03

 やにわに、咆吼と共に鉄パイプを振り上げた少年が撃鉄へと迫る。瞬時に縮まる彼我の距離。零になると同時、上から下へと真っ直ぐに、振り下ろされたは鉄の棒。


 軌道を見切った撃鉄は、右足軸に転換。最小限の動きで少年の攻撃線から外れる。転換の慣性を維持しつつくるり一回転、六弦を左に低く振りかぶり、


「馬鹿正直に突っ込んでくるのって、僕ァ感心しないぜ?」


 少年の足を払った。


 彼女の狙いを察するや否や、少年は回避動作に入る。しかし、膝関節を刈り取らんと不自然なまでに更に加速した横薙ぎの暴威にそれは間に合わず、仰向けに少年は床へと転がった。青き鈍器が描き出す軌跡を、仄かな赤光が血煙のように追う。


続け様に、ニット帽の少女が撃鉄へと飛びかかる。焦りと怒りに任せた徒手空拳。一見あまりにも愚策なそれは、その実、驚異的な力を生み出す。ぼろぼろのスニーカーが踏み締めたトタン板が、ばきり砕けた。右手めては固く握りしめ、後ろへと引き絞った打撃の型。渇望するが如く伸ばした左手ゆんでが狙うは、艶と中空たなびく濡羽の御髪。捕らえてしまいさえすれば、どの部位に麗しき換金屋の表情は歪むだろう。そうなれば、場の主導権は少女のものとなる。


 己へと迫るかいなを眼球だけを動かし捉え、撃鉄は柔らかく床を蹴る。振り抜きの動作を継続しつつ、その場での跳躍。しかし、軽く上に飛ぼうと、平面方向の座標変化がなければ回避動作にすらならない。


 否、回避動作でない筈のそれが、。まるで六弦を相方としたパ・ド・ドゥでも舞っているかのように、彼女はふわり半円軌道を描いて跳躍点から七十センチの位置に着地。確かにそれは、単なる上方跳躍であったというのに。この世の物理法則下では、おおよそ有り得ぬその挙動。もしや構築式プログラムの仕業か、と一瞬ニット帽の少女は疑えども、換金屋自ら「己は侵食者ハッカーである」と先程宣告したばかり。

 侵食者ハッカー構築式プログラムを行使することは疎か、記述することすらできない筈である。ハイブリッド個体(即ち侵食者ハッカーかつ構築者プログラマである中立子)であれば構築式プログラムの行使は可能だが、そんなレアケースはまず遭遇しない。しかし、あの不自然かつ不可思議な方向ベクトル変換が構築式プログラムの効果でないのなら説明がつかない。理解能わず混乱し、迷いが生じた少女の動作は自然と緩慢になる。


 彼女の様子など歯牙にも掛けず、撃鉄は即座に地を足裏で踏みしめた。


 《要塞》の少女は、否、ほとんどの人間は想像だにしないだろう。製作者以外の者が実行可能な、る種のチートに等しい構築式プログラムを書き上げることのできる構築者プログラマが存在していることなど。昔日せきじつ、撃鉄に六弦を渡した人物がまさにだった。その人物の手によって、撃鉄でも感覚的に随意実行できる物理変数パラメタ操作構築式プログラムが、ターコイズ・ファルコンに付与されているのだ。この構築式プログラムこそが、先の急加速や、不自然な回避動作の絡繰からくり。


 跳躍の際、構築式プログラムの物理演算補助によってギターのボディへと一時的に移していた回転軸の座標、それを再び撃鉄自身へと戻し、切れ目ない所作で青色を振り抜いた。六弦はニット帽の少女の腕下をすり抜け、華奢な体躯、その丹田に容赦なくインパクトを叩き込む。


「……ッぐ!」


 あどけなさの残る口元から漏れたのは、痛々しく潰れた悲鳴。少女は反射的に背を丸め、その場に崩れ落ちかけたが換金屋はそれすらも許さない。薄汚れた少女の腕を、ギターのネックを用いてしかと絡め取っていたのだ。この固め技により、少女の肘は既に関節が逆方向に極まりかけている。

