02

 そしてきたる、約束の日。


「お久し振りです、沙田さん」


 温かな紅茶を一口含み、ほうと息を吐き出しながら告げる露口。カップに口を付けた際に湯気が当たっていた所為せいで、鼻筋がほんのりと赤い。


「応、久し振り。つっても、一週間経ってねえんだよな。変な感じ」


 テーブルを挟んで少年の正面のソファに腰掛けた撃鉄が、苦笑しながら肩を竦めた。それから、少々気まずそうに言の葉を紡ぎ始める。


「つうかさ、折角きてくれたのに、バタバタしててちゃんと出迎えられなくてごめんな」


 露口少年の来訪予定時刻は十六時。それまでには、余裕を持って彼と対面する心算でいた。しかし、


「急に昼前『飼ってるチンチラが脱走したから捕まえて欲しい』って依頼が入ってさ。これが意外とすばしっこくて、苦戦したのなんの……」


 無事に小動物を捕獲し、帰ってきたのは定刻の三分前。しかも、撃鉄が事務所に戻った直後に露口が現れた。

 後片付けやら着替えをせねばならなかったためろくに露口に接客できず焦り掛けたが、事務所スペースにやってきたたすくが案内やお茶出し、世間話での場繋ぎを行ってくれた。


 撃鉄の準備が整ったのを察した佑がこの部屋を去る前に、医院の方はどうしたのかこっそり訊いたところ、どうやら本日は元より暇だったらしく「席を外しておりますので、御用の方は沙田事務所まで」と書いた札を下げてきたのだという。(不定期な本業の合間に)開業医をやっている故のフレキシブルさに助けられたのであった。


 悟られぬよう安堵の息を吐く撃鉄。その差し向かい、露口少年は僅かに眉を寄せ、首を傾げる。


「どうした露口君」


「その、ちんちら? というのは、ペットですか?」


「応。チンチラ。知らないか?」


 問えば、露口は緩やかに首を横に振った。想像がつかないと言いたげな面もちで「その、チンチラって一体どんな生き物なんでしょう?」などと疑問を投げかけてくる。

 いざ説明するとなると非常に難しいが、撃鉄は近しい生物の名を頭の中で手繰り寄せる。


「うーん。結構珍しい小動物で、何つーか……すっげえ雑に言うなら、『デカいハムスター』か『耳の短い兎』が近いんじゃねえかな。大きさは兎よりひとまわりくらい小さくて、毛は灰色だったな。捕まえてる時は必死で解んなかったけど、後で触らせて貰ったらフワッフワで手触りがよくてさ。目も黒くて、まん丸で意外と可愛かったぜ」


 チンチラの正体が愛らしい小動物だと解り、興味がそそられた彼の栗色の両目には光が湛えられ、唇からは感心したような息が小さく零れた。


 その様子を見、撃鉄は「へえ」とにやにや頬杖をつく。


「露口君って動物、好きなんだ?」


 しっくり来るような、少々意外なような(彼は小さな動物相手にも、おっかなびっくり接しそうな気がするからだ)、そんな感覚を抱きつつ問うてみる。


 急に声を掛けられた露口の肩が「えあ!?」というよく解らない悲鳴と共に跳ねた。頭の中にふわふわの可愛い生き物を思い浮かべ、わくわくと考えを巡らせていたところだったらしい。


「は、はい。小さい頃、小動物と触れ合う機会が多かったので、親しみもありましたし自然と好きになりました」


「そっか。成る程な」


 臆病ではあるが、心根は優しそうな露口のことだ。きっと小動物達のことも可愛がっていたのだろう。微笑ましく思いつつも、それが既に失われた幸福な過去の記憶であることがどうしようもなく歯痒い。気付けば彼女は、本心のような、社交辞令のような提案を口走っていた。


