track02.意識
01
かちり、という音が
音の方向を見遣ると、どうやら壁掛け時計の針が動いた音らしい。いつの間にやら、あと三分で日付が更新されるような時刻になっていた。
白衣は既に脱ぎ、ネクタイも外してはいるものの、上は青みがかった暗いグレーのワイシャツに、下はスーツパンツの侭である。だが佑は
壁に掛けられた可曲有機ディスプレイ、そのリモコンを繰る。どの局も番組と番組の間の繋ぎ番組やニュースばかりなのは時間が時間だからか、と一人納得する。何となくニュース番組にチャンネルを合わせ、ぼんやりと眺めることにした。淡々と地域の催しや事件を読み上げるアナウンサーの声が、室内に響く。
やがて、ゆるゆると
「お風呂空いたよ、たっくん」
自身の持つ雰囲気に似合わぬ可愛らしいニックネームで呼ばれてもさして気にするでもなく、佑は「了解」と
“たっくん”。
十年も前からこのニックネームで呼ばれ続けているので、その渾名は可愛すぎるだの何だのと(佑を“たすくん”などと呼ぶ人物も居ることもあり)、今更気にする必要もなかった。そして同様に、今の撃鉄の格好もシチュエーションも、まるで歯牙にも掛けない。
男物の長袖ワイシャツをミニ丈のワンピースのように着こなし、裾からは形の良い引き締まった白皙の脚がすらりと伸びている。風呂上がりで僅かに桃色を呈するきめ細やかな肌からは、湯気とフローラルの香りがほんのりと立ち上る。長い黒髪をバスタオルで挟むようにし、頭に近い方から毛先に向かってぽんぽんと軽く叩きながら、水分を吸い取って行くその仕草。外見、服装、雰囲気、仕草――全てが調和して醸し出すは、思春期の女子に特有の瑞々しく清純で何処か危うい色香。それを完璧に纏ったこの少女を見て、生唾を飲まずにいられる男が、女が、一体何処に居るというのか。そして、清らなる魔性が自らの左隣に腰を下ろすという状況に、理性を失わずに済む人間が、一体何処に存在するというのか。
しかし、おそらく万人にそう言わしめるだろう扇情的な光景にも、佑は全く以て無反応。見慣れているということもある。しかし、彼にとって撃鉄は恋愛だとか性欲だとかの対象でない、というのが最大の理由であった。
言うなれば、彼にとって彼女は「愛娘」なのである。
「たっくんは、さ。どう思うよ」
突然耳朶を打った声に、はて、と考えていると、「露口君の件」と言葉が追加された。
依頼内容は聞いたものの、返答は保留したのである。彼の体調面を気にしていたこともあるが――何より、明らかにハイリスクなこの依頼を受けるかどうか決定するために猶予が少々欲しかったというのがあったらしい。
佑は「ああ」と相槌を打ちながら、露口が物騒な依頼内容の後に続けた言葉を思い返す。あの気弱で大人しそうな少年が、忌々しげに恨み辛みと呪詛を込め、時に声を荒げながら紡ぎ出した言の葉を。
あいつに、ぼくの家族は壊されました。
長い間、ずっとずっと、苦しめられました。
生かさず殺さずじわじわと、まるで楽しんでいるかのように。
だから、ぼく達は逃げました。必死になって逃げました。
もう一度、どこかで幸せに家族みんなで暮らせたら――と思いながら。
けれども、追い詰められた父は日に日に弱り、ある日死んでしまいました。
母は発狂し、身投げして命を絶ちました。
それでも、ぼくは姉と二人で逃げ続けていました。
ですが、最終的に姉とも引き裂かれました。
今、姉が何処にいるのかなんて解りません。
下らないことで喧嘩したり笑ったり、一緒に食事をしたり。
ぼく達は、誰にも迷惑を掛けずひっそりと、幸せに生きていけたら。
それだけで、よかったのに。
あいつを殺してやりたいです、この上ないくらい無残に、この手でッ!
