4-4

 「丁度いいから聞いておきたい。署名ってのは具体的に何だったんだ?」

 夫妻がいない間に、気になっていた点を楠木に問いただした。居間には俺たちしかいない状況なので、何を話題にしても問題はない。

 「やはり気になりますか」

 周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、楠木は更に声を低くした。流石に署名のことは、秘中の秘といったところなのだろう。

 「実はネームプレートのようなものがありまして、そこにある文字が縫い付けられていたのです」

 「ネームプレートって、社員証みたいな名札か?」

 「はい、とはいっても、一般的な社員証のように首からぶら下げるものというよりはパーティションの席とかにはめ込まれる横長のものに近いです。ただし、その土台が人間の皮膚ですが」

 「おぅ……そいつはグロいな」

 確かにそんな情報は一般人は知らない方が良い。悪趣味を通り越して変質的な思考がなければ、そもそもその発想にさえ至らないだろう。何かを暗示しているのだろうか。

 「縫い付けてるってのはつまり、糸か何かで?」

 「鋭いですね、仰る通りです。その文字がまた謎でして、英語でsaintharueと綴られています」

 「セイントハルエ……?聖者ハルエ?そんな歴史上の人物でもいるのか?」

 「いえ、調べてみましたが該当しそうなものはありません。セイントには死者の意味もありますが、ハルエというのが人物ではなく、何かの固有名詞を指しているのかもしれませんし、これだけでは何も分かりません」

 「んむ……けど、わざわざそんなものを残してるからには何か意味がありそうだよな……いや、あるいは捜査を混乱させるためのブラフって可能性もあるか……」

 推理小説における狡猾な犯人の中には、意味のない手がかりのようなものを犯行現場にわざと残して、捜査の攪乱を狙う小賢しい方法がある。調べる方としては、当然何か意味があってそこにあったり、残ったりするものだと考えて行動するため、それを逆手にとった質の悪い悪戯のようなものだ。たとえそれが意味のなさそうなものでも、調査するにあたっては可能性を排除するためにも調べなければならないため、厄介な代物というわけだ。

 「それも考えられなくもないですが、かなり小さなもので手間暇かけているので、何も意味がないとはあまり考えられません。もちろん、それを見越しての無駄な手掛かりという線もあるのですが……」

 結局、どちらとも言えないことに変わりはない。

 「んで、手がかりはそれだけなのか?」

 「残念ながらそのようです。遺体を切断していることは確かなのですが、その凶器もまちまちのようで一貫性はありません。切断面からの推測でも、幅広のナイフのようなもの、ノコギリ、引きちぎったような荒々しいものと、特定ができていません。犯人がわざと変えている可能性もあります」

 「マジか……バラバラにしてるのはさっきの商店街の時みたいに、決まって外なのか?」

 「いえ、それもランダムというか、決まっていないようです。現場の血痕の量や肉片、組織片からその場で凶行が行われたのは商店街の時と、もう一ヵ所のみで、その他は遺体の一部がそこに残されていただけです。ただ、いずれも被害者の血液らしきものは大量に流されていて、ほとんどが致死量に達しているとのことです。解体をその場で行わない場合でも、一部切断からの出血多量でも間違いなく死んでいるとの見解です」

 「ふむ……バラバラにしないまでも、それだけ血が流れてるってことは、ある程度その場にいたってことか。けど、やり口が違うってことは必ずしも様式美じゃない……ますます面倒だな……」

 ある程度、同じ形式で犯行の流れが固定されているのなら、そこから何かを読み取れたりもするものだ。連続殺人犯を追うにあたって、規則性が少ないのは困難のハードルが上がることを意味する。

 推理小説ものでは犯人なりの美学等の設定で、毎回ある行動をとっていたりするヒントがあるものだが、現実はそう甘くないようだ。

 「まぁ、そんな感じで捜査は困窮を極めているといっても過言ではないようです」

 「物証が署名だけじゃ厳しいわな……けど、遺体を一部以外持ち去ってるってのは何とも……それが目的なのかね……」

 「犯人なりの意味が何かしらあるのでしょうが、犯人像がここまで不明瞭だと推測もままならないでしょう」

 確かにこれは厄介な事件のようだ。どんなに優秀な刑事や探偵でも、犯人につながる手がかりが皆無では打つ手がない。

 「ところで、弐姫さんの方はいかがです?今日も連れてくるようなことを仰っていましたが……?」

 「ああ、外をまだ散策してるんじゃないか。一緒には来なかったけど、後で落ち合うようには言ってある。何かしら思い出してるようだが、はっきりとそれを自覚できていない感じだな。何かのきっかけでこう、ぱーっと思い出してくれればいいんだが」

