第16話 偽りの理由

作業を続けていてすぐに気づいた。僕の手が、油でぬかるみ始めたことに。

 きっとこの分だと彼女の手も、そして体も、油まみれになっている事だろう。

「雪女(ゆきめ)の口づけに……」

 僕は吹雪の魔法を唱え、いつでも放てるように準備をしておいた。

 瓦礫を半分ほど取り除いた時、それは起こった。

 崩れた壁の下から、赤い蛇の様な何かがチロリと舌を出した。

――瞬間。

 僕の視界がいきなり紅蓮に染まった。

「凍てつけっ!」

 僕は肌が焼かれるのを感じながら、前もって唱えて置いた氷結の魔法を発動させる。

 生み出された冷機は、瞬時に目の前の炎を抱きすくめると消し去っていった。

「けふっけふっ……」

 一瞬、炎に包まれてしまった彼女は喉を焼いたのだろう。苦しそうにせき込んでいた。

「もう無理だ、逃げよう」

 僕は手にこびりついた氷片を払い落としながら提案する。

「だが……」

 案の定、彼女は自分が傷ついている状況だというのに、未だ助ける事を諦めていない様だった。

 僕もルカちゃんのお母さんを見捨てたいわけではない。だが時間がそれを許さなかった。

 今こそ僕の魔法で油が凍り、可燃物も冷やされていて激しく燃える事はない。だがいずれは燃える状況に変わってしまうだろう。

 そして魔法をかけ続ける事も難しい。

 これ以上凍らせれば、そもそも助けようとしているルカちゃんのお母さん自身が凍ってしまう。そうなれば蘇生は絶対に不可能だ。

「もう無理なんだ、絶対に。僕は君とルカちゃんを死なせたくない」

 彼女の反論は聞かなかった。

 腰の後ろから盾を取り出すと、左腕で強く握りしめる。そのまま厨房の壁に叩きつける。

 僕の予想通り、その壁は外とを隔てていたものらしく、今しがた作ったばかりの隙間から日の光が漏れてきた。

「君はこのまま壁を壊して。僕はルカちゃんを」

 彼女はそれでも戸惑っていた。

 未練がましくルカちゃんのお母さんの死体へ視線を送っている。

 彼女の優しさが、今は事態の足を引っ張ってしまっていた。

「僕と、ルカちゃんの命を救えるのは君だけなんだ」

 僕は言葉と共に、盾を彼女の腕の中に押し付ける。

 彼女の手にかかる重みがどんなものか。それをはっきりと理解した彼女は、小さく頷いた。弱々しい、分かったという言葉と共に。

「ありがとう」

 自分がどれだけ酷いことを彼女に押し付けたのか、僕は理解しているつもりだ。でもきっと、僕の想像など軽く超えるぐらい彼女を傷つけているはずだった。

 彼女は僕のために命を平気で絶ったし、顔も知らない人間のために死に続けたのだ。

 今も絶対、彼女は自分の命を天秤にかけずに判断したはずだった。

「ルカちゃん」

「お兄ちゃん、どう……」

 事態の推移を知らないルカちゃんは、当然のように僕へと質問をぶつけてくる。

「ごめん」

 しかし僕はその質問を無視してルカちゃんを抱き上げると、思い切り抱きしめて体と頭を固定してしまった。

 そのまま再び厨房に戻る。……もちろん死体が見えないように配慮しながら、だ。

「早く」

 厨房の壁には彼女の手によって人ひとりが余裕で通り抜けられるほどの大穴が開けられていた。

 彼女に促され、僕は外に出ようとして――その気配を感じ取ったルカちゃんが、暴れ出してしまった。

「ねえ、おかあさんは? おかあさんはそこに居たでしょ? ねえ!?」

「ごめん、無理だった」

「嘘! 嘘つき! さっきは間に合うって言ったのに! だから私は静かに待ってたのに!」

「……こめん」

「いやっいやぁ~~っ!! おかあさん! おかあさぁ~んっ!!」

 泣き叫び、暴れようとするルカちゃんを、僕は無理やり押さえつけて穴をくぐりぬけた。

 外もひどい状態で、自身によってほとんどの建物が倒壊してしまっているのが見て取れた。

 ぽつぽつとまばらに人が突っ立ているが、全員が全員、魂でも抜けてしまったかのように呆然としていて頼る事はできないだろう。

「君も、早く!」

 諦めていなかったのか、それとも今の鳴き声で心が変わったのかは分からないが、彼女は首を横に振った。

「もう少し、限界までやってみる」

「もう限界だ、間違いなく出火する! いや、もう出火したんだ! 今は魔法で弱まっているだけだ!」

 それでも彼女はもう一度拒絶した。そして外に盾を投げ捨てると、体を反転させる。

 間違いなく、これから救助作業を続けるつもりだろう。

 ほとんど助かる見込みのない人の救助を。

「待って。僕は君がそうするなら、君を捕まえるためにルカちゃんを手放すよ」

 その後が想像できない彼女ではないだろう。

 大の男である僕ですら難儀するような瓦礫だ。子どものルカちゃんがまともに動かせるはずはないだろう。

 そうなれば待っているのは確実な死だけだ。

救いなのは両親と一緒に同じ場所で死ねることぐらいだが、命が助かる方がよほど救いになるだろう。

 僕の押し付けかもしれないけど。

「貴様は……」

 僕の考え通り、彼女はその場で止まって恨めしそうに呻くとこちらへ振り向いた。

「それだけじゃないよ。忘れた? 君が死んだら僕も死ぬって言ったよね。あれを実行するから。言っとくけど本気だよ」

 今は一分一秒でも早く、彼女を安全な場所に移動させたかった。

 だから、僕は最低手段を使う。

 それは心から最低で、きっと間違いなく彼女に嫌われてしまう。そんな手段だった。

「早く出てきて。早くしないと、ルカちゃんを黙らせてから君を捕まえに行くから」

 あまりの事に、彼女は絶句する。

 ルカちゃんもその言葉の意味が理解できたのか、暴れるのを止めて体を固くした。

 彼女は、僕の口からそんな最低な言葉が出てくるなんて思いもしなかったのかもしれない。

 それはそれで嬉しい事だった。僕がそんな風に思われていたなんてとても光栄なことだ。

 でも、それは幻想だよ。

 僕は君に死んでほしくなかっただけなんだ。

 君だから死んでほしくなかったんだ。

 僕の言葉の意味、それは多少オブラートに包んでいたけど、分かるよね?

