしっぺとかされても気にしないしな」
「えっと、そういうところの注意なんですが……」
「ん?あっと、そうか。女の子相手に屁とか臭いとか確かにないな……」
「いえ、だからもういいですから……ふふっ、どんどん深みにはまってますよ」
言葉を重ねるほどドツボにはまった俺の失言に、ふっと壱姫が笑顔をこぼした。
その笑顔は驚くほど弐姫のそれに似ていてはっとしたが、同時に何かが違った。あの屈託のない笑顔と比べて、壱姫のそれは憂いというかどこか陰りが感じられた。陰気な笑顔というわけではなく、それはあってしかるべき影であり、当然の陰陽というか当たり前のものに思えた。
翻って、弐姫のあの天真爛漫すぎる笑顔こそ、人間離れしたものに近いのではないかと気づく。無邪気と言えばそれまでだが、それなりに年齢を重ねた人間のものとは思えない。大分慣れてきてしまったせいか感覚はマヒしているが、最初に見た時の驚きを改めて思い出す。
そしてそれは、心のどこかに引っかかっている何かを意識させた。とても大事なもののようでいて、曖昧模糊としてつかみきれない。
そう悶々としているところへ、タイミングがいいのか悪いのか、楠木がようやく姿を現した。
「遅れてしまい申し訳ありません。助手見習いもどきが言うことを聞かなかったもので――」
「違う違う、れっきとした助手。正式、公式、公認だべよ。見習いでももどきでもねーし。つか、その肩書で呼ぶなし」
謝罪から入った眼鏡探偵の背後から、花巻が顔を出して、一気に場は騒がしくなったのだった。
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