 「ドラマや映画なら、確かに都合のいいタイミングで一気に説明してくれたりしますね」

 苦笑交じりに楠木が言い、自然に眼鏡のフレームをくいっと押し上げた。相変わらず、様になる構図だ。

 「事件の方はまぁ、こちらでも色々動けますし、考えがないわけでもないのでとりあえずはお任せください。ただ――」

 「分かってる、あいつに関してはこっちでなんとかしてみるさ。少なくとも、ここに手がかりはあるんだ。真っ新だった前より格段の進歩だ」

 「はい。お願いします。それと……ああ、戻ってこられたようですね」

 不意に首を巡らせた楠木につられてそちらを見やると、高坂夫妻が静かに居間に入ってきた。

 「中座してすみません。もう大丈夫です」

 「覚悟していたつもりでしたのに、申し訳ありません」

 謝罪しながら元の席に着く。

 「いえ、ご無理はなさらないでください。では、続きをと行きたいところですが、お話しできる情報は今のところすべてお伝えしたかと思いますので、ここからは弐姫さんのお話に切り替えましょうか」

 そう言って楠木が俺に振ると、視線が全部こっちに集まった。

 うぐっと、思わず怯む。注目を集めるのは好きじゃない。例え少人数であろうと、一気にこちらに注意が向けられると、わけもなく落ち着かなくなるのが小心者というものだ。

 とはいえ、ある程度話す内容は考えていたので、狼狽を隠すようにやや早口で切り出した。

 「先日は時間がなかったので色々と有耶無耶なまま終わってしまいましたが、俺たちが探している弐姫という女性は、いや、そう名乗っている子は、実は澪さんの可能性もあります。ただ、前にも説明した通りまったく記憶がないので、確証がない状態です」

 久々に改まった口調で話したが、すらすらと丁寧語に変換できるようだ。社会人経験が活きているな、とよく分からないところで実感する。

割と重大なことをさらりと口にしたが、意図的だった。あまり深く考えられるよりも先に情報を付け加えていくことで、衝撃を和らげる緩和作戦だ。機先を制して暴露したところで、勢いで持ってゆく。

 「あまり情報が複雑だと混乱するかと思いまして、最初の説明では弐姫について少しぼかしましたが、実は弐姫という女性は幼少時に既に他界しています。けれど、俺に見える弐姫は自分のことをそう名乗っているし、容姿も澪さん、あるいは壱姫さんにそっくりなので、こちらでもどうなっているのか調べている、とそんな状況です」

 「ええと、ちょっと待ってください……その、つまり、あなた方が探している女性は、既に死んでいると?しかし、それなら霊魂となっていることに不思議はないのでは?」

 「いえ、でも、幼いころに帰幽しているとしたら、今時分の澪に似ているというのはおかしいんじゃありませんか?と、いうよりも、先ほど澪の可能性があると仰いましたか?」

 夫婦はやはり、弐姫の現状をうまく消化できていない。

 「詰まるところ、その辺りが謎なわけでして、段階的にお話しした方がいいと思った次第です」

 楠木が横から補足をしてくれる。弐姫が澪である可能性や、別人格としての弐姫、澪がなぜか弐姫だと思い込んでいるケースなど、幾つか考えられる推測を説明した。

 「……なるほど、現状ではその霊魂がどういう状態なのか確定できないのですか」

 「でも、その子には澪の記憶があるのでしょう?」

 「記憶と言っていいのかどうかは分からないですが、澪さんしか知り得ないことを口に出したことは事実ですね」

 「ただし、本人はまったくその自覚はないし、自分を弐姫だと思っていることは間違いないと、まぁ、そんな感じで曖昧すぎてちょっとお手上げだったりします」

 俺は溜息交じりにそう告げると、すっかり冷めたお茶を飲み干した。

 「それで、今も外を適当にぶらついているんですが、今日ここに呼んだのはアレです。澪さんの部屋を見せてもらえないかと思いまして……正直、勝手に入って見てこいってのもできるわけですが、一応了解を取るべきだろうと」

 ようやく俺は本題に入った。そう、それこそが今日の俺の目的だった。

 弐姫がこの神社に住んでいたのなら、当然澪の部屋が一番馴染みが深いだろうとの推測だ。記憶を取り戻すきっかけとしては、この上ない場所なはずだった。精神的に多少は落ち着いた今なら、ゴーサインを出しても大丈夫だろう。

