track07.サクリファイス

01

「うーん」


 自室の姿見の前で、撃鉄は唸っていた。

 とはいえども深刻な雰囲気ではなく、少々悩んでいるだけである。


 やがて「うん」と軽く気合いをいれて、毛玉のような何かをむんずと掴み取った。

 毛玉――もとい、地毛より少し長めの前髪ウィッグを付け、ブラシで梳いて馴染ませること数回。後ろ髪は三つ編みにでもしようかと思ったが、己の長い髪を編むことを想像するとうんざりしたので、後頭部の下の方で一つに結ぶことにした。顔の横の後れ毛は、わざと多めに残しておく。

 それから、クローゼットから二年程前の服――現在の流行から少し外れた服を取り出し、それに着替えた。更に、洗面所へと移動し、瞳を黒く見せるコンタクトレンズを装着。


 再び自室へと戻って姿見を見れば、そこに溌剌とした陽の美々しさを持つ普段の撃鉄は映っていない。鏡に映っていたのは、目を隠す前髪から陰鬱さが漂う、少々野暮ったい少女。


「……よし」


 ふ、と笑声を漏らし腕を組む。その小生意気なさまや、悪戯っぽいにんまりとした笑みは沙田撃鉄のそれであるにも関わらず、彼女が他人の姿だけを借りているような奇妙さがあった。

髪型と服装、それから瞳の色を変えただけであるというのに。

 付け焼き刃の変装だが、彼女が思わず満足げに頷いてしまう程度には上手くいった。


 接触相手及び近隣の人間が沙田撃鉄を知っている可能性も否めず、偶然会った知人が気安く声を掛けてこないとも限らない。故に、印象を変えておくに越したことはないのである。

 外見を変えたとて、歩き方や声という誤魔化ごまかしようのない要素で正体が知られてしまうかもしれないが、何もしないよりは良いだろう。


 ただ、たすく結城ゆうき家の双子にはあまり見られたくない。きっと、変装の目的を知られてしまったら、呆れられたり笑われたり――それから、目的地が娼館街だけに要らぬ心配を掛けてしまうのではないかという思いもある。


 撃鉄が換金屋の仕事中に戦うこともあれば、無法地帯と名高き《要塞》にも出入りしていることは、彼らとて知っている。基本的に撃鉄の好きなようにさせてくれてはいるが、如何いかんせん三者とも心配性なきらいが無いとは言えない。

 それが撃鉄が彼らにとって“家族同然”である故なのか、それとも“家族ではない人物の子ども”であるからなのか。それがどちらに由来するものなのか、今はあまり考えたくなかった。


「兎も角、たっくん達にはこの格好で会いたくねえな」


 現地付近まで転移テレポートすれば、この三人に遭遇する可能性も限りなく低くなるだろう。

 己の携帯端末を起動させ、立体地図検索を起ち上げる。画面上で指を滑らせ、人の流れや建物の密集具合を確認。とはいえ、いきなり娼館街に転移テレポートすれば、変に悪目立ちしてしまう可能性がある。それよりは、“非日常”の直ぐ側に寄り添う“日常”たる表社会――娼館街から一本手前の通りに降り立つ方が良い。その方が雑踏に紛れやすく、転移テレポート時に注目を集めたとて、人々も「なんだ、中立子の転移テレポートか」と一瞬目をくれただけで直ぐに無関心になる。

 それを彼女はよく知っていた。中立子として過ごす日々の中で、うんざりするほど実感していたが故に。


 転移先として妥当な場所を大まかに洗い出す内、ある喫茶店が目に付いた。

 店は、娼館街の一本手前の通りと、そこから垂直に伸びる細い路地の直角部分に位置している。ここなら、人混みに紛れて路地を行けば、目的地へとスムーズに移動できそうである。

 目標座標アドレス設定時のために、経度・緯度を頭に叩き込み暗算で宣言用の値に変換しておく。携帯端末に触れて立体地図検索を終了させつつ、彼女は告げた。


「――ウニヴェルサリス、《開錠ログイン》」


 極めて平坦な声音ながら、それはあまねく魔を祓う祝詞の如く。たった八畳のに自室に、凜と降る。


『ウニヴェルサリスのログインを承認しました』


 声にこたうは天啓メッセージ。当時に、撃鉄の斜め前方に基本情報モニタが出現した。それが纏う赤い光輝に目線だけ遣りつつ、撃鉄は転移テレポートの実行と目標座標アドレスを宣言。