 突如、捻りを加えた動きで少女の腕がネックから振り払われた。刹那、こきょ、と珍妙な音が響く。だらり垂れる腕を抱えながら、少女は今度こそ床へと崩折れた。


 ここまで全て、時間単位スケールにして秒。

 声なき声で絶叫し、見開いた目からじわり涙を零す少女の異様な様に、襲撃のタイミングを見計らっていた青年の面が青ざめる。


「心配すんなって。バキッと行った訳でもねえし、軽めにしといたから、はめりゃ治るぜこんなもん。この嬢ちゃんも、もな?」


 せせら笑うかの如く皮肉気に、獣の微笑を浮かべてみせる撃鉄。とんとん、と不良の金属バットよろしくギターで肩をゆったり叩くさまも、いっそ凶悪でしかない。


 あいつ、という言葉に違和感を覚えた青年がおとがいを跳ね起こし、床に伏したきり起きあがらない少年の方を振り向く。少年は、震えながらその場にうずくまっていた。を抱えて。

 歯の根の震えを隠しきれぬまま譫言にも似た悲鳴を上げながら、青年は廃工場の出口目掛けて駆けだした。


 貧困に満ちた《要塞》で生き抜いてきたとはいえ、彼らが今まで受けてきた暴力は、縄張り争いや、怒りの感情に支配された「殴る」、「蹴る」である。そのほかにも、彼らは擦り傷や切り傷、打撲などには慣れていた。骨折したと思しきこともあったが、アドレナリンの影響で麻痺しやすい類の怪我だからか、痛みに涙するのも暫く時間が経ってから。故に、彼らにとって強制的な脱臼は見慣れぬ外観症状であり、動きを確実に封じに掛かる彼女の手管は恐怖するに能う。

 加えて、只のストリートチルドレンなどよりも換金屋たる彼女は明らかに戦い慣れていた。その証拠に、最もダメージの少ない方法で脱臼させつつ「身体に異常が起きている」と視覚的に訴えて彼らを恐慌状態に陥れたのも計算の内。


 疾駆する青年と出口の距離は、段々と狭まってゆく。ここまできて逃がすのも癪なので、撃鉄は「やれやれ」などと呟きながら担いでいた青いホワイトファルコン・カスタムをおろし、追撃態勢に入った。


 ここで彼女は気付くべきだったのだ。青年の目的は、この場から逃げおおせることではなかったのだと。 

 真意を悟り、 撃鉄は大きな赤瞳を更に見開き、叫ぶ。


「逃げろ露口君ッ!」


 懇願を孕んだ警告。

 だが果たせるかな、その祈りは届かない。


 彼の真の目的。それは出口の側で――朽ちた扉の側で、戦局を見守っていた露口少年にほかならなかった。


 疾走の加速度を乗せた拳が、露口の頬をしたたかに打った。呻きとも悲鳴ともつかない声を漏らし、少年は鉄屑散らばる床へと倒れ込む。青年は怯えの混ざる血走った眼で必死に露口をめ付けながら、大きく脚を振り上げた。踏み付けるような蹴撃が鳩尾に炸裂――する寸前、青年の体が横に弾き飛ばされる。


 露口は視界の明滅に耐えつつ、青年が元居た場所を仰ぎ見た。

 そこに立つは、中段蹴りの残心を取る撃鉄。追撃の構えへと移行しつつ、彼女は目線だけをこちらに寄越した。僅かに険しくなっていたそれが、露口の姿(殆どダメージはない)を認むることにより僅かに和らぐ。


 青年は呻き声を上げ、蹌踉よろめきながら立ち上がり、懐に手を遣った。そのさまは幽鬼と言って遜色ない。


 一方それとは対極に、頭頂から重心まで針金でも通しているかと見紛うほど、撃鉄の体軸は一切ぶれない。挙動の緩急と切れには戸惑いなどというものは微塵も存在しなかった。放った蹴撃を収める動作は無音。ふわり舞い棚引くプリーツスカートから一瞬覗いた黒いスパッツ、その鉄壁が遠慮や恥じらいなどを捨て去りさせ、彼女の機動力を一層引き出しているらしかった。


 彼女が次撃を紡がんとしかけた、その時だった。

 青年が突進を仕掛けてきた。そして、青年の手に握られた小さくも鋭いやいばの閃きが、ぎこちなく、然れど彼女を掻き切らんと迫る。

 撃鉄に迫る危機を露口が察知すると同時、少年の体は既にひとりでに動いていた。

 少年は思う。何せ、臆病な自分にできることは、これくらいしかないのだ。


 