「飼い主のひとがさ、是非また遊びに来てくれって言ってたんだよな。色々決着がついたら一緒に見に行こうぜ、チンチラ」


「そうですね、色々と――」


 決着がついたら、という言葉を、少年は発さなかった。音の形をなさぬよう口内に押し留め、苦い錠剤の如く溶かし込む。

 何となく撃鉄の瞳を見るのがはばかられた露口は、軽く視線を少女から外す。

 ソファの座面に添えていた手に我知らず入っていた力を緩め、再び撃鉄へと視線を向け直した。


「なんだか、話を脱線させてしまってごめんなさい。ぼくのために、今日時間を作って頂いたのに」


「いや。そもそも脱線させる原因作ったのは僕だし、気にすんなって。それで、メッセージに書いてくれてた『お姉さんに繋がりそうな場所』っつーのは?」


「えと。その、それが――」


 少々言い淀むようにして、少年は視線を泳がせる。まるで、親に自らの悪事を述べる幼子のように。


「自分の家族のことなのに、沙田さんに任せっぱなしなのもなんだか申し訳なくって……ぼくも、自分なりに姉さんに関する手掛かりを集めてみようと思ったんです。それで、色んな人に姉さんを知らないか尋ねてみました」


「随分まあ無茶したなあ、依頼人殿。焦る気持ちも解るけど、魔女がアンタの存在に気付くきっかけになっちまう可能性もある。リスクはでかいぜ。今後はやめとけよ?」


「そうですよね、はい。これからは控えます」


 反省の意を示す露口の表情には、安堵も見ゆる。撃鉄に厳しく叱責されるとばかり思っていた少年は、軽い注意を受けただけで済んだことに胸を撫で下ろしていた。


「で、聞き込みしている内に、アンタは何かを得たっつーことか」


「はい。メッセージを送った二日ほど前でしょうか。偶然、聞き込み中に宅配業者のかたに出会ったんです。宅配業者の方なら、配達で街の色々なところに行っているだろうし、『もしかしたら』って思って訊いてみました。そうしたら、『一週間程度前に、似た人が胸元に何かを抱えて建物の中に入っていくのを見た』と教えてくれました。聞けば、姉らしき人物を目撃した場所が、《要塞》手前のはいビルがいみたいで……」


 視線を泳がせてから、露口は言い難そうにおずおずと上目遣いで撃鉄を見た。


「前、沙田さんと一緒に偶然《要塞》に行きましたよね。情けない話なんですが、ぼく、あの場所の空気や雰囲気が、非日常的でちょっと怖かったんです。似たような場所だったらどうしようという不安もありますし、土地勘もないので迷ってしまうんじゃないかと怖くなってしまって……なので、同行していただけたらと思い、メッセージを送ったんです」


 腕を組みながら「成る程な」と呟く撃鉄。


 《要塞》手前の廃ビル街。その言葉が指す場所は、彼女の知る限りひとつしかない。《要塞》程の無法地帯ではないが、それでも退廃的な場所には変わりないエリア。少年が感覚的に拒否感を覚えるのも頷ける。


 それに、だ。

 件の街は、何かから身を隠さねばならない人間には、極めてうってつけの地。人目につき難く、《要塞》より治安はまだいい。


 露口奏が娼館「星灯館せいとうかん」に姿を見せなくなったのは、約一ヶ月前。露口曰く、配達員が奏らしき人物を目撃したのは約一週間前。

 もしも、配達員が本当に露口奏を見たのだとすれば、「彼の姉は、星灯館を去った後に廃ビル街に生活拠点を移した」という仮説が、時系列に矛盾なく成り立つ。


「どんな建物かは聞いたか?」


「ええと、はい。廃ビル街の奥の方にある建物で、確か『クラブ・マグノリア』とかいう看板があったと聞きました」


「成る程な、サンキュ」


 プリーツスカートの内ポケットより取り出した携帯端末を素早く操作する少女。それをどこか不安そうに見遣る少年。


 彼女が起動したのは、先日娼館街を訪れた際にも利用した立体地図検索だった。遙か上空に浮かぶ人工衛星による観測、そして監視カメラ等の“目”を最大限に活用し、指定した場所を立体で、尚且つリアルタイムに見ることのできる優れもの。

 しかし、今回の目的地たる廃ビル街は、そもそも“目”たる存在の配備が殆どない。端末をあれこれ弄ろうとも、彼女が得ることのできた情報は、廃ビル街を上から見下ろした衛星映像のみ。


 撃鉄の舌が鳴らした小さな苛立ちに、露口の肩が跳ねる。彼女は「わりい」とだけ呟いて、ばつが悪そうに視線を外した。目線を斜め下に遣ったまま、二の句を継ぐ。


「前情報はろくになし。けど、取り敢えず行くしかねえな」


「そう、ですか」


「ま、そんなに心配すんなよ。つっても、アンタが《要塞》周辺を不気味に思う気持ちも解るしな。僕の事務所このばしょからは、ポート……転移テレポートで移動する。前のプリンひったくり事件の帰りみたいに、二人でな」