 高坂夫妻は顔を見合わせた。どうするべきか、お互いに問いかけている表情だ。だが、心は決まっているようだった。すぐさま頷き合うとと、

 「もちろん、かまいません。部屋は……ずっと手付かずのままになっています」

 「といっても、あの子は本当にモノを置かないというか、余計なものを欲しがらない子だったので、たいしたものはありませんが」

 快く承諾してくれた。

 「ありがとうございます。では、早速呼びます……」

 自分でもよく分からないが、最近は念じれば弐姫を呼び寄せることが可能なことを、違和感なく受け入れていた。超常現象に慣れていくというのはちょっと怖いが、便利でもある。あるいはこれは単なる奇跡的な偶然なのだろうか。

 とにもかくにも、来い来い来いと、花札でもやっているノリで呼んでみると、

 「なぁに、あきるくん?」

 と、頭上からぬっとそれが現れた。

 「んあっ!?」

 思わず変な声が出る。天井から逆さ吊りのような状態で弐姫がこちらを見下ろしていたからだ。

 「おまっ、なんつーとこから出てくるんだよ?」

 「ええっ?こないだ、あきるくんが下から来るなーって言ったから上からにしてみたのにー!わがままだなー、もうー!」

 ぶーぶーと不満を言いながら、弐姫がくるりと回って姿勢を戻すと居間に登場した。今日はワンピース姿ではなく、オーバーオールのような、サロペットのような、いわゆるつなぎ服の類なので、パンチラサービスはない。別に残念がってはいない、うん。

 確か、両方同じものだが、英語かフランス語呼びで分けているだけだったような気もする。ファッション業界はよく分からない、謎過ぎる。そしてそれをチョイスしたのは……まぁ、深く考えないでおこう。

 「それで、神社見て回ってたんだろ?何か思い出せたのか?」

 「うーん、あるよーな、ないよーな?」

 相変わらずふわふわとした返事だった。おそらく、見た覚えがあるような、という意味だろう。正直、そこまで期待してはいなかった。だからこその、部屋の確認だ。キーアイテムとしてはこれ以上のものはない気がしていた。

 「そうか。なら、これから澪さんの部屋を見させてもらう。多分、そこが一番お前の記憶を刺激しそうな場所だからな。OK?」

 「おお、なるほど!一番時間を過ごした場所かもしれないわけだね?おっけー、おっけー。早速見てくるよん」

 そう言って、弐姫は天井を突き抜けて行こうとする。

 「ちょっと待て!見てくるって、お前場所分かるのか?」

 「階段上がって、左のドンツキでしょー?分かるよー」

 「マジか……下見でもしたのか?」

 「えっ、何が?」

 「いや、お前ここ初めて入ったんじゃないのか?」

 「ほぇ?……あー、そー言えば、そうだね……なんで知ってるんだろ?」

 そこで弐姫は顎に手を当てて首をひねった。分かりやすい疑問符のポーズだった。

 考えられる答えは一つだ。無意識下の記憶が、弐姫の中で自然と溢れ出た結果だ。少なくとも、俺にはそう思えた。やはり、ここには何かがある。

 「まぁ、とにかく行ってみろ。後から俺も行く」

 「ほい、ほいー」

 そんなやり取りを終えて視線を下ろすと、苦笑いしている楠木とどこかポカンとしている高坂夫妻の視線に気づく。ナチュラルに弐姫と会話していたが、彼らにはまったく見えていないし、弐姫の声も聞こえてはいない。俺がいきなり、訳の分からない独り言を言い出したようにしか見えないのだ。

 「あー、すみません。その、例の霊魂が今しがた来てですね……」

 「本当にあなたには見えているようですね」

 説明を遮るように吾郎が言った。その顔は、俺が戯言を言っているのではなく、本当にそうなのだと認めているように感じられた。理解があるって素晴らしい。狂人認定されないのは、大変助かる。

 「その霊魂はその、本当に澪にそっくりなのですか?」

 静香が期待のこもった目で問いかけてくる。

 あちらにしてみれば、澪だと思った方が心が安らぐのかもしれない。少なくとも、俺を通じてまた言葉を交わせるという希望を持てる。そんな縋り付くような思いをひしひしと感じて、どうにも座りが悪い。

 話を聞く限り、澪の性格は現在の弐姫とは正反対の大人しいもので、どう考えても生前のそれとは違う。何か理由があってそうなのか、何かから解放されてそうなったのか、そもそも澪かどうかも定かじゃない。変に期待を持たせるのは不本意なのだが、可能性に言及した以上、むげにもできないジレンマもあって、何と答えたものか困ってしまう。