 露口は無我夢中で、撃鉄の前に躍り出る。

 咄嗟に顔の前で腕を交差させた次の刹那、焼けるような感覚が皮膚の上を走った。


 少年が視界の片隅に捉えたのは、自分の名を叫ぶように呼んだ少女の眼が大きく瞠られるさま。コンマ以下二秒の後、彼自身から流れ出たのは、彼女の両眼によく似た赤色。頭を庇うようにしていたためか、切り付けられたのは右手の甲であった。唯一感じるのは、掌から腕を伝ってゆく血の生温さ。疼きも痛みも感じたと言えば感じたのだが――ただ、刃物で皮膚が裂かれた。所詮、それだけのことでしかない。


 焦燥と驚愕で、その場から動けずにいる撃鉄。だが、それは相手の青年も同様であった。否、己の手によって他人が流血したさまをまざまざと見せつけられている分、青年の方がより強く硬直しているらしい。

 青年が振るっていたナイフは、あくまでも「目の前の少年少女を怯ませたい」という脅しの要素が強かった。だが、いざ凶器それによって相手が傷つくと、その事実に動揺し瞳は揺れ、口は何か言いたげに小さく開閉を繰り返している。


「ち、ちが……」


 唇を戦慄わななかせ、彼は震える足で後退る。そして次の瞬間、青年は勢いよく地面に倒れ伏した。否、自発的に倒れ込んだというよりは、先に正気に返った撃鉄によって後頭部を殴打され気を失った、と言うべきか。


「ッ露口君! 大丈夫か!?」


 愛器を柔らかに床へと放り、撃鉄は露口に駆け寄ろうとした。すると少年は勢いよく面を上げ、右手の甲を反対の手で押さえながら「ぼ、ぼくは大丈夫です!」と彼女の接近を制す。


「大丈夫なわけねーだろ!? だってアンタ、斬られ――」


「だ、大丈夫! だから! ぼくに、近づかないで……」


 温度を失った青い玉貌を僅かに伏せ、彼は「ごめんなさい」と蚊の泣く声で呟いた。自分を心配し安否を気遣ってくれていることが解っているというのに、やはり女性への恐怖は拭えない。そして今直面している“この一連の状況”が、彼にはこれ以上なく恐ろしかったのだ。 


 自分は少年に触れること能わない、という事実を思い出し、撃鉄は彼へと伸ばしかけていた腕を所在なさげに下ろす。


「……悪い」


 ばつが悪そうに、撃鉄は顔を背けた。しかしそれも一瞬のことで、


「これ以上は近づかないよ。けど、代わりに教えてくれ。本当に、大丈夫なんだな?」


 真紅の双眼が、栗色の双眼を真っ直ぐに捉える。

 見据える、と言う程でもない。唯々露口を“見る”二対の深緋こきあけが有すは、嘘も不実も何もかもを見透かすような彩度と透明度。言いようもなく恐ろしく、美しい、赤。


 傷口を覆って圧迫する止血の体勢のまま、少年は力強く頷いた。


「はい。傷も浅かったみたいで、血も殆ど止まりました。本当に、大丈夫です」


 未だ血色は悪いが、その瞳に宿るのは強固な意志。

 揺るぎないものを認め、少女は諦めたように「そっか」と僅かに安堵の息を吐く。それから、倒れ込んだ青年へと近づきつつ、


「もしアレだったら、事務所着いたらたっくんに診てもらえよ。っと、《受信ダウンロード》……」


 しゃがみこみながら何かを受信ダウンロードしたらしかった。


 背を向けられているため、露口からは撃鉄の表情は窺えない。恐らく、まだ露口が平静を取り戻していないのを察した上で放っておいてくれているのだと思う。己にとって都合の良い解釈を行っているのは重々承知しているが、思考を回す時間が得られたことは幸いだ。微かなありがたみを感じつつ、彼は自分の両手に茫洋と視線を落とした。

 甲を覆っていた左手をゆっくりとはがす。掌を湿らす血液の粘性、その感触が言いようもなく気持ち悪かった。不快感をどうにかしたかったので、太股に擦りつけて拭き取ることにした。今日身に付けているのは幸運にも黒っぽいジーンズなので、汚れが目立つ心配もないだろう。同じようにして逆の手も拭ってしまう。両手に掠れた血の跡は残ってしまったが、洗えば簡単に落ちる程度。


