02

 嘔吐しそうになる程の酸い臭いと生臭さが混じる空間で、魔性の権化は嗤い、片膝を付いた男は銃創を押さえ呻く。一傷負わされたとはいえ、野分も裏の人間。この程度で魔の手には堕ちぬ。


 魔女も、そのことは重々承知している。故に、これから彼に追い打ちを掛けねばなるまい。


 と。


 照準を定め直した瞬間。


「――え?」


 思わず魔女は目を瞠り、前方を見た。


 苦悶を滲ませた野分の右手に握られたものを。それが吐き出す硝煙を。それから視線を自分自身へと移し、弾丸によって穿たれた我が左胸を。スカイブルーのドレスを染め上げる赤色が、其処から流れ出るのを。彼女は見た。


 魔女がぐらりと蹌踉よろめいた様子に、苦しげに寄せられた野分の眉間が僅かに緩む。倒れ伏す部下達に、野分は順に視線を遣った。


「ッ……くっそ、俺も、お前達も、何てザマだ。全く」


 言って、寂しげに苦笑した男は、構えた銃を下ろし、瞼を閉じた。だが刹那、


「っぐ、あ!」


 野分の掌に、風穴が空けられる。続いて彼の鼓膜を振動させたのは、淑やかな笑声。


「私としたことが、油断しちゃったわね」


 二挺のくろがねを携えた女が――急所を完全に射貫かれた筈の魔女が、そこに居た。サテン地のヒールを履いた両の足で、しっかりと床を踏みしめて。


「このお洋服、とても気に入ってたのに残念だわ。ほら、背中までべっとりよ」


 胸元が赤黒くなったシルクのドレスを纏ったまま、魔女はくるりと後ろを向く。彼女の言うように、背面も彼女自身のおびただしい血液で汚れていた。


 そして再び野分へと向き直り、艶然と笑んでみせる。


 有り得ぬ光景を目の当たりにし、野分の体がぶるりと震え、脂汗が顔を伝う。防弾されていたなら兎も角、どう見ても弾は貫通していた。

 だが、何故生きている。何故死なない。この不可解な存在を、不可知な存在を、“魔女”と形容せずに何と呼ぶ。


 困惑する野分など歯牙にも掛けず、魔女は嗜虐宿す両の目で五メートル程前方の男を見下ろし、彼の腕を、脇腹を、時間を掛けて順に穿った。悲鳴とも苦悶とも取れぬ声を発し、激痛に身を丸め、体震わす弱った虫のような野分の様子を見て、魔女は。


「っ……はぁ」


 と、場違いなまでにうっとりと、熱い息を吐く。翡翠ジェードの双眼は恍惚と細められ、恋に焦がれる乙女のように潤んでいた。熱に浮かされた面持ちの侭、彼女は命令コマンドを紡ぐ。


「《送信アップロード》、手槍ガン1、手槍ガン2」


 命令コマンドを唱え終える頃には、彼女の両掌の中にあった拳銃二挺は既に緑光りょっこうの粒子となり、から姿を消した。――歪曲世界へとのである。


 主を失ったナイフを拾い、野分へとゆるり歩み寄りながら魔女は言う。


「ねえ、野分さん。私、貴方からプレゼントが欲しいの」


 そしてつくばう彼の前で停止し、血に塗れた無骨な手を取って。微塵の躊躇も戸惑いもなく、


綺麗にしてあげるから、お願い――ね?」

 刃先を親指の爪と肉の間に滑り込ませ、一気に爪を剥ぎ取った。


   ***


 惨状呈す部屋の中、仄かに、色香まとう女が一人。巨大な窓に撓垂しなだれかかるように身を預け、やや気怠げに夜の摩天楼を俯瞰する。彼女が耳に当てている携帯端末からは、受信ダウンロードの名残、微光放つ翡翠色の粒子が僅かに立ち上っていた。


「私。今、お話を終わらせたわ。ふふっ、彼ったら、少しお洒落にしてあげただけで私に全部くれたのよ。気前が良いって素敵ね。ああ、そうそう、お願いできるかしら? ……そうね、出来るだけ快快的いそいで。まぁ、彼の首は、見せしめに取って置いてもいいかもしれないわね。それじゃあ、後は頼んだわよ」


 通話を終了させ、魔女は深く溜息を吐いた。其処には未だ恍惚の名残があり、目には淫虐の色が浮かぶ。

 これで彼女の玩具が増えた。さて、どのようにして遊ぼうか。


「でも……」


 今お気に入りの玩具にはどれも到底及ばぬだろうし、これから至極の愛玩人形ビスクドールを手に入れる。

 待ち焦がれたメインディッシュを食べる前に、あれこれつまらぬものを食べて満腹になってしまっては、美味さも楽しみも半減してしまう。

 魔女は「今は、我慢しなくちゃね」と己に言い聞かせるように呟いて、部屋の景色が揺らめいて見える場所――歪曲地点へと移動し、天啓メッセージに告げる。


「《転移テレポート》、実行ラン。目標座標アドレスは――」


 やがて彼女の足下と頭上に青く発光する円環アニュラスが現れ、その二つが引き合うように重なった瞬間、魔女の姿は幻の如く忽然と消える。


 円環アニュラスが消失する瞬間、爆ぜた小さな電光。その青い瞬きが、目を剥きだらりと舌を垂れる野分の生首を照らした。

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