 「まぁ、似ていますが、本人かどうかはまだ……ああ、それよりも澪さんの部屋は階段を上がって左の突き当りで合っていますか?」

 「えっ、確かにそうですが、どうしてそれを?」

 どうにか話を逸らせたようだ。ここに乗じて流すしかない。

 「いや、見てくるといって既に向かったのがそこらしくて。自分らも拝見してよろしいでしょうか?」

 「はい、それはかまいませんが――」

 吾郎の言葉が言い終わらぬ内に、階上からドスンと何やら物音がした。

 「……何の音でしょう?」

 一同が揃って上を見上げる。

 「何か触って落としたのかしら?」

 静香が何気なく言ったが、それは有り得ない。弐姫は現実世界のものに干渉できないのだ。物音など立てられるはずがない。

 「猫か何か飼っていたりします?」

 「え?いえ、うちはペットなどは飼っておりませんが?」

 つまり、異常事態発生だということだ。

 「すみません、すぐ様子を見に行った方がよさそうです」

 「あ、はい。では、こちらへ」

 吾郎が俺の焦りを感じたのか、すぐさま先導して二階へと案内してくれる。高坂家は二階建ての木造建築で築30年辺りの様相だったが、ガタが来てるとは思えないしっかりとした造りだった。隙間風やら何やらで騒音がするとも思えない。

 先ほどの物音はやはり、弐姫が原因のようだ。

 「ここが澪の部屋になります」

 飾り気のない木製の扉を開けて、吾郎が一歩引くと質素な部屋がそこに見えた。花の女子高生の部屋とは思えない、ガランとした印象で勉強机にベッド、本棚とタンス一つという必要最低限といったものしかない。

 普通の人間にはそうとしか思えないが、俺にはそこに弐姫が見えていたので、そういったオブジェクトの感想は一瞬で消し飛んだ。

 「おい、どうした?」

 弐姫がそこに倒れ込んでいた。正確には、横になって浮いていたのだが、意識がないのか目は閉じられていた。丁度本棚の対面で、よく見ると本が一冊落ちていた。これが先ほどの音の正体だろうか。

 とにかく俺は弐姫を抱き起すようにして頬をぺしぺしと叩いてみるが、うんうんとうなるだけで反応は芳しくない。

 「弐姫さんがそこにいるのですか?」

 楠木が背後から声をかけてくる。弐姫の姿が見えないということは、俺が何かを持ち上げているようなパントマイム的な光景が映っているのだろうかと考えて、何か気恥ずかしくなってくる。とんだ一人芝居だ。

 「ああ、よく分からねぇが、意識を失っているみたいだ」

 「ふむ、そこに落ちている本が関係してそうですね……」

 同じ推測に至ったらしい。楠木はそれをひょいと手に取ると、

 「ほぅ、神学大全ですか。失礼、これは澪さんのものですか?」

 「えっ、はい。それは澪を引き取ってから、人間らしさを取り戻すための教育の一環で、初期に読ませていたものです。最初はまったく読めなかったのですが、興味を持ってからは辞書を引きながら熟読するようになって、後にその本のおかげで視界が開けたと、そう言ってくれたものです」

 なるほど、澪に所縁の深いものらしい。けれど、一方で弐姫は現実世界の本などには触れないはずだった。この部屋の整然とした状態からして、元から床に放置されていたとは考えにくい。

 本棚から落ちたと考えるのが妥当だが、一体どうやってそうなったのか。そして、弐姫が意識を失っているのはなぜなのか。

 この二つの事象に因果関係があると見るが、答えは本人から聞くしかなさそうだ。

 「おーい、起きれ」

 更にぺしぺしと頬をはたいてみるが、やはり反応は薄い。というより、その体が段々と透けていってる気がして、はっと気づく。俺が触れていると、弐姫は疲労するのだった。つまり、この状態は逆効果でしかない。

 「おぅっ」

 思わず両手を離して立ち上がる。普通の人間相手なら、そこで相手は落下してひどい有様になるわけだが、弐姫はその限りではない。俺が支える必要もなく、その体は床から30センチほどのところで浮いている。よく見ると、意識はなさそうだが、思っていたより苦しそうな表情というわけでもなく眠っているだけのようにも思えた。