 やがて現れた青白の円環アニュラスに飲まれながら、彼女は祈る。


 どうか、くだんの“家族”たる三人や、近しい知人に出会でくわしませんように。



   ***



 だが無情なるかな、祈りというものは往々にして届かない。


 中立子であれば、蒼く発光する環が光の粒子となってほどけるさまを知覚し、中立子でなければ、突如路上に現れた少女の存在を知覚して、数多の視線を撃鉄へと注ぐ。

 数秒すれば何事もなく去って行く人々の目などは一切見返すことなく、撃鉄は三メートル程先を見つめ、苦く呟く。


「うーん、マジか」


 彼女が見遣る方向には、男が一人。


 あまりにも見慣れた、シャンパンゴールドの柔らかな巻き毛。そして何より、地面をする白杖。

 紺のボタンダウンシャツに黒いスラックスという、男が普段と異なる格好をしているため一瞬気付くのが遅れてしまったが、近しい知人、それも幼少の頃から己を知っている人物で間違いない。佑や結城家の双子に次いで、彼女が慕っている若神父――ヨハン・M・ディートリッヒである。


 そろり、そろりと踵を返す撃鉄。ディートリッヒは盲目ゆえに、彼女の“姿”には気付いていまい。道の端に寄って彼が通り過ぎるのを待ち、その後何事もなく歩き出そう。

 そんなことを考えていた、その時だった。


「あの、もしかして……」


 流暢にこの国の言語を発す聞き慣れた声に、肩が反射的に跳ね上がる。


 ――や、でも僕に声を掛けてきたって決まったわけじゃねえしな。


 半ば己に言い聞かせるようにして、一応ディートリッヒの方を振り返る。一応、だ。


 真昼の陽光が、サングラスの下にある彼の瞳を透かしていた。その双眼は、間違いなく撃鉄の方を向いている。

 気付いているのだろうか。


 少女がそろりと後退した気配を感じ取ったらしく、ディートリッヒは一瞬首を傾げてから、眉尻を下げる。


「申し訳ございません。人違いでした。知っている方にものですから……」


 とても良く似ていた、とはどういうことなのだろう。彼は目が見えない筈なのに、と疑問をいだきかけた。

 しかし、羞恥で顔を仄かに染めて申し訳なさそうに一礼する神父の様子に段々居たたまれなくなり、「神父様こんにちは」と思わず声を返してしまう。


「悪い悪い、ぼーっとしてて返事できなかったぜ」


 取り繕う後ろめたさを感じつつも、極めて自然に謝罪を込めて苦く笑う。


 こちらの声を受けて、神父は心底安心したらしく、詰めていた息を吐き出した。


ああ、良かったです! 絶対に貴女あなたの足音だと思ったのですが、とんだ人違いをしてしまったかと思って」


 柔らかな巻き毛も相まってか、青年の背後に“迷子の子羊が親を見つけた瞬間”を幻視しかける撃鉄。

 そして同時に、心の中で「成る程」とひとちる。足音で識別されていたのなら、誤魔化ごまかしようがない。完敗であった。


 安堵に相好を崩した神父だったが、「おや?」と首を傾げた。


「なんだか、今日はいつもとご様子と言いますか、雰囲気が違うような? 私の気の所為でしょうか」


「今日は私服着たいな、と思ってさ。髪も纏めて気分転換だよ、気分転換」


 どきりとしたが、努めて滑らかに言葉を返す。嘘を吐いてはいない。とはいえ、真実でもないが。


 こちらの言葉を受けて、ディートリッヒは「成る程、そうだったのですか。イメチェン、というやつですね」などと微笑した。


 彼は後天的に視力を失ったとのことだが、曰く、「音や空気の流れなど、見えない分その他の要素から周囲の状況をある程度推測しています」。きっと、いつもの撃鉄とは異なる物理的情報を感知したに違いない。

