02

「ッ、あの、待って……下、さ」


 最早最後まで発声すること能わず、肺が勝手に酸素を求める。勢いよく吸い込まれた空気は気道を冷やし、あばらと臓腑軋ませ、露口の胸の奥に重い痛みを走らせた。

 ぜえぜえと息は切れ、足はもつれ掛けている。最早、走り続けるだけで露口は一杯一杯であった。


 それとは対照的に、彼の約七メートル前方を走る撃鉄は、


「逃げてんじゃねーぞコラァ止まれっつってんだろ犬野郎! 僕ァ犬派だがテメエだけは許さねえからなド畜生が!」


 器用なまでに暴言を矢継ぎ早に繰り出しながらも、殆ど息を乱していない。


 愛しプリンを奪われ、怒髪天を衝く勢いは相変わらず。鬼気迫るそのさまは、犬がプリンの入ったケーキボックスをただ奪い去るために走っているのではなく、彼女の怒気に生命的危機を感じているが故に全力疾走しているのではないかと思わせる。犬の表情は引き攣り妙に怯えきっており、荒々しい呼吸音を漏らせど、一向にその速度を緩めようとはしない。撃鉄と露口を突き放すことはできずとも、大型犬故の強靱な脚力は二人が距離を縮めることを許さない。


 走っては道を曲がり、走っては建物の角を曲がり、それをもう何度繰り返したことか。

 撃鉄は犬に意識を集中させ、地の利のない露口は置いて行かれぬよう撃鉄の背中だけを追い続ける。今自分たちが何処に居るのか気に留める余裕など、彼ら二人にはなかった。


 ふ、と撃鉄の視界から犬が消える。左折したらしい。それを追い、彼女も幾度目かの角を曲がる。


 途端、視界が開けた。


 薄暗いため奥の方はよく見えないが、どうやら奥は行き止まり。周囲を見渡してみると、ここは建造物の中であり、嘗ては倉庫として使われていた場所のようだ。

 走ることをやめ、撃鉄が「もう逃げられねえぞコラ」と言い放ちかけた刹那、きゅうん、と犬が速度を緩めながら鳴く。おののきつつも僅かな安堵を孕む鳴き声に、若い男の声が「お、帰ってきたか」と答えた。


 声の主――薄汚れた格好の青年は、空間の最奥に辿り着いた犬を迎え、わしゃわしゃと撫で回す。

 撃鉄が「は?」とぽつり呟き、肩で息をする露口が彼女の隣に並んだと同時、犬と青年の背後から、二人の人物が現れた。


「おお! 今日もちゃんとって帰ってきたじゃねーか!」


「やっぱワンコは賢いねー、訓練した甲斐あったわ。……って、その入れ物、ケーキ? もうちょい良い物狙おうよー、弁当とか鞄とか財布とかさー」


 一人は少年、一人は少女。年齢は十七歳の撃鉄と露口と同じか、それより若干上か。犬を囲み、三人は喜んだり落胆したりしており、二十メートル強先で立ち尽くす二人に気付いていない。三人と一匹の意識がこちらに向いていないのをいいことに、撃鉄は静かにアクションを起こした。

 携帯端末を取り出しタップ。更に操作を切り替え再度タップし、回線を繋ぐ。不安そうに「沙田、さん?」と問う露口を片手を挙げて制し、相手が出るのを待った。


『はい、こちら特別報奨金管理係です』


「登録番号八二三七だ。確か……五月十四日発生、犬使った連続ひったくり事件のやつ、あったよな?」


『……該当案件を確認いたしました。本件はクラスEとなっておりますので、対象には原則重傷を負わせないようよろしくお願いいたします』


「了解、できるだけ努力するよ」


『どうぞお気を付けて。それでは失礼いたします』


 端末を耳元から離し、通話を終了させる。端末から漏れ出た声を聞いていた露口が、おどおどと栗色の双眼を撃鉄の紅玉のそれに向けた。戸惑う視線を受け、撃鉄は皮肉気に笑んで口元を歪める。


?」


 言って、撃鉄はおもてから表情を消した。それから大きく息を吸い込み、突如、


「お取り込み中の所、お邪魔しますよ糞野郎」


 言葉にて彼らに――連続ひったくり犯達に一石を投じる。


 三人と一匹の視線が、声の方向に――撃鉄と露口に向けられた。

 少年が「誰だよお前ら」と告げかけたが、青年がそれを制しあくまでも友好的に二人へと笑いかける。


「《要塞》の中で迷ったの? それともヤり場所探しかな、お二人さん? だったら、二つ先の角を曲がったところにある工場跡地がオススメ――」


「盛りの付いたそこらの猿と一緒にするんじゃねーよ、ゲスが」


 青年の声を遮って、吐き捨てる撃鉄。


「これまでの盗み、そして何よりも僕のプリンをひったくりやがったこと、許さねえぞアンタら。察するにアンタら《要塞》の人間か。『街』の連中に手ェ出したのが間違いだったな……アンタら全員、よ」