 なるべく意識を奪うだけにしたいけど、殴って意識を奪うなんて、とても難しいんだ。

 そのぐらいの勢いで殴れば、死んでしまう可能性の方が高い。

「……本気、なのか?」

「本気だよ」

 僕は迷うことなく言葉を返す。

「そう、か」

 もう、待てなかった。

 僕はルカちゃんを後方へと放り捨て、厨房に入ると彼女を外へと引きずり出した。

 彼女の抵抗は、無かった。

 彼女の体が穴から出るや否や、バヂッと何かがはじけるような音が僕の耳に届いた。そして、再び炎がその手を伸ばし始めた。

 慌てて身を引く僕らの目の前まで炎が噴き出した。

 熱波が肌を焦がし、衝撃が体を打つ。

 だが、それだけだった。

 炎は僕らにそれ以上の危害を加える事は無く、悔しそうに穴の奥へと戻っていった。

 僕らは、生き残った。

 たぶん、何人か救えるであろう人達を見捨てて、生き永らえた。

 そうして安全を確保できた僕が胸を撫で下ろした瞬間、

「いやぁぁぁ! おかあさん! おとうさん!」

 後方から甲高(かんだか)い悲鳴が上がった。

 それもそうだろう。家に空いた穴からは、絶え間なく炎が吹き上がっている。その中に居た人間がどうなっているか、子どもであっても想像がついたのだろう。

「やだぁぁぁぁっ!」

 もうだめだと分かっていても感情が止められるわけではない。特に未成熟な子どもであれば、押さえる事が出来なかったのだろう。

 ルカちゃんは悲鳴を上げながら火の中に身を投じようとした。

「ダメだっ」

 僕はすんでのところでルカちゃんを捕まえると、全力で抑え込んだ。

 ほんの少しでも手心を加えてもしルカちゃんを放しでもしてしまったら……。その後の事は考えたくなかった。

「君は生きなきゃ。絶対に生き延びなきゃ」

 僕はルカちゃんの耳元で必死に囁く。

 だがそんな中身のないただの正論(ざれごと)など、今目の前で最も大切な物を失ったルカちゃんに届くはずはなかった。

「頼むから、落ち着いて。こんなに傷ついてるじゃないか。治療をするから、ね?」

 ルカちゃんを捕まえて初めて気づいた。

 彼女はいくつもの怪我をしていたのだ。

頬には多数の傷がついており、そこから流れる血は涙と混ざり合って赤い筋を頬に刻んでいる。無理に瓦礫の隙間を通ったときに突き刺さったのか、肩口には木片が突き刺さっていた。