 だが、あまりにも的確すぎて、実は見えているのではないか、と時々疑ってしまうのは秘密だ。


「では、今日はお出かけですか?」


「ま、そんな感じかな。つーかさ、神父様こそ私服、珍しいじゃん」


 言って、まじまじと青年を見る。明度の低い色で上下纏められている所為せいか、いつもの黒い祭服カソック姿からはそれほどイメージが大きくかけ離れてはいないが、撃鉄が彼に会うのは殆どが教会であるため、私服姿は滅多に見かけない。プリン引ったくり事件に巻き込まれたあの日のように、街中でのエンカウントもままあるものの、ディートリッヒは祭服を身に付けていることが多い。

 撃鉄が「お互い、今日はレアな格好だな」と小さく噴き出すと、それにつられて青年も「そうですね」と微笑した。


「神父様もお出かけか?」


「はい。私は花珠はなたま神社へ」


 その答を聞き、何故神父がこの道を歩いていたのかが腑に落ちた。娼館街から一本外れたこの通りは、教会・花珠神社間を結ぶルートにおいて最短距離となるものだからだ。


「実は、シスターのお使いなのですよ」


「お使い?」


「ええ。なんでも『花珠餅が食べたくなったから、ヨハンさん買ってきて頂戴ちょうだい。天気も良いし今日はお散歩日和だわ』とのことで……人使いが荒いシスターですよね」


 やれやれと肩を竦めながらも、ディートリッヒはどこか楽しげに告げる。彼とシスターとは年齢が四十歳ほど離れているというのに、その面持ちは、子どもの微笑ましい我が儘を見守っているような笑みと酷く良く似ていた。


 シスター所望の花珠餅とは、地元の和菓子屋が花珠神社の敷地内限定で販売している餅である。

 上品な甘さの餡を柔らかな餅で包み、香ばしいほうじ茶の粉が塗された銘菓。思い出したときにふと食べたくて仕方なくなるような中毒性がある。


 教会の面々が最近どうしているか尋ねたくなったが、他の知人に見付かる可能性がないとは言えない。後ろ髪を引かれつつも、このあたりで会話を打ち切ることにした。


「ま、でもさ、シスターのそういうところ可愛いよな。お茶目なおばあちゃま、って感じでさ。それじゃあ、僕はそろそろ行くよ。神父様も気をつけて」


「はい。貴女あなたも。楽しいお出かけになりますよう」


「応。それじゃ」


 にかっと笑みを向ければ、青年も朗らかに手を振ってくれた。それから彼はゆっくりと雑踏へと紛れてゆく。


 白杖が地面に触れる音が十分遠ざかってから、撃鉄も目的地へと続く路地へと歩を進めた。

 小洒落た雑貨屋やレトロな純喫茶が佇む街並みが、足を踏み出す度に姿を変える。

 目に鮮やかな照明のなぎらつきも蠱惑的な煌びやかさも、昼間なので姿を潜めているが、光が点っていないが故により異質な空間であることが際立っていた。ナイトクラブ入り口上部の看板や、スナックの立て看板も今は眠りについている。セクシーパブが入っていると思しき建物の壁に備え付けられた有機ELの液晶が、利用料金や店内の雰囲気を紹介する映像を映し出していた。しかし、ディスプレイが映すそれは周囲の明るさに負けて白みがかり、昼間の太陽の下では幾分かちゃちに見える。

 更に奥へ奥へと進むと、やんわりと性を売る店から、本格的に性を売る店が多くなる。


 チープで俗な雰囲気の街並みを、時折通行人にまじまじと見られながら歩き続ける。

 野暮ったい子どもがこんな所に何故、と言わんばかりに彼らは少女を見つめるが、通り過ぎればどうでも良さそうに去ってしまう。変装していない、素の撃鉄であれば違う意味で彼らの目を一層惹いたかもしれないが。


 途端、視界が開けた。

 優美な洋館、趣のある和風の屋敷が建ち並び、先程までの安っぽい空気感は見られない。どうやら目的地・娼館街に着いたようだった。


 建物の外観を裏切らず、娼館街本通の店の料金は決して安くはないが“商品”の質が断然良い……らしい。そんなことを頭の片隅で考えながら、視線をぐるり巡らせる。

 そしてやがて、ある洋館を見つけてまたたきをした。館の入り口には、「星灯館せいとうかん」と刻まれた、上品な装飾の真鍮の板がめ込まれている。


 ――ここか。


 換金屋仲間の青年が約一ヶ月前に訪れた娼館。即ち、露口つゆぐちかなでが居た場所。


 事情を尋ねるならば、外の人間よりも中の人間の方が好ましい。

 転移テレポート前に確認した立体地図から得た情報で判断するに、この大通りの反対側に関係者の使用する裏口がある可能性が高い。星灯館の左側にある細い路地へと向かい、建物の裏側を目指す。撃鉄が脳内で推定していたよりも区画には奥行きがあり、少々時間を要した。


