死亡証明
南無参
プロローグ
面倒なことが嫌いだ。
毎日はすべからく平穏に過ぎるべきで、余計なスリルやハプニングなど必要ない。
退屈で死にそうだなどと言う輩は、勝手に余所でやって欲しい。
俺の世界にはまったくもって不要だ。
しかしながら、そんな平凡万歳な日常を脅かす存在は、少し歩けば石につまづくくらい世の中には溢れている。どんなにこちらが避けても、わざわざぶつかりに来る迷惑なものは無数にある。
とりわけ、人間関係というものは厄介で、俺が譲歩して片隅で小さくなっていようと、容赦なくそのちっぽけなスペースさえ奪いに来る。
ある日、そうした理不尽な暴風が俺から職を奪った。
詳細は面倒なので省くが、結論的には面倒な人間に目をつけられたという一言に尽きる。こちらに正義はあれど、双方の立場や社会的情勢、会社的配慮等の複雑な条件が絡み合って、抗うほど厄介でややこしいことになるので潔く身を引いた。触らぬ神に祟りなし、というよりは祟られる前に逃げ出すが勝ち、か。
そういうわけであっさりと無職になり、さて、次の仕事はどうするかと考えていた。
まだかろうじて三十路前の29歳。
特に一芸があるわけではないが、平均よりやや高評価の大学出身で借金を抱えているわけでもなし、高望みをしなければまた再就職はできるだろう。さりとて、急いで何かを探す気にもなれないのも事実。やりたいことも特にないまま、視界に入ったレールにたまたま乗って流れてきたような人生だ。ステップバイステップで目指すべきゴールもなかった。
働かなければ生きていけないとは良く言うが、それは長期的な話であって、ある程度の貯蓄があれば当てはまらない話だ。
仕事、職業、労働。必須なように思わされているだけな気がしてならない。少し離れてみれば、それが事実ではないことは分かる。まぁ、生活基準の閾値の設定にもよるだろうが、高望みさえしなければ最低限の文化生活は成立し得る。
ただ、他人との接点頻度が落ちるのは確かだろう。何らかの社会的組織に属していなければ、個人的な知り合いとのつながりのみが基盤となる。否応なく、誰かと接触しなければならない会社や学校等に通う行為がなくなるのだから当然だ。
他人と何かしらつながっていないと不安になるような性格だときついかもしれない。
けれど、俺は一人でいるのは苦痛じゃなかった。無理に誰かに合わせているよりは、一人でいた方が楽だ。他人とのコミュニケーションは疲れる。仕事をする以上、ある程度の人間関係は必須になるので、その意味ではこの辺でしばし休息を入れるのもいいかもしれないと考えている。
再就職はそれほど急がなくてもいいだろう。
久しぶりに自由な時間ができたので、今日は公園へと散歩に来ていた。既に、隠居した老人の体だが、何ら問題はない。
昼間から炭酸ジュースを片手に、陽気な天気のもと、何も考えずに時間をつぶせるなんてなんという至福の時間だろうか。
現在地の公園は、ちょっとした池もあるなかなか広い敷地の有名所で、カップルや親子連れもちらほら見えるが、平日の昼間ということもあってほどよい人数でうるさくない。これが休日ともなれば、きっと人混みに変わり、これほど寛げはしないところだ。
平和で善きかな、善きかな。
そう一人ごちて、炭酸を呷る。まだ冷えている液体が喉を刺激して、思わずぷはーっと声を上げる。酒飲みならここはビールなのだろうが、生憎とアルコールは受け付けない身体だ。炭酸で丁度良い。財布にも優しい。
ほどよく歩いて身体を動かしたので、ちょっとベンチで休憩をと辺りを見回すと、何かが頭上を横切った。
「ん??」
鳥か何かかと思ったが、どうにも影が大きかった気がした。
ぱっと顔を上げて、目に飛び込んできたものはパンツだった。
んん?