 他にも数えきれないほどの傷が見て取れた。

 ただ、運がいいというべきか、それらは全て命の危険に係わる様な傷ではなかった。

「私なんていいからぁ! それよりもおかあさんとおとうさんを助けてぇ!」

「……ごめん。それは、不可能だよ。出来ないんだ」

 ルカちゃんの悲痛な願いを聞き届けられる存在など神様くらいのものだろう。否、もしかしたら神様にだって不可能なのかもしれなかった。

 もし神様にそんな事が出来るのなら、きっと彼女は、周囲から魔王と呼ばれる彼女は、こう祈っていたに違いないから。

 もう、生き返らせないでくれ、と。

 この永遠に続く地獄を終わらせてくれと。

「ごめん、ちょっとルカちゃんを捕まえててくれるかな。回復魔法をかけてあげたいんだ」

 彼女は僕に助け出されたその場所に両手をつき、力なくうなだれていた。その背中に僕は声をかけた。

 それがひどい事だというのは分かっていた。

 種類こそ違えど彼女はこういう絶望を何度も味わって来たに違いないのだから。

 それでも、今動けば救える命があるから。それが彼女の心の支えになると信じていたから。

 だが、そんな僕の浅はかな思いは、とんでもない形で打ち砕かれてしまった。

 彼女は、僕が考えている以上に優しい女性だった。

「……分かった。そのままその小娘を捕まえていろ」

 彼女はなぜか地面から盾を拾い上げてから、僕たちの方へと歩み寄って来た。

 その歩みは一歩一歩がとても遅く、まるでこれからルカちゃんに危害を加えるかのごとく悪意に満ちていた。

 唐突に変わってしまった彼女の雰囲気に、ルカちゃんも気付いて肩を震わせる。

「そういえば、小娘には余の事を聞かせていなかったな」

「え……? おねえ……」

 戸惑うルカちゃんを無視して、彼女は盾を僕の横に置き、続ける。

「余は、魔王だ。この世界全てに魔物と災厄をまき散らす、魔王だ」

「何を……言ってるの?」

 僕もルカちゃんと同じことを彼女に言ってやりたかった。

 何故なら彼女のやりたいことを、理解してしまったから。

 彼女のやりたいこと、それは偽悪だ。悪ぶって、自身に憎しみを集めて、そして、ルカちゃんを救おうとしていた。

 それが分かってしまったから僕は何も言えなかった。

 何かを言ってしまったら、彼女がこれからしようとしている事がすべて無駄になってしまうから。

 だから僕は、唇をぐっと噛み締めて我慢する。

 どれだけ彼女を罵倒してやりたくとも。どれだけ彼女を守りたくとも。

「証拠を見せてやろう」

 彼女はそう言うと、しゃがんでルカちゃんの頬に手を伸ばし、魔法を使った。

 僕の前では初めてになる魔法を。

 その効果はとても些細なもので、頬の傷を一本治す程度の物だった。

 治療されたルカちゃんも、気付かないほど些細な結果をもたらし魔法は終わる。

 だが彼女は言っていなかっただろうか。魔法を使えば魔物が生まれると。

 僕はその後に起こる事を予期して、盾へと手を伸ばした。

 彼女もそのつもりだからわざわざ盾を拾って来たのだろう。

 証拠を見せると彼女は今言ったばかりじゃないか。

「なに、を……きゃぁぁぁっ!」

 ルカちゃんの声が、途中から悲鳴に変わる。

 ルカちゃんの体に落ちた彼女の影から、骨の手が伸びてルカちゃんの襟首を掴んだからだ。

 頬に走った僅かな傷を治すだけで魔物が一体生まれるのならば、それ以上の魔法ならどれほど魔物が生み出されるのか分かったものでは無かった。