 路地を抜け、右に曲がったその時。


 星灯館の裏口が開き、二つの人影が現れる。


「で、のんびり休憩してたあたしを引っ張り出したからには、それなりの報酬はあんだよね?」


「ふふー。態々わざわざ私のお買い物に付き合って貰うんだから、勿論よ? 帰り道に、ちょっとお高いお菓子買ってあげる」


「お菓子かッ! まあ、嬉しいけど。でも、なんで近場で買える煙草にしないのさ?」


「だってこれが一番好きなんだもの。他の煙草じゃしっくり来なくって。なんでかしらねえ?」


 それは、二人の女だった。一方は溌剌と、そしてもう一方は柔和に紫煙を燻らせつつ、賑やかな会話を繰り広げながら撃鉄の方へと向かってくる。

 二人の格好や雰囲気は対照的だが、双方共に身綺麗で整った容姿をしていることから判断するに、この館で娼婦として働いている人間なのだろう。


 ――待つ手間が省けた!


 内心ガッツポーズをしながら、撃鉄は小走りで彼女たちのもとへと駆け寄る。いつものような流麗なフォームではなく、に相応しい、ぎこちない走り方で。


「あの! すみません」


 突如発された声に、彼女たちがこちらの方を見た。柔らかそうなショールを羽織った女は「あら?」と目を瞬き、黒パーカーとホットパンツを身に付けた女は“危険な場所にやってきてしまった迷子の猫”でも見たようにわたわたし始めた。


「どうしたのあんた、迷った? 悪いこと言わないから、早くここから出た方がいいよ。変なやつに声掛けられたりするかもだし」


「そうねえ。私達みたいなのなら兎も角、普通の女の子がここに居るのは危ないわ。あっちの方向に真っ直ぐ進めば、抜けられるから」


「違うんです、私、迷子じゃなくって……」


 かぶりと両手を慌ただしく振って否定の意を示しながら、撃鉄は頭の片隅で考える。二人共、動作にも表情にも不審な点はなく、腹に一物抱えていそうな様子も見られない。第一、悪意の有る人間ならもっと


 彼女らに裏がないことが解れば、二の句は既に決まっていた。


「人を、探しているんです」


 異口同音に「人?」と首を傾げる二人の前で、わざと肩で息をしながら立ち止まる。


「はい。以前、大事な試験を受けないと行かないとだめなのに、乗り換え地点で電子乗車券が入った財布ごと無くしてしまったことに気付いて……泣きそうになりながら途方に暮れていた私に、『いいから使って』って、お金を貸してくれた人がいたんです。おかげで、無事試験にも合格して……どうしても私、その人にお礼がしたくて。探している内に、その人がこの近くに居るって聞いたんです!」


「あー……成る程。そうだったんだね、それでこんな所まで来ちゃったんだ。その人、見付かるといいね。もし、あたしたちに何か解ることがあれば答えるから。ちょうど時間あるしさ。ね、樹理華じゅりか?」


 飾らない微笑と共に同意を求められ、樹理華と呼ばれた女は「勿論よ、キアちゃん」と温かに笑んでみせた。それから、撃鉄の方へと向き直り、


「ねえ、お嬢さん。ここに来るまで、怖かったり不気味だったり、大変だったでしょう? そんな思いをして来てくれたのに、『危ないから』だなんて追い返す真似できないわ。だから、協力させて?」


 樹理華は一点の曇りも影もない、穏やかな陽だまりのような笑顔をこちらへと向ける。万人を包み込むが如し優しさを持つそれを見ていると、撃鉄は若干気恥ずかしくなった。

 樹理華が母性愛を体現したかのような女性である故に、柔らかな口端に咥えた煙草が少々アンバランスに思えた。だがその相反するさまがかえって彼女を魅惑的に見せているように感ぜられる。