 ――何ともない。ぼくは、大丈夫。


 親指の腹で左手の汚れを擦り取りつつ、露口は自らに言い聞かせる。


 ――大丈夫、だから。


 水鏡医師に診察や治療をしてもらうつもりはない。彼女の善意を無碍にするようで若干心苦しかったが、とうに血も止まり傷も塞がった場所を消毒しても意味を成さないだろう。

 漠然とした申し訳なさを感じると同時に、拭い去ったはずの不快感が再び両手に纏わり付いた気がした。



   ***



 啜り泣きながら呻く少女の両手を無理矢理つかみ、先程受信ダウンロードした結束バンドで拘束する。疼く痛みに刃向かう気も起こらないらしく少女は碌な抵抗も見せなかったが、腕を動かされた瞬間に小さく悲鳴を上げた。

 手の自由を奪い、足も縛り上げたところで撃鉄は天を仰ぐ。虫食い状に朽ちた屋根からは、けぶる灰色の光が差している。否、降り注ぐそれは、光と呼ぶのも憚られるような照度しか持っていない。とはいえ、違法建築物が空高くひしめくこの《要塞》では、それも仕方のないことだった。


 法も秩序の光も届かない、“現代の九龍城クーロン・レプリカ”とも呼ばれる《要塞》。イリーガルを鍋で煮詰めた掃き溜めの場所で生きる人間はしぶとく図太く逞しく見えるが、実の肉親、または愛した者、あるいは他のかけがえのない存在、それから――何よりもこの世界から見放され捨て去られた《要塞の住人》は精神的に脆い。付け入るとすれば、その“脆さ”が最も解り易く手っ取り早い。元々にダメージを与えるための戦法だったが、こうも反抗心を削がれたさまを見ると気の毒にも思える。彼らが捨てられた子供達なのか、それとも捨てられた子供達から生まれた存在なのかは知る由もない。しかし、もしも彼らが普通の家庭に生まれ、普通に生活を営んでいたのなら、友として撃鉄の隣にいたのかもしれない。


 ――もしもifでしか、ないけどな。


 幾ら想像を巡らせたところで、全ては仮定の話でしかなく、また、過去は覆せやしない。現時点で彼らは“可哀想な恵まれない子供たち”以外の何者でもないのだ。

 一方で、自分は日々の食事にも困らず、あたたかな家にも帰ることができる。そう考えると、己は随分恵まれているではないか。たとえ、かつて“親に置き去りにされた憐れな子供”なのだとしても。


 結束バンドで手足を縛り上げられ床に転がった三人を見下ろす。共犯の犬も適当な物で繋いでおくべきかと迷ったが、心配そうにきゅうきゅう鳴きながら三人のもとを行ったり来たりしており、まるで逃げる気配がなかったので放っておくことにする。ついでにプリンの安否を確かめようとしたものの、犬の唾液でてらてらと光るケーキボックスを開ける気にはならなかった。露口少年には悪いが、先日の詫びは次回に持ち越しである。


「さて、と。どうすっかなぁ」


 これから三人を“換金”するにしても、書類作成やら何やらで時間を食うことになるだろう。下級であるクラスEでは、報奨金も微々たる額でしかない。利得と時間コスト(それから依頼人を待たせてしまうこと)を秤に掛けた結果、《要塞》を根城にする知り合いの換金屋に手柄を譲ることにした。スカートのポケットを漁りつつ連絡がつきそうな順に脳内でソートを行い、取り出した携帯端末に第一位の人物の連絡先を表示させる。そして、発信処理を行い耳に宛がった。


 もう一度、三人と一匹を見遣った――途端、言いようのない気分の悪さが撃鉄を襲う。

 少年少女に対し生まれた憐憫の情。一歩間違えれば自分も“そちら側”に居たかもしれぬというのに、己は安全な立場から彼らの境遇を哀れんでいる。それはあまりに滑稽な高慢さではないのだろうか。たすくが来てくれなければ、自分も――。


 呼び出し音が、途切れた。代わりに相手のもしもしという声が聞こえてくる。

 吐き気を催す優越感と不安感を吐き出すように、撃鉄は努めていつもの調子で応答。言葉を紡ぐほどに、少しだけ、喉元に渦巻く吐き気が紛れた気がした。会話を続ける内に、普段通りの不敵な表情もおもてに戻ってきたように思う。依頼人と制圧対象の前で弱みは見せられない。