「はい」


 撃鉄は起動させたままの端末を操作しながら、「目的地は、廃ビル街近辺の『いま現在安全であること』が確認できる場所だ」と告げ、ゆっくりと瞬いた。艶やかな睫毛が下りれば、桃色の頬に一瞬だけ影が落ちる。


「と言いつつも、だ。この辺の『安全な場所』より、目的地は若干危険だ。だから、ポート実行の精度自体も上げておきたい。処理が事故バグって座標がズレてヤバい場所に飛ばされた、なんざ御免だしな。危険に対して攻防の心得が多少ある僕だけがポートするならまだしも、アンタもいるから保険は掛けておいて損はないだろ」


「ええと、あの。『実行の精度を上げる』というのは、どういう意味なんでしょうか? 何かの所為せいで、上手くいったりいかなかったりするんですか?」


 好奇心をくすぐられ、やや身を乗り出す露口。


「久々の授業の時間だな」


 言って、撃鉄は苦笑する。しかし、その笑みのにがさはどことなく楽しげでもあった。


「処理が想定通りにできない原因は、大きく言えば三つだ。一つ目は、ポートを実行した歪曲地点か、ポート先の歪曲地点のどちらかに高い負荷が掛かっている場合。例えば、大勢の人間が寄ってたかって、或る特定の歪曲地点に接続したり、構築式プログラムを実行したり……ってのが考えられる。歪曲地点は、僕らが生きるこの世界と、歪曲空間を繋ぐ柱だ。歪曲地点に負荷が掛かれば、二つの世界を行き来する情報の通信速度・処理速度も低くなる。そして、目的地からズレちまう誤差が生じたり、全く違う場所に飛ばされるような誤作動が起こったりするのさ」


 ふんふんと頷きながら傾聴する露口少年に向けて、撃鉄は更に続けた。中立子の話を知りたがる少年の、瞳の輝きは嫌いではない。寧ろ、好ましささえ感じてしまう。


「二つ目は、ポートの実行地と目的地の距離が極端に長い場合。そもそも、人間を全く別の場所に“同一の存在”であることを維持したまま移動・顕現させる転移テレポートっつー構築式プログラムそのものが、距離が開けば開くほど難しくなる。例えば、ここから隣街へ、くらいなら誤差は滅多に生じない。ただし、この首都・和歌山から、目的地に京都を指定して転移実行した場合、到着場所が目的座標から多少ズレるのは仕方のねーことなんだよ。目的座標ジャストの場所になんざないと考えた方がいい。ただし、長距離移動の誤差に関しては、距離が広がると構築式プログラムそのものの精度が下がることに加えて、実行者の安定性が欠如しちまうことも加味される」


「安定性の欠如というのは、前に送信アップロード受信ダウンロードのお話をして下さったときの『疲れ』も関係あるんですか?」


おうさ。単純な体力としてのフィジカル、精密な計算を平静に実行するためのメンタル。フィジカルなら『へとへと』、メンタルなら『集中できない』のが、それぞれの『疲れ』だな。メンタルの疲れ、フィジカルの疲れ、それから、若干毛色は違うけど所有領域メモリの使用量増加。どれかの所為せいで負荷が生じれば、『安定性が欠如』して演算能力が低下するし、演算能力の低下が三要素に負のフィードバックをもたらしたりもする」


 一拍置いて、


「フィジカル、メンタル、所有領域。この三要素は、転移テレポートだけじゃなく、色んな構築式プログラムを実行する際の重要な要素だ。だから、中立子が開錠詠唱ログインしたときに自動的に立ち上がるモニタで『基本情報モニタ』ってやつがあるんだけど、そこに表示されるのが『三要素それぞれの負荷状況のグラフ』なんだぜ」


 驚いたような、感心したような息が露口の口から吐き出される。以前彼を「世間知らず箱入りピュア息子」と形容した撃鉄ではあるが、こちらの言葉に対する少年の反応があまりに純なので、若干気恥ずかしくなってきた。しかし、ここまで来て止めるわけにもいかないので、一度咳払いしてから説明を再開する。