 対して、キア。

 気取らずさばさばとした物言いに、惜しげも無く晒した健康的で艶やかな脚線。シンプルだが端々に女性らしさも感じる美しいネイル。ヘルシーな雰囲気に似合う、メイクとファッション。どれをとっても齟齬がない。その身に纏ったものが絶妙に調和し、彼女の持つ躍動的な美しさを高め、際立たせていた。


 それよりも何よりも――天性のものであろうか。

 片や、上品な薄荷色ワンピースのVネックから覗く、白い柔らかな双丘。片や、スポーティーなカーキーのタンクトップから覗く、小麦色の張りのある双丘。彼女ら二人の胸元、非常に豊かでたわわであった。


 彼女らが身振り手振りをする度にふるりと揺れるそれに、撃鉄は悔しさが滲むおもてを見せぬよう俯き、羨望の声を漏らさぬよう歯を食いしばる。泣きそうになってなどいない、泣きそうになってなど。表情を歓喜で感涙しそうになっている風に装いつつ、撃鉄は白いおとがいを勢いよく上げた。


「本当ですか!? どうお礼を言えばいいのか……嬉しいです、ありがとうございます!」


 撫で下ろした己の胸の薄さに落ち込んだり、自分もいつかはきっとなどと思いつつも、頭の片隅で冷静に分析を実行。

 やはり、相変わらず二人から悪意は感ぜられない。それどころか、“勇気を振り絞って色街に恩人を探しにきた少女”に対し、純然な善意で協力しようという温かさに満ちている。その意思からは、“恩人”たる人物の情報を提供することで、非日常な街にやってきてしまった少女を陽の当たる元の場所になるべく速やかに帰してやろうという気持ちも窺えた。


 彼女らの善意を利用するかたちとなってしまうのが少々心苦しくあるものの、情報を得るため更に嘘を積み上げることとする。


「その人、私を助けてくれたときに写真を落としていったんです。それが、ええと、これなんですけど……」


 もたもたと携帯端末を操作し、くだんの画像を拡大表示。画面に露口つゆぐちかなでのみを表示させ、彼女たちに見せた。


「どんなことでも良いので、もし、何かご存じでしたら」


「え? あれ? この子、ってさ」


「ええ……奏ちゃん、よね?」


 顔見知りであったことに驚いたのか、キアは大きな目を更にぱちぱちと見開き、樹理華は喫した紫煙を発声と同時にほわりと吐き出した。煙草葉の苦さよりも、紅茶の豊かな芳香と渋みが鼻をくすぐる。


「知っている人、なんですか……?」


 半ば確信しつつ、撃鉄は問うた。


「知ってるもなにも。ねえ、キアちゃん」


「うんうん。星灯館ここの子だよ」


「本当ですか!?」


「ええ。教育係、というよりは普通の先輩後輩みたいなふうに、私がここのこと、色々教えてたの」


 露口の姉は、確かに星灯館にいた。あとは、直接または間接的に奏とコンタクトを取ることができれば御の字。そんな期待を、“探し人が見付かった少女”のものとして瞳に乗せる。


 希望に輝くの双眸に見つめられ、キアは「でも」と言い淀む。それから、首を傾げながら樹理華を見た。


「一ヶ月くらい前だったっけ? そこから見なくなったよね、あの子」


「そうなの。お休みにしては長いし、気になって昨日オーナーに思い切って訊いたらね、『ちょっと事情があって、辞めた』って」


「えっ嘘、知らなかった……」


 茫然自失を樹理華を見返すキアと共に、撃鉄も衝撃のままに同様に視線を遣った。


 と同時に、歯がゆさがふつりと込み上げる。露口奏がこの娼館にいたという情報をもたらしてくれた青年が、この場所を訪れたのも確か一ヶ月ほど前。であれば、露口の姉は彼と邂逅してひと月も経たぬ内に、星灯館を去ったということになる。青年に身の上話をしたのも、ここを離れる決意をしていたからなのだろうか。

 ともかく、一足遅かったのだ。折角掴んだ筈の手掛かりが、するりと掌から逃げていく。


 足掻きも甚だしいと自覚しつつも、撃鉄は彼女らに問うた。


「その、奏さんがどこに住んでいるか、とか、ご存じないですか?」


 切迫が滲む撃鉄の声に、申し訳なさそうに樹理華が頭を振る。彼女に視線を向けられたキアも、肩を落として同様のジェスチャーを行った。


「あたしも知らないんだ、ごめん。多分、家知ってる子、いないんじゃないかな。あの子、基本的には部屋にずっと籠もってたし、仕事が終わったら迎えの車で直ぐ帰ってたから。樹理華以外とはあんまり関わりなかったみたい。あたしは樹理華と仲良いから、ちょいちょい話したこともあったけど……樹理華が知らないなら、誰も知らないかも」