 今だけは、心の底にわだかまるものから目を逸らしておきたかった。仮にそれが、一時的な逃避でしかないとしても。



   ***



 少年が必死に己の心をなだめ終わった頃には、プリン泥棒達は撃鉄の手によって手足を括り上げられていた。


「これから、どうするんですか?」


 露口が問うと、撃鉄は気怠げに肩を竦める。


「近くにいる換金屋仲間にこいつらを引き渡す。そいつが到着次第、僕らは事務所へ直行、って寸法さ」


「換金、でしたっけ? は、しないんですか?」


「ああ。時間も掛かるし、色々と面倒だし……な」


 言って、彼女は鮮やかな瞳を少し伏せる。艶やかな睫毛が頬に落とす影、緩く引き結ばれた口元。何故だか彼女は、酷薄な憂いの紗を纏っているように見えた。今にも掻き消えてしまいそうな気がして、露口は反射的に口を開きかける。


「あの――」


「げきー! ごめん、遅くなった!」


 彼の声は、若い女の声に掻き消される。撃鉄が「いやいや全然。結構早いんじゃねーの?」と親しげに応じているところを見るに、どうやらこの女性が件の換金屋仲間のようだ。二十代の瑞々しく成熟した女性らしい体躯からは、膂力を隠し持つしなやかさが窺える。先程の大立ち回りを目にしておきながら、撃鉄の体が頼りなく思えた。


「急だったのにわりいな」


「ううん、こっちとしては臨時収入貰えるし助かるよ。お金は大切だからねー」


 小走りで撃鉄のもとにやってきた女性は、そう告げると辺りを見回した。露口の視線と女性の視線がかち合ったが、彼女は三人のような下世話な詮索はしない。撃鉄から大まかな成り行きは聞いているらしく、柔らかに「君も大変だったねー」と労りの苦笑を露口に向けてくれた。


 それから、二人に向けて、からりと笑う。


「ま。後のことは任せといて!」


「応、頼んだぜ。じゃあな」


 軽く片手を上げて撃鉄も微笑み返し、床に転がった六弦を拾って踵を返す。あまりにあっさりとした別れに面食い、露口は三秒ぼんやりと撃鉄の背で黒髪が揺れるのを見ていた。追わなければ。はたと我に返り、少女の背中目指して駆け出す。建物の外に出る直前、足を止めて女性の方を振り返った。


「あ、すみません。お願いします」


 小さく礼をして顔を上げると、女性が小さく手を振ってくれている。その笑みはやはり、初夏の日差しのように晴れやかだった。




 廃屋から出た途端、むわりと饐えた匂いが微かに鼻をつく。この場所に来た当初は無我夢中で、匂いや周囲を気に留める余裕もなかった。辺りを見回してみると、ごみが点々と落ちており、埃なのか砂塵なのか最早正体不明の何かが道の端に溜まっている。ふと上を見上げれば、遙か上方はトタンや布のようなものでまちまちに塞がれており、洗濯物、文字が煤けたり割れている看板、用途不明の管や線が頭上にぶらぶら密集していた。重々しい機械の駆動音に紛れ、どこからか笑い声と怒声が聞こえる。擦り切れた衣服を纏った男が露口を見て怯えたように路地に消えた。靴も履いていない子供達が物珍しそうにこちらを見、はしゃぎながら颯爽と、或いは片足を引き摺りながら横を走り抜けていく。


「珍しいか? 街にこんな場所ねえもんな」


 異様な光景に圧倒された少年を飲もうとしていた場の空気を祓う声。ギターという名の鈍器を歪曲空間へと送信アップロードし終えたところだったらしく、赤光の粒子が彼女の掌から立ち上っている。先程まで周囲に滞空していた半透明のモニタも、今は消失していた。