「三つ目は、場所。まあ、これはほぼ物理的な“場”だな。『或る形而下空間座標と密接に連動する形而上座標に於いて、以下に示す各値が次の条件を満たすとき云々』とか詳しいことは複雑で面倒だし割愛するぜ。まあ、『携帯端末が繋がりやすい場所・繋がりにくい場所がある』のと同じように、『歪曲空間に繋がりやすい場所・繋がりにくい場所がある』と思ってくれ。僕は侵食者ハッカーだから、何処にいても歪曲空間に接続アクセスできるけど、近場だとこの建物の入り口が安定しやすいかな」


「色々なものが、実行の精度に関わってくるんですね」


「ああ。話をざっくり纏めると、歪曲地点への負荷状況。実行地と目的地の距離。歪曲空間に繋がりやすい場所かどうか。この三条件と実行者の安定性に係る三要素に注意しておくことが、転移テレポート構築式プログラムをできるだけ想定通りに使う要になる。一つ目の条件については、僕が歪曲地点以外でも開錠ログインできる侵食者ハッカーだから問題ない。二つ目の条件に関しては、同じ市内だからそこまで致命的とは言えねーけど、多少の誤差が出る可能性は否定できない。つうワケで、三つ目の条件『歪曲空間に繋がりやすい場所』から廃ビル街に


「『歪曲空間に繋がりやすい場所』……ええと、この建物の入り口、でしたっけ?」


おう。じゃあ、早速行こうか。一旦外に出るぞ」


「はい」


「あっ。トイレ行っておかなくていいか?」


「だ、大丈夫です……はい」


 突然の幼子扱いに、少年は思わず赤面した。きっと、現地での調査時間が読めない故の配慮だったのだろう。だが、そこまで長時間の調査にはなるまい。


 撃鉄が立ち上がり、露口もそれに倣ってソファから腰を浮かせた刹那、事務所のドアノブが回される。露口はやや緊張した面持ちでドアが開いていく様子を見たが、撃鉄は来訪者が誰であるかなど解りきったように「どうした?」とその人物に投げかける。


 その男は、室内を見回してから、少女の方を見て、


「なんや、これから出発するところなんかいね?」


 方言混じりの抑揚に掛けた声。少々強面気味な顔立ちと威圧的なまでの長身だが、敵意のない静かな雰囲気。その人物の正体が佑であると解り、少年は強張ってしまった表情を緩めた。


「どうされたんですか、水鏡さん」


「野暮用あってな。ま、


 いつもの調子で淡々と、穏やかに告げた佑。ゆっくりと瞬く隻眼が、る方向へと向けられる。露口がその目線の方向を追うと、男が見ているのが撃鉄だと解った。


「これ、着て行きなれよいきなさい。もう初夏やなんや言うけど、今日は少し肌寒いかもしれんから」


 言って、佑が少女に歩み寄りながら差し出したのは、濃紺のウィンドブレーカーのような服だった。カジュアルなアイテムであるが故に、スタンダードなセーラー服を纏う現在の撃鉄の格好には、あまり似つかわしくない。

 だが、彼女は不平を述べたり不満を顔に出したりすることもなく、寧ろ嬉しげにそれを受け取る。


「サンキュー、たっくん。助かるぜ!」


 にかっと笑う少女に対し、眼帯の男は多くを語らず「ん」と一言だけ告げた。


「じゃ、行ってくるわ」


「気ぃ付けてな」


 簡単な、しかし、彼と彼女にとっては普段と何ら変わりないであろう挨拶を交わして。撃鉄は事務所の出口へと向かい、佑は彼女の背を見送る。

 露口は撃鉄の後を追いつつも、慌てて振り返って佑に会釈した。

 少年の焦燥の滲むそれを隻眼に捉えた男は、体ごと少年の方へと向き直って軽く右手を上げる。


 露口は、御座形おざなりな自分の挨拶に佑がそれを返してくれたことに対し、何処どことなく申し訳なさを抱きつつ再度一礼。

 それから、慌ただしく撃鉄の背中を追う。


 ぱたぱたと駆けていく仕草に合わせて跳ねる栗毛の髪と、その少し前方、華奢な背中で悠然と揺れる艶めく御髪。

 この緩急対極な動きを暫し見つめてから、佑はおもむろにソファの方へと向かい、緩慢と腰を下ろした。柔らかな背もたれに体を預け、静かに息を吐きながら目を閉じる。


 瞼によって覆い隠されてしまった鈍色の眼。

 その隻眼にどのような感情が込められていたのか、少年はついぞ知るよしもなかった。

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