「そうね。奏ちゃん、私のことは慕ってくれてたように感じたし、色々な話もしたけれけど、住んでる場所の話まではしなかったから」


 火種から昇る白を目で追ってから、樹理華は肺一杯に煙を吸い込んだ。そして、それを言葉と共に吐き出してゆく。


「奏ちゃんと、もっともっと話をしておけば良かったのかな、って昨日からずっと思っちゃって。あの子が辞める理由が、もし自分も経験してきたような事柄から来ていたなら、辞めるにしてもここに残るにしても、少しだけでもあの子の手助けになったかもしれない。って」


 肩を落とし、「なんて。傲慢な考えたけど、ね」と短くなったフレーバーシガレットを携帯灰皿にしまう。


 時は逆巻きには動かない。彼女が述べたのは、叶う筈もない「たられば」でしかない。


 しかし、初対面の男に様々な私話をした露口奏が、この場所で最も打ち解けていた樹理華に何も相談せず去ってしまったのは、いささか不自然に思える。

 敢えて何も語らなかったのか。それとも、語ることができなかったのか。


 黙ってしまった撃鉄を困らせたと思ったのか、「なんだか変な空気にしちゃった。ごめんなさい」と彼女は微苦笑を浮かべた。


「いえいえ! 奏さんと一番親しかった方にお話が聞けてよかったです」


 言って、撃鉄ははにかんでみせた。姿形こそ偽ってはいるが、この笑顔も、先の言葉も心からのもの。


 とはいえども、得られた手掛かりは多いようで少ない。オーナーに接触できれば、更なる情報を手にできる可能性はある。

 それを確実に可能とするには、時間を掛けて地道に下準備を整えたうえでコンタクトを図るか、若しくは就職希望者として星灯館に潜り込むか、そのどちらかとなろう。

 だが、星灯館内部や従業員等に関する情報も充分でない今、双方とも現段階ではあまり気乗りせず、二の足を踏んでしまう。


 そして、本日の収穫、露口少年に明日にでも伝えるべきか。それとも、“迎えの車”などについて精査し、居住地を突き止める等の決定的な情報を手に入れてから定期報告時にでも伝えるか――。


 思考を巡らせつつも、二の句をどうするか考えていた、その時であった。


 突如、鳴り響くクラクション。耳をつんざかんばかりの警告音の方向を見れば、レトロな浮動式自動車が猛スピードかつ無茶なハンドル操作でこちらに突っ込んでくるではないか。


 三人は各々、反射的に道の端に飛び退く。


 その際、撃鉄とキアがぶつかり、少々もつれ合ってしまう。撃鉄は「っきゃ」と咄嗟に声を作って悲鳴を上げ、か弱そうにたたらを踏んだ。一方、キアは「うわっ!」と叫声を上げ、蹌踉よろめきながらもどうにかその場で踏みとどまり、クラクションの主をめ付ける。


「どこ見てんの馬鹿野郎ッ!」


 すかさずキアが飛ばした罵声が聞こえたのか、車は一旦速度を緩めたようだった。運転席の人物がちら、とこちらを伺っているような動きを見せる。しかし、己が誰も跳ね飛ばしていないことに安堵したのか、謝罪や会釈もなく、車は走り去ってしまった。


 普段なら撃鉄が舌打ちをしているところだが、今日はしおらしい少女として振る舞わねばならない。今回はキアにその役目は譲っておこう。


「あれ、多分どっかの娼館みせの車だよね樹理華」


「そうねえ。大方、お得意様のお迎えにでも遅れそうだったんじゃないかしら?」


「何処のか解ったら文句言いに行ってやる」


 舌を出し、中指を突き立てかけて、キアは目を瞬いた。「えあ?」と間の抜けた声を発しつつ、再び己の中指を見遣る。もう一度まじまじ確認したが、その爪にあるべきものが存在しない。