でも、あいつを殺すことも痛めつけることも。
それだけのことをする力が、ぼくにはない。
そんなことをする勇気もない。
だけど沙田さん、貴方にはそれが出来る。
それに、そうしても、誰にも咎められない。
だから、貴方を頼ってきた。貴方に縋ろうと決めた。
卑怯者です、ぼくは。どうしようもないくらいに。
解っています、解っているんです。
けれど、けれど。どうか――お願いします。
「法に触れる依頼は、引き受けたかねぇ。結局のところ、僕も我が身が可愛いしな。この手はあんまり汚したくねーのよ」
ニュース番組はいつの間にか終わり、B級な内容を取り扱う如何にも深夜向けなバラエティ番組が始まった。芸人やタレント達の楽しげな声が、無遠慮に部屋の空気を小さく震わす。
「けどよ、露口君ご指名の
膝をぎゅうと抱えながら、撃鉄は
撃鉄はディスプレイから視線を外し、目を伏せながら告げる。
「なるべくなら、引き受けてやりたいと思うんだ。掛け替えなく思っていた家族と引き離されること程、辛いものはねぇだろうし、さ」
言って、膝を抱えた手でワイシャツの肘の部分を握りしめ、「だろ? たっくん」と。僅かに唇を噛み締めながら少女は問う。
確かめるような、同じ傷を見せるような、その問い掛け対して、男は。
「そう、やな」
自分の薬指に嵌められた金属を見つめながら、呟くように答えた。
柔らかくも冷たい光が、一つしかない鈍色に突き刺さって、染みた。
***
前述したように、中立子はこの世界に生じた亀裂――歪曲地点を目視することができるが、そもそも歪曲地点というのは、普段我々が生活するこの世界(或いはこの次元、或いはこの空間)に生じた歪みの一部でしかないのである。彼ら中立子という名のダイバーは海面近くを見ているだけに過ぎず、深海の底までは見通せていない。つまり、歪曲地点というのは、現次元に漏れ出た歪曲世界(歪曲空間)のほんの一部であり、その全貌は遙か別次元にある。
情報と原子の海のダイバーたる彼ら。その殆どには、特異的な能力が備わっている。それはエスパーやテレキネシス、サイコキネシスなどの超能力に似ているため混同されがちだが、中立子の“特殊能力”は二つの世界を介し発動するものであるため、超能力とは全く異なる種類の“特殊能力”である。
能力(これ以降は「
まず
また、
尚、これらの
【第六技術開発研究所「中立子とは」(新機関books 三九××年)より抜粋】
***
木部に豪華絢爛かつ上品に彫刻があしらわれた赤い
「では――交渉決裂、ということで宜しいかしら?」
静かに、されど艶めかしい魔女の声が室内に響き渡った。緩慢に傾げられた小首の動きに、大振りな銀細工のイヤリングと、青みがかった銀髪が柔らかに追随する。肩に付くか付かぬかと言った高さで真っ直ぐ切りそろえられた髪は、顔のサイドに行くにつれ少し長くなる前下がり。詰襟のドレス、その鮮やかな水色が、露出した肩の白さを一層際立たせていた。
強制的に色欲を掻き乱す扇情的な魔女の声音に抗いながら、向かいの椅子に腰掛けた壮年の男が吐き捨てる。
「そういうことだ」
唸る猟犬の表情を見せる男とは対照的に、彼の左右それぞれ後方に控えた護衛二人の顔は無機質なまでに涼しい。
護衛の片方、瞳こそこの国の人間らしい黒だが、髪色がやけに明るい。染めた風でもない亜麻色のそれは、恐らく地毛。東洋系らしからぬ色素発現、もしや中立子か――と疑念を抱きつつも、それを表には出さず、魔女は「まあ残念」などと大げさに肩を竦めてみせる。
戯けたような色を滲ませつつも、鋭い光を孕んだ翡翠色の双眼で壮年の男とその護衛達を捉え、更に、彼らの背後で柱状の蜃気楼が如くゆらゆらと眩む空間――歪曲地点を射貫いていた。
歪曲地点の揺らめきを睥睨した侭、熟れた苺の如く匂い立たんばかりの唇をそっとワイングラスに寄せ、魔女は
中立子が
しかし、表の人間であれ裏の人間であれ、真っ当な感覚を持っていれば、歪曲地点付近に自分たちの息が掛かった施設を置くことなど滅多にしない。ましてや、建物内に歪曲地点を含むそれを作ることなど。歪曲地点に近しいこと――それは味方の中立子が有利となるだけではなく、敵対する中立子の侵入・接近を容易にすることに
故に、
だが、男の背後を見る限り、歪曲地点は何の処置も施されていないらしい。全くの無防備。そう思わせた上で何らかの計略を弄しているのか。それとも、無為無策であること自体が策の内か。
