第24話 勇者(きみ)の死


 『私』の頬に触れていた名前も知らない男の手が、力を失って崩れ落ちる。

「駄目……」

 私は縋る様に男の手を取ると、地震の命を分け与えるかの如く頬ずりする。

 だがどれだけそうしても、命を失った男の手が動くことはなかった。

 ほんの数秒前まで生きていたのに。

 愚直なまでに自分を貫き、私のために戦っていたのに。

 今は、もう涙を拭ってすらもらえない。

 遺されたのは、思い出と、微笑みだけ。

「……ねえ、逝かないで」

 そう願って見ても、この世界は受け入れてくれない。

 神様は私の願いなど無視するのだ。

「帰ってきて。私のところに」

 私であれば、どれだけ泣いても叫んでも何度でも無理やりに生き返らせるというのに。

 このひとのたった一つの命すら生き返らせてくれない。

「私はあなたの名前も知らないのに」

 そしてこのひとも私の名前を知らない。

 知りもしないのにこのひとは、私のために戦って戦って、最期には自分の命を投げ出したのだ。

「馬鹿……。本当に馬鹿……。なんでこんな事ができるの? 私のために、おかしいよ」

 このひとは死ぬ間際も、苦しんだり後悔したりするより私の事を気にしていた。

 私の涙を拭って、私に笑いかけて、笑みを遺して逝ったのだ。

 私はあなたに何も報いなかったのに。

「あなたが死んでしまったら、私はどうすればいいの? 分からないよ……」

 本当は分かっている。

 死ねばいいのだ、今までの通りに。

 この世界中の人がそう望んでいるのだから。

 魔物を無作為に生み出し続ける迷惑な私を嫌っているのだから。

 ……でも……。

「出来ないよ……。私、もう死ねない。死にたくない。だって死んでしまったら、あなたの努力が無駄になってしまうから。こんな私なのに、あなたは必死に生きろって言ってくれたね。それに生きる楽しさをくれたよね。こんなにも大切な宝物を、私は捨てたくなんかないよ」

 そして私は抱きしめる。胸の中の大事な大事な思い出(たからもの)と、このひとの腕を。

 甘える様に、抱きしめた。

 楽しいときはこのひとが一緒に居てくれた。

 苦しいときはこのひとが笑わせてくれた。

 辛くても、嬉しくても、このひとが居てくれた。このひとが居てくれたから、私の想いでは沢山の感情に溢れたものになったのだ。

「あり……が……とう……」

 楽しい思い出を反芻しているはずなのに、涙が止まらなかった。

 でも、涙は零れ落ちる端からあなたの手が受け止めてくれる。

 私の心を抱きしめてくれる。

「あなたは死んでも私の事を想ってくれているのかな?」

 そうだと私はとても嬉しい。

 そして――ごめんなさい。

 私はあなたを裏切る事になるから。

 私はいつの間にか閉じてしまっていた目を開けると、ゆっくりこのひとの手を地面に下ろした。

 そして背後を振り返る。

 私の背後には、私の影が長く伸びていて、そこから無数の魔物が無限とも思えるほど生まれ続けていた。

 その魔物たちは、生まれた端から四方八方に散っていく。

 きっと人間たちを殺すのだろう。

 世界を焼き尽くし、破壊し尽くすのだろう。

 そして世界は滅ぶのだ。止められるのは……私だけ。

 私が死を選べば、全ての魔物は消え去ってしまう。

 だから私は死を選ぶしかないのだ。

 このひとの想いを裏切るしかないのだ。

 怖いけれど。辛いけれど。

 死ぬのなんて、絶対に嫌だけれど。

「ごめんなさい」

 私は念を押す様に謝罪をすると、ゆっくりこのひとの手を放した。その代わりの様に、勇者の剣――私が勇者だったころに使っていた剣を、拾い上げた。

 剣には未だ力が残っており、これで自殺をすれば一年程度は死んだままで居られるだろう。

 しかし――。

「えいっ」

 私はその剣を投げ捨ててしまった。

 死に続けるのはもうやめだ。

 私は生きる事にしたのだから。

 だから、剣で死ぬのは無しだ。

 私は私の呪いを解くために生きる。

 そのためにも、私はすぐに生き返らないといけない。

「ねえ、あなたは死んじゃいけないって言ったけれど、二回だけ、死ぬのを許してほしい」

 一度はこれから。そしてもう一度は……。

「あなたの所に私も逝くから」

 私はあなたの傍に居たい。これが、私の生きるという事だから。

 あなたが居ない人生なんて考えられないから。

 あなたの傍に、私以外にも女の人が居たのは少し気になるけれど。

 私があなたの傍に居るぐらい、許してくれるはず……だと思う。

「今度は、私から……。ああ、その時名前も伝えるね」

 私は四つん這いになると、彼の魂の抜けた体に覆いかぶさった。

 少し時間が経ったというのにこのひとはまだ安らかな笑顔を浮かべていた。

「…………」

 しばらくの間、まるで寝顔の様なこのひとの顔を見つめる。

 そうしていたら、本当に彼が死んでしまったことが夢だったと思えてくるから不思議だ。

 そんな風に錯覚してしまうほど、このひとの表情は慈愛に満ちていた。

「ねえ、これから死ぬ私に、少しだけ勇気をくれないかな?」

 返事が返ってこない事は分かっている。だから私は心の中で頷くと、勝手に口づけた。

 このひとの唇は柔らかく、まだほんのり体温が残っていた。

 息を吹き込んだらこのひとが慌てて目を覚まして何したんだよと騒ぎだしてくれないかな、と夢想する。

 ……そうなったらどれだけ楽しいか。どれだけ嬉しいか。

 でも、夢は夢だった。

 唇を重ねたまま待ってみても、このひとの域は止まったままだった。

 ……名残惜しいけれど、そろそろ逝かないと。この間にも兵士たちの命は刈り取られているのだから。

 私は夢想するのをやめて、唇を離した。

「最後にもう一度。……心から、ありがとう」

 全ての想いを伝え終えた私は、そのままこのひとと体を重ね合わせた。

「…………」

 このひとの命を奪った矢じりは、まだ首筋に突き刺さったままだ。

 その矢じりに、私は自分の喉を押し付けていった。

 刃はすんなりと私の喉を食い破っていく。このひとの死が、私の中に注がれたようで、少し、倒錯的な喜びが私を支配する。

 それから一泊遅れて鋭い痛みが私を襲った。

 でも、このぐらい耐えられる。

 このひともこの痛みの中、私に微笑みかけてくれたのだから。

「…………かっ……ふっ」

 血の混じった吐息が漏れる。

 私にももうすぐお迎えがくるはずだ。

 少しでも長い時間このひとと共に居られる様に、私はこのひとと手を合わせ、指を絡めた。

 血に濡れた唇をこのひとの耳元に寄せる。

「――――…………」

 言葉にならない言葉で、声にならない声で。

 私は今までずっと言えなかった想いを口にした。

 きっと届くと信じて…………。






 そして私も後を追って、死を受け入れた。

 この死は、今までと違って甘く私を包み込んだ。

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