 「んにゅー、あきるくん、そのカレー、おいしそー……」

 それどころか、緊張感のない寝言のようなことをもごもごと口走っていた。能天気極まりない。何かがあったことには違いないが、それほど深刻な事態じゃないのかもしれない。急に冷めてきた。

 「あの、何かあったのですか?」

 弐姫が見えない夫妻には、状況は呑み込めないままに違いない。俺だってよく分からないが、少なくとも倒れている弐姫がいることから推測はできる。

 「うーん、本人の意識がないので何とも言えませんが、どうも、その本を取ろうとしたのか、何かあったのか、それに関係して倒れ込んだみたいで……ここにいるんですが反応がない状態です」

 「ええと……霊魂でも意識を失ったりするんですか?」

 「霊魂という定義というか、よしんばそうだとしてもこれが一般に該当するかどうかも分からないというのが本音で、とにかく弐姫に関しては、そういうこともありますし、疲れると寝るという性質もあります」

 「はぁ、眠るんですか?」

 心底不思議そうに言われる。まぁ、誰もがそう思うだろう。超常現象的な、精神エネルギーみたいな何かが、普通に寝たりすると何か違和感を覚える。一体、何の影響なのか。幽霊は寝ないとか、そういう描写や定義が昔話や漫画系で純然たる様式として根底にあるのだろうか。

 「ふむ……一見したところ、著名なトマス・アクィナスのものを抜粋してまとめたもののようですね」

 パラパラと件の本をめくっていた楠木が呟く。

 まったく知らない人名だったので、尋ねてみる。

 「有名なのか?」

 「神学書としては一番知られているでしょうね。ただ、キリスト教界隈の話なので、無宗教気味な日本人にはあまり知名度はないかもしれません」

 「ん?キリスト教の本ってことか?」

 「はい。澪がまだ御山信仰に偏向していた時期に、とにかく視野を広げるところから始めようと思っていましたので、日本の神とは違いますが、とっかかりとしては神が必須で、更に自分で考える力と言いますか、生きるということの多様性なども含めて哲学的なアプローチとして、神学と哲学という両者を掛け合わせたものなので、最適なのではないかと当時考えまして……」

 吾郎が丁寧に説明してくれる。

 「というのも、当初、澪はまったくこちらの言葉に反応もなく、ただひたすら与えられた御山様への祝詞だけを毎日毎夜、捧げているだけで対話もままならなかったので埒が明かず、ならば同じ読み物ならと、年齢的にはまだまだ難しすぎる本ではありますが、辞書やら辞典やらと共に興味を持つまで辛抱強く働きかけていくしかなかったのです」

 「なるほど、確かに一見無謀なように聞こえますが、理論的には良いアプローチだったと思います。実際、結果も出たようですしね」

 「はい。お陰様でどうにか……」

 御園澪がさながら洗脳のような偏向教育でまともな状態ではないことは聞き及んでいたので、その是正には大変な苦労があったのは想像に難くない。その本が更生の一端を担ったのなら、影響力はかなり高いに違いない。

 そして、その煽りを受けたらしい状況の弐姫を見るに、やはり弐姫と澪の関係性はかなり深いと思われる。

 「ちょっと貸してみてくれないか」

 俺は楠木からその神学大全なる本を受け取る。そこそこ分厚く、重厚な造りだ。これで抜粋ということはオリジナルは巻数が結構あるんじゃないだろうか。後で調べてみるかと思いつつ、俺は思いついたことを実行に移す。

 要するに、この本が弐姫に何らかの影響を与えた元凶であるなら、もう一度やってみれば何か反応で分かるだろうということだ。

 無造作に弐姫に本を近づけてみる。

 バチッ!!

 すると、何かに弾かれたように俺の手は後方へ跳ねた。

 「うおっ!?」

 まるで見えない力に押し戻された感覚だった。静電気の反発力に近いだろうか。

 「どうしました?今、何かに弾かれたように見えましたが」

 「ああ、どうもやっぱりこいつが原因で弐姫は倒れたみたいだな」

 楠木に答えながら、俺はそろそろともう一度弐姫に本を寄せてみると、一定の範囲でやはり押し戻すような見えない力の波を感じた。磁力というか磁場のようなものだ。同時に、それはやはり弐姫のエネルギーを消耗させているようで、その姿が更に透けていってついには消え去った。

 完全に力を使い果たしたのだろう。無意識下でも拒否していたような反応を見るに、何か深い因果関係があるのは明らかだった。

 「……こいつが記憶の鍵になるかもしれねーな……」

 漠然とだが、攻略の糸口を見つけた気分だった。

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死亡証明 南無参 @nyarth

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