「…………」
暇を持て余したついでに少し考えてはみたものの、結局の所、男が何を企んでいようと全く
「あんた達と一緒にはやれない。正直沢山のメリットを提示して貰えるのは有難いし、お互い仲良くやっていけたら最高だろうさ。だがな、幾ら積まれてもあんたに付く気はない。恩を裏切る訳には行かないんでね」
男の言葉を聞き、くすくすと淑やかに艶やかに、然れど鋭さを乗せて魔女は笑う。
「今の時代に恩義と仁義を重んじるなんて、呆れるくらい、この国の人間気質ねえ。或いは“ブシドー精神”かしら。狭い世界に満足して、お互いの縄張りを保つだけの老い衰えた虎達に仕えたって、何の利益も誇りも得られないと思うのだけど?」
「縄張りを広げようと躍起になって結局身を滅ぼすような、
「あら、やってみなくては解らなくてよ?」
「やるにしたってやり方があるだろうよ。そもそも、ここら一帯は穏やかにやってんだ。あんたが鼻で笑う恩義も仁義も、重要なものなんだよ」
俺たちは降りる、と続けて発された声に魔女は心底残念そうに
「貴方の持っている独自流通ルート、一緒に発展させていけたらと思っていたのだけど」
やはりそれが狙いか、と言いたげな男の目線。それを肯定するかのように、魔女は蠱惑的に口の端を上げる。そして、「じゃあ、頂いてしまうわね?」と、赤い舌で己の唇を
「アポリア、《
IDの発語入力、
そして、その直後に降ってきたのは、
『アポリアのログインを承認しました』
滑らかではあるものの何処か機械じみた女の声――
間髪置かず、魔女の右斜め前方に、縦が四十センチ、横が六十センチ程の、翡翠色の薄い長方形――モニタが出現。翡翠色の煌めく粒子を纏うそれには、三本の横棒グラフのようなものと細かい文字が白で描かれている。
「――《
魔女が続けて行ったのは、発語による
彼女がグリップを握り、滞空する拳銃を手に取る直前、
「エイドス、《
と、護衛の一人が
エイドスとIDを告げた護衛は「
魔女は美々しくも毒々しく口の端を上げる。
「させないわ」
甘い緩慢さを以て告げつつも銃口二つを野分と中立子エイドスへと向けた。腕を伸ばす勢いにつられて揺れる豊かな双丘の動きなどものともせず、深いスリットから白く柔らかな
弾丸は護衛の中立子の背を貫き、血の赤を宙に舞わす――筈であった。弾道上にあったのは、先程まで魔女と男が対面していた円卓。中立子でないもう一人の護衛――彼が卓を盾とするようにひっくり返し、魔女の企みは阻まれてしまったのであった。
寸毫置かず、非中立子の護衛が彼女へと迫り来る。右手を懐に遣った彼が、取り出したは短刀。
暴力的な速度を以て、横薙ぎに空切り裂く一閃。それを魔女は上体を軽く屈めて躱しつつも、瞬時に拳銃を構える。右手が合わす照準は、短刀を振り抜いたことにより守りが疎かになった護衛の胸部。左手のそれは、斜め下方へと向けられていた。
先ず吠えたのは、右の一挺。しかしそれは、護衛が彼女の方へと向けていた体をずらし、半身になったことにより躱される。続いて左の銃口を護衛の足の甲へと向け、弾丸を放つ。が、寸での所で回避され、構え直された短刀が、彼女の左胸に刺撃を叩き込まんと迫っていた。
迫り来る白刃。それを体軸移動で以て軽やかに躱し、再び護衛へと発砲。防から攻を鮮やかに繋ぐ。
己が護衛に
「209、327、400、《
歌うように数字を三つ唱え始め、続けて
その刹那、主を逃がそうと必死に未だ座標を叩き込む
白銀は重力に従って落下。一拍遅れて、一斉に開花した曼珠沙華の如し鮮血が飛び散る。
彼女を相手取っていた護衛然り、目前で一連の流れを見ていた筈の野分然り、何が起こったのか認識できた者は居なかった。
そこに歪曲地点さえあれば、全くの無防備で単独乗り込んでも形勢逆転可能。尚かつ、刃物も銃器も弾丸も、幾らでも補填できる。それこそが、魔女の用いる魔法の一つであった。
魔女は、未だ呆気にとられている護衛に銃口二つを向け、故意にタイムラグを設け引き金を絞る。驚愕に瞠られた
間髪置かず野分の右太股を撃ち抜き、魔女は淡い笑みを浮べる。
「大昔の縄張りに居座り続けているから、こうなるの」
そしてその微笑みを、嘲笑へと変貌させる。猛獣を追い詰めた美しい狩人の笑みが、そこにあった。
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