「うわあ! ネイルもげてる! これ付けたばっかだったのに、もう最悪……」


 先日新調したばかりのネイルチップがとれてしまったらしい。頭を抱えながらキアは悪態と溜息を吐いたが、樹理華の「大丈夫?」という声に顔を上げる。


「大丈夫じゃないし……って、え?」


 不服そうに答えかけたキアだが、樹理華の声は彼女に掛けられたものではなかった。それが手の甲から僅かに血を滲ませる少女に掛けられたものだと気付き、キアは思わず少女の手首を取る。


「あんた大丈夫!? 血、出てるよ!?」


「大丈夫ですから。平気です、平気です」


 血は少々滲んでいるものの、僅かに傷むだけで本当に大したことはない。首を大きく振りながら撃鉄は否定する。

 きっと、先程縺れ合った際に何かが皮膚に軽く引っ掛かってしまったのだろう。


 撃鉄の両目を痛ましそうに見つめるキアも、同じ考えに至ったらしかった。そして同時に、少女の手の甲を傷付けた原因にも気付いて。


「たぶん、あたしのチップだ……ごめん。痛く、ない?」


「はい、大丈夫です」


「本当に?」


「本当です。全然痛くないですよ。この前、猫ちゃんに引っ掻かれたときの方がよっぽどでした」


 安心させるように、体験を織り交ぜつつ気の抜けた微笑をへらり浮かべる。


 こちらの表情と言葉が届いたようで、力が入っていたキアの肩がゆっくりと下がった。眉間の皺がゆるゆると緩み、艶やかな唇が零したのは安堵の息。


「もし後で膿んできたり、痛みが酷くなってきたら言いなよ? これ、私の名刺。渡しておくから。ね?」


「ありがとうございます」


「もうじき夕方になるわ。貴方、そろそろ帰った方が安全かもしれないわね。うちの周辺はまだ客層もいいけれど……本通りを離れると変な人たちもうろうろしてるから」


 そう告げながら、クラッチバッグから取り出した絆創膏をてきぱきと撃鉄の手に貼る樹理華。パステルカラーを基調にした、星が描かれたやたらに可愛い絆創膏であった。


 そのファンシーな柄に和まされつつも、逡巡してから撃鉄は「そうですね」と相槌を打つ。娼館街にもう少し滞在すれば運良くオーナーと出会えるかもしれないが、相手の顔も知らない。偶然遭遇したとて、きっとなど相手にされず門前払いだ。


 今回、露口の姉を知る二人に接触できただけでも幸運だったのではないだろうか。それに、奏と最も親しかったという樹理華から、聞きけることは粗方聞き出せただろう。


「奏さんのこと、色々教えてくださってありがとうございます」


 一礼をし、「それでは、さようなら」と元来た道を戻ることとした。角に差し掛かったとき、振り返って手を振るとにこやかに手を振り返してくれる樹理華とキア。若干名残惜しく思いつつも、角を曲がってしまうと二人の姿は完全に見えなくなった。




 故に、この先の彼女たちの会話を少女は知らない。


「……樹理華、あたし思ったんだけどさ」


「なあに?」


「あの子、素材凄く良いよね?」


「やっぱり!? そうよねー!」


「絶対やばく可愛くなるよー、化けるよ」


 やれこんなメイクが似合いそうだの、やれこの髪型が似合いそうだの。


 二人が小一時間盛り上がっていたことを、渦中の少女本人は知らない。




   ***




 青の電光爆ぜる中、柔らかに舞い降りる影が一つ。その影こそは、沙田撃鉄。彼女が降りたる転移先は、自宅の玄関内であった。


 たすくの靴がまだないのを確認し、胸を撫で下ろしながら前髪のウィッグを外す。いつもの装いでないことをディートリッヒ以外には知られることなく、どうにか帰宅できたようだった。


「……シャワーするか」


 早いけど。と口の中だけで呟いて、その足で浴室を目指すこととする。色々な意味で安心した所為かにわかに疲れが押し寄せたので、汗ごと流してしまおうという寸法である。


 道中、自室のドアを開け、ウィッグを机上にぽいと放る。そして衣服を収納したチェストの方に歩み寄りつつ、髪を纏めていたゴムを外した。下着と着替え用の部屋着を手に取り、部屋をあとにし脱衣所へと向かった。