自分が目にしているものがよく分からず、馬鹿みたいに口を開けたまま、しばし固まった。否、見ているものは認識している。白いパンツだ。紛うことなく、スカートの中の白いパンツだ。
ちゃんとパンツから伸びる二本の足も見えている。若そうな肌の健康的な足だ。足フェチではないが、見惚れるほどには綺麗だった。すね毛などない。男のものではないということだ。いや、最近のジェンダーレスな風潮だと、そうとも言い切れないのか。まぁ、それはいい。
問題は、なぜ上を見上げているのに、そんな光景が見えるのか、だ。
ここは地下やエスカレーターの下じゃない。パンチラ盗撮のホットスポットでは決してない。
見上げれば、空しかないはずの場所だ。
ジャンプした瞬間を捕らえたとしても、さすがに身長170センチを軽々と超えてくる人間はそうはいまい。
だいたい、そのパンツは頭上で留まったままだ。つまり、浮いていることになる。
どのくらいそうやって見上げていたのか、はっとして地面を確認する。紛うことなく土がそこにある。いつの間にか、自分が無重力状態になって、上下左右まるっと自由空間なんてことはなかった。しっかりと大地に立っていることを再認識し、念のため目をこすってもう一度見上げる。
間違いない。眩しいくらいにそれはまだ白かった。
幻覚ではない。
変わらずそこには白いパンツが見えた。よく見ると小さなリボンもついている可愛らしいものだ。スカートを履いているのだから、当然女性ものだろうが、改めて再確認してしまった。
「つーか、ありえんだろ!?」
誰に向かってというわけでもなく、ツッコミを入れる。
すると、スカートがふわりと揺れて位置がずれた。そうして上から覗き込むように見えたのは、まだ幼女のようなあどけない表情の少女だった。年の頃は中高生辺りか。見上げているため、背丈が不明で判断がつかない。
そんな彼女の視線と交錯する。
「えっ!?」
その小さな唇からそんな驚きの声が上がる。当然だ、眼下の人間にパンツを見られているのだ。とんでもなく恥ずかしいはずだ。
ところが、少女は赤面するどころかぱっと顔を輝かせると、満面の笑みを浮かべた。
「あなた、わたしが見えるんだよね?」
「あ、ああ?」
パンツは既に見えなくなったが、それまで完全に凝視していたため、俺の方がちょっと気まずくなって顔を逸らしてしまった。まさかの純情中学生か。
「わーお!」
こちらの葛藤などおかまいなしに、少女はふわりと降りてきた。そう、文字通り高度を下げてきた。つまりはやはり、宙に浮かんでいたことになる。そんなバカな。
「あー、やっぱり、ちゃんと見えてるんだ!すごい、すごい!」
さっきからこの子は何を言っているのか。パンツを見てたことがそれほどすごいのか?パンツ凝視選手権にでも、勝手にエントリーされていたとでも?知らずに優勝候補か?
俺の脳裏には馬鹿馬鹿しい大量の疑問符しかなかった。
「ふふふーん、驚いてる、驚いてるね!」
そんなことを言いながら、戸惑う俺のまわりを踊るようにぐるりと回る。その視線はどうにもこそばゆい。どう見ても、商品を品定めしているような視線だったからだ。だが、不思議と嫌な気分じゃない。圧迫面接のような、不躾な上から目線のものとは違い、純粋に興味本位のそれだった。正直、異性からそんな目で見られる機会は、この人生ではほとんどなかった。免疫ゼロである。
「な、何なんだ、一体?」
「えへへー、おじさん、わたしに見覚えはあるかなー?」
ない。ときっぱり断言できたが、それよりも気になることがあって、そちらが先に口に出た。
「まだ、おじさんじゃねぇ」
「えっ?あっ、あははっ、そっちが気になるんだっ!?」
爆笑された。
腹を抱えて少女は笑っている。
けらけらと笑うその笑顔はしかし、天衣無縫、天真爛漫、純真無垢とも言うべき陽気さで、世知辛い世の中にすり切れた心にはあまりにも眩しかった。
これほど満面の笑みという言葉が似合う、暖かな笑顔を見たのは何年ぶりだろう。まだ何も知らない赤子の無垢な笑顔に近いのではないだろうか。
つられてこちらもほっこりしそうになる。
だが、冷静な自分の一部がブレーキをかけて、そんな場合ではないと訴えかける。悲しき大人の性か。
「んで、何の話だ?まさかの逆ナンじゃないよな?」
「うわっ、そっちこそまさかの自信過剰!?人畜無害そうな顔して実はぷれいぼぉい?」
プレイボーイの発音がふざけたものだったので、本気で向こうもそう聞いているのではないことは分かった。単なる軽口の応酬だ。
「真面目な話、何なんだ、お前は?さっき、宙に浮いてなかったか?」
我ながら馬鹿な質問をしていると思ったが、聞かずにはいられなかった。
「あ、うん。それよりもね、大事なことがあるの」
だが、即刻流される。いや、今、否定しなかったような?
現時点でそれよりも大事なことなど、俺には思い当たらないのだが、と心でツッコミを入れていると、更なる爆弾が待っていた。
――あのね、私が死んだかどうか、確認して欲しいの。
んん?
今、何を言われたんだ?一瞬、空耳かと思ったが、目の前の少女は先ほどの笑顔とは打って変わって真剣なものだ。笑顔は笑顔だが、その瞳に宿った光はふざけているそれではなかった。
聞き間違いの類いではなかった。確かに彼女はそう言ったのだ。
死んだかどうか、確認……?
そんなお願いをされて、即答できる人間がいるだろうか。
言葉の意味が浸透するにつれて、ただ困惑しかわき上がってこなかった。
ただ、それでも。
この時、俺の脳裏をよぎったのは、間違いなく面倒なことになるパターンだという確信だった。
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