 換えてやる。


 その言葉を聞いた瞬間、三人の表情がにわかに険しくなった。「嘘だろ、まさか」、「“換金屋”だ!」、「私たち『街』には行ってないのに」、など驚愕と不安混ざる言葉を次々と口にする彼ら。頭上で飛び交う会話に孕む不穏な雰囲気が伝播したのか、犬が怯えたように鼻を鳴らした。

 軈て、何かを覚悟したかのような眼差しで、彼らは二人を見る。突如、三人の内の一人――少女が「あ」と小さく声帯を震わせた。四人と一匹の視線を受け止めて、所々ほつれたニット帽を正しつつ、右の口角を上げる少女。


「もしかして換金屋さん、中立子かな? でも残念だったねー、ここら辺に歪曲地点なんてないよ? 開錠ログインできるのって、歪曲地点限定なんでしょ?」


 告げて、くすくす笑い出す。それを見、犬を撫でながら下卑た微笑を浮かべ始める青年。そして、少年は嘲笑うような笑みを浮かべつつ、偶然足下に落ちていた――否、護身のため予め置いておいた鉄パイプを拾い上げる。


 中立子の換金屋は、中立子としての能力に頼って鍛錬を疎かにしていたり、武器を歪曲空間に送信アップロードし手ぶらな場合が多い。

 彼ら三人の前方に居る少年少女――露口と撃鉄。前者は栗色の髪と目をしており、中立子なのか、色素がやや薄いただの人間なのか、直ぐには判断できない。しかし後者は黒髪に鮮やかな赤いまなこという、東洋人ではおおよそ有り得ない色素発現。中立子だ。武器を携帯している気配はなく、体の線も細く華奢。二対三(プラス一匹)、数と暴力に訴えれば勝てるに違いない。

 得られた推論から余裕を取り戻した三人。彼らをまじまじと見、撃鉄は呆れたように鼻を鳴らした。


「歪曲地点限定だァ? んなモンはな、僕にとっちゃ意味がねぇんだよ。“この声”ある限りなあッ!」


 言って、撃鉄は笑う。その可憐な面立ちには相応しくない、然れど、彼女の美貌にこの上なく似付かわしい猫科肉食獣の笑みを湛えて。


「悪いな、露口君。図らずも――実技披露だ」


 露口を振り返った彼女は真紅の双眸を細め、やや獰猛な笑声を漏らす。そして再び三人の方へと向き直り――


「ウニヴェルサリス、《開錠ログイン》」


『――ウニヴェルサリスのログインを承認しました』


 歌い囀るようでいて、宣戦布告するが如し撃鉄の声に、中立子以外には不可聴の声が続く。

 一瞬だけ、大気が脈動するような、それでいて異常な程の静寂に包まれているような、奇妙な感覚が露口を襲った。だがそれも束の間のことで、彼の視線は撃鉄へと否応いやおうなしに吸い込まれていく。


 周囲の様子など気に留めず、中立子でなくば見ること能わぬ赤く発光するモニタを二つ滞空させた侭、撃鉄は構築式プログラムの使用を宣言。


「《受信ダウンロード》、グレッチ」


 三つの基本構築式プログラムの一つ、受信ダウンロード

 “グレッチ”と彼女によって定義付けられたそれが、二進数空間からこの世界に顕現する。他の誰でもない、撃鉄自身の声によって。


 赤く煌めく粒子を纏い、それが――一本のギターが彼女の眼前に現れた。


 ヴァイオリンの如しf字孔を有すボディーが宿すは、空の青。その鮮やかさは指板の黒によって引き締められ、f字孔と相まってシックな雰囲気を醸し出している。メタルパーツとピックガードは上品な黄金色こがねいろで、時折艶めかしい光沢を放っていた。そして、ピックガードにあしらわれているのは、隼。

 楽器メーカーが最高峰の一つグレッチが生み出した、“世界一美しいギター”と称されるホワイト・ファルコン。それを基にしたカスタム、珠玉の一本。オリジナルの名になぞらえるなら、ターコイズ・ファルコンとでも呼ぶべきか。


 そのターコイズ・ファルコンのヘッドに近い部分のネックを握り、何故か木刀でも握っているかのように正眼に構えつつ撃鉄は告げる。


「僕ら侵食者ハッカーは、何処に居たって開錠ログインできるのさ。現実世界を侵食ハックして、一定時間、歪曲空間への接続アクセスを可能にする。たとえそこが歪曲地点でなくとも、な」


 爪弾くのではなく、奏でるのではなく、対象たる存在を六弦を構えて。


 換金屋、もとい特別報奨金対象制圧者バウンティハンター・ライセンスⅡ種の所有者、沙田撃鉄――普遍者ウニヴェルサリスは、美々しくも凶悪に笑ってみせた。

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