「このっ」

 既に備えていた僕は、魔物の腕に盾を叩き込んだ。

 盾は容易く骨を粉砕し、破片を周囲にばらまいた。しかし、それで終わるはずがなかった。

 カタカタと音を鳴らして、骨だけの頭部が影から生まれ出てくる。

 僕は立ち上がりざまに魔物の頭部を掴むと、影から引きずり出して地面に叩きつけた。そのまま有無を言わせず頭を踏み砕く。

 そうすることで、ようやく魔物は動きを止めたのだった。

「これで分かっただろう。余は、魔王だ。余がここに居たから、お前の両親は死んだのだ」

 もちろん、そんな訳はない。地震が起きたのはたまたまだ。

 彼女が居るだけで地震が起こるのならば、火山に居た時にもっと地震に見舞われていなければおかしい。

 彼女は目に見える形で自分が悪いとルカちゃんに伝えたかったのだ。

 それは何故なのか。

 答えはルカちゃんの瞳が物語っていた。

「……返して。おかあさんを返して」

 ルカちゃんの瞳には、今や憎悪の光が宿っていた。

控えめで、内気だったころの姿はない。

「おとうさんを返して!」

 ルカちゃんは歯をむき出しにして怒り、その殺意は彼女へと向けられていた。

 そして、それこそが彼女の目的だった。

 先ほどまでルカちゃんは抑えていなければ火の中に飛び込もうとしていた。死ぬと分かっていても。

 だが今は違う。

彼女を恨み、彼女へ怒りをぶつける事を目的にしていた。

ルカちゃんは、死ぬことを忘れてしまっていた。

「勝手に死んだのだ。返すもクソもあるか。お前の両親は無駄死にしたのだ」

「よくもそんな事……あなたが殺したんだ!」

「はっ、人間がどれだけ死のうが余の知ったことか。殺した? 気付きもせんわ」

「酷い! 酷い! あなたが死ねばよかったのに!」

 もう、聞いていられなかった。

彼女がわざと憎悪を煽っているという事は分かっている。

だからルカちゃんがそれに乗って彼女に悪感情をぶつけているのは彼女の望んだ通りなのだ。

でもだからこそ、僕は耐えられなかった。

 これ以上、傷ついていく彼女を見ている事に耐えられなかった。

 僕は無言でポーチから睡眠薬を取り出すと、それをルカちゃんの頭から振りかけた。

 その効果はすぐに表れ、数秒もしない内にルカちゃんは意識を失って体が傾(かし)いでいく。

「おっと」

 僕はルカちゃんを受け止めると、地面にゆっくりと寝かせる。

 僕が出来たのはそこまでで、ルカちゃんを治療する気には、到底なれなかった。もしかしたら、憎しみという感情を潰えさせないためにもその方がいいのかもしれない。

 そんな言い訳を、僕は僕にしておいた。

「…………」

「…………」

 すべてが終わった後、僕は彼女を無言で見つめた。

 彼女も僕を無言で見つめた。

 言いたいことはたくさんあった。でも、言えなかった。

 何を言っても彼女が壊れてしまいそうで怖かった。だから言わなかった。

 僕は立ち上がると、移動用の魔具を取り出して忘れ物が無いか周囲を確認すると、彼女に向けて手を差し出した。

 そして、

「帰ろう」

 それだけ、なんとか絞り出すように声をかけた。

「ああ」

 彼女もそれだけ言うと、僕の手を取った。


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