 脱衣所の扉を開け、服を脱いだり、洗面所の鏡を見ながらカラーレンズを外したりしつつ、娼館街で出会った二人のことをぼんやりと考える。

 高級娼館が立ち並ぶ土地柄もあるのかもしれないが、二人とも親切で情のある女性だった。他の色街や《要塞》では人の負の感情に触れることが多いので、彼女らのような人間に出会うと少しほっとするものがある。


 手の甲に貼られた可愛らしい絆創膏に、思わず笑みがこぼれる。名残惜しいが、絆創膏を取ってしまうことにした。浴室で水に触れてしまえば、きっと無情に剥がれてしまう。そうなるよりは、自分の手で剥がしてしまいたかった。


 剥がした絆創膏を、粘着面を内側に三つに折り畳む。気遣ってくれた二人に感謝をしつつ、優しくごみ箱へと入れた。


 それから、彼女は手の甲へと視線を向ける。

 そこには、傷を塞ぐ細長い瘡蓋かさぶたが形成されていた。ボディソープやシャンプーは染みはしないだろうが、念のため傷口が泡に触れてしまわないよう留意せねば、と考えつつ浴室の扉に手を掛ける。


 脱衣所の床よりも温度の低い浴室のそれに、ひたりと触れる右足。続いて左足が接地すると同時、後ろ手で浴室のドアを閉める。その予定だった。


「ッう――」


 誤って手の甲を――よりにもよって傷口をドアにぶつけてしまう。気が緩んでいた所為だろうか、自分とドアの距離を上手く把握できていなかったらしい。

 大した痛みではなかったものの、思わず瘡蓋に触れないよう手元を優しくさする。力を込めていないつもりだったが、周囲の皮膚を引っ張ってしまったのか微弱な電流に似た痛みが走った。


 同刻、痛みをトリガーとして撃鉄の脳裏に或るが過ぎる。


 一体自分が“何に至った”のか解らず、彼女は豊かな睫毛に縁取られた目をしばたたかせた。

 そのまま数秒呆けてしまったが、やっとの思いで絞り出す声。


「そういうことかよ」


 項垂うなだれるようにして、浴槽のふちを握る。縁を掴むのは、おのが両手。それを茫洋と見つめながら、諦めにも似た自嘲の笑みを浮かべた。


「それが、魔女の作り方か」


 見落としていた。見ないようにしていた。候補から意図的に外していた。

 例外のない物事など、決して存在しないというのに。


 そして何より、


だってのにな」


 乾いた笑声を漏らしかけたそのとき、浴槽横の壁に嵌め込まれたパネルから通知音が流れ出す。やや目を眇めるようにしてそれを見遣れば、「沙田事務所宛に、メッセージが届いています」と表示されていた。


「開封して、内容を空間投射」


 音声入力を受け取ったパネルが、文字列を宙に映し出す。丁度彼女の目線の高さに投射されたそれは、以下の内容であった。


 Subject:露口です。

 From:露口君

 お世話になっています。

 実は、姉に関する手掛かりが見付かりました。

 確かめに行きたいのですが、土地勘もあまりなく一人では少し心細いです。

 もしよければ、三日後の十六時に事務所でぼくの話を聞いていただいてから、一緒に現地に同行してもらえませんか?

 よろしくお願いいたします。


 露口からのメッセージに目を通し終えた彼女の口の端は、愉快そうに、不敵に歪んでいた。そしてそのまま、壁面パネルに「音声通話、水鏡佑」と指示を飛ばす。

 幾度目かの呼び出し音の後、聞こえたのは『もしもし、どないした?』とよく知る平坦な声。


「たっくん、今何してる?」


『今か? で仕事しとるとこやよ。もうちょい時間掛かりそうやな』


「なら丁度いいな。今日、まだ?」


 その言葉だけで通じたらしい。寸毫の間を置いてから、『ええけど』と抑揚のない返事が返ってきた。


「三日後の十六時、露口君と会うことになりそうでさ。『それ以降』のをよろしく。僕が健やかで在れるようにな。細かいところは任せるぜ」


『ん。まあ、ええようにやっとくわ。ほいだらそれじゃあな』


「んじゃ」


 露口少年の依頼。魔女の絡繰り。姉の居場所。

 全てを詳らかにするには、これ以上なくタイミングが良い。


 話中音が小さく反響する浴室で、彼女は長く息を吐いた。

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