「昔々。おキレーな街を作るために、元々街が持ってた解り易くを掻き集めた場所なのさ、《要塞》は」


 言われてみれば――首都にやってきてから、市街地でこれ程貧困の影を感じたことがない。各地では浮浪者もよく見てきたが、この街で見たのは一人か二人か。

 科学技術と経済の発展を象徴するかのような、光の都。輝かしい都市の暗部を掻き集めたのが《要塞》ならば、日陰者はこの暗闇でしか生きることを許されていないのだろう。


「時間ができたら、中立子のことだけじゃなくて街のことも話してやるよ」


「はい。是非、お願いします」


 “魔女”から逃走するだけの日々を過ごしていた所為か、自分はまだ何も知らない。中立子のことも、この街のことも。

 請うように、されど力強く彼は頷いた。彼女は「応よ」と返答し、不敵に微笑んでみせる。


「取り敢えず事務所帰るぜ、ポートでな。歩くと時間掛かって面倒だし」


転移テレポート……なんて、ぼくできないですよ」


「僕ができるからアンタもできるんだよ」


 何だその根性論みたいな暴論は。思わず目を細める。目は口ほどに物を言ったらしく、得意げな顔で撃鉄は告げた。


「ふふふ、僕が『熱意があれば何でもできる』とか言い出す熱血指導者だとでも思ったか? ポート実行者と接触さえしてりゃ、中立子だろうとそうじゃなかろうとのさ。だから、あながち無茶苦茶な理屈でもないんだぜ」


 転移テレポート時に目的地へと送られるのは、実行者の体そのものだけではない。実行者が身に付けている衣服や鞄など、実行者を為す一部、つまり、“自己構成要素である”とシステムが判定したものも、同様に送られる。通常、自己・非自己の判断は実行者の無意識下で自動的に決定される。しかし、手を繋ぐ、持ち物を掴むなど、直接または間接的に実行者と接触している人物を、実行者が意識的に“自己構成要素である”とシステムに宣言することによって、共に転移テレポートすることも可能なのだ。撃鉄が行おうとしているのは、まさにこの方法だった。


「つーわけで、ほら、行くぜ?」


 少年に向かって右手を差し出し掛けたところで、


「あー……そっか」


 と、少女は手を下ろす。僅かに寄せられた眉根からは、少量の困惑が見て取れた。恐らく彼女の脳裏に浮かんでいるのは、先日の記憶。

 女性XXに触れる。或いは、触れられる。

 常人にとっては何でもないことであり、日常に於いて気に掛ける必要など殆どないこと。にも関わらず、露口という人間にとっては平常心をこの上なく乱す事象であり、は自分だけでなく、「心配」や「気遣い」などの形となって他者の凪いだ心にまで余計な波を立ててしまう。或いは、「触れてしまった所為せいで露口を苦しめた」と、他者の心を傷つける。

 現に先日、目の前の少女をしてしまった。


「ごめんな、またアンタに嫌な思いさせるとこだった」


 否、彼女に“嫌な思い”をさせているのは自分だ。己が触れられることを恐怖しなければ、そもそも彼女が悩み、気に病むことなどなかったのだから。

 言葉を吐き出そうとした瞬間、


「――え?」


 す、と眼前に濃紺の布が差し出された。


「でも、これなら大丈夫か?」


 驚いて少女の顔を見ると、屈託のない微笑がそこには浮かんでいる。と同時に、布の正体が、セーラー服のスカーフだったのだと気付いた。


「手じゃなくて、こいつの端っこをさ、両手で持って欲しいんだけどさ……じゃねえと、ポートできねえから……いけそうか?」


 露口が何のリアクションもしないことに焦ったのか、微笑から一転、心配そうな表情でおずおずと撃鉄が問うてきた。上手く声帯を震わすことができなかったので、勢いよくこくこく頷く。すると彼女は安堵の息を吐きながら笑った。


「そっか、ならよかった」


 平常時のシニカルな微笑でもなく、先刻開錠詠唱ログイン時に見せた獣のような笑みでもなく、愛らしくも美しいその面立ちによく似合う微笑。


 露口がスカーフの端を握ると、少女の笑みの柔らかさが更に増す。撃鉄が安心したのが露口にも手に取るように解り、暖かな嬉しさが込み上げた。久しく純な喜色の笑みを浮かべていなかったためか、微笑したいのに困り笑いのような表情になってしまう。それがおかしかったのか、彼女は「あは」と屈託ない笑声を漏らし、それから、再度開錠ログインを宣言。システムに目的座標を告げる。

 胸をちりつかせる一抹の罪悪感を気取られぬよう祈りながら、少年は、少女と共に青い円環に呑まれていった。

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