02nd. Transparent boundary lines

intro

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 いっそ、何も知らなければ。いっそ、白紙じみた存在でいられたのならば。

 きっと自分達は幸福だったのかもしれない。

 少なくとも、己の内に巣くう同位の齟齬に蝕まれることはなかった。


   ***


「うっふふー」


 思わず笑声が漏れるほど、くろろは上機嫌だった。綻んだ花が蜜を零すような微笑が、自然と小さなかんばせに満ちる。

 甘やかな笑顔に惹かれた男達数人が彼女を振り返るが、胸に抱く“それ”と嬉しさの所為せいで、いつものように小悪魔的に笑みを深めてやる気持ちにもならなかった。

 “初めてを経験する者“をあやすように、水色の少女(の様に見える二十八歳)は、腕の中の物をそっと抱き締める。心の底から、愛おしげに。


「本当に、良い匂いね……」


 小さな呟きは、“組み敷いた相手”の首筋に顔を寄せたときの如く、酷く恍惚としている。“食べてしまうのが、実に楽しみ”とでも言いたげな程に。


 だが、それも仕様のないことである。何せ、彼女が抱きかかえる“それ”――紙袋に入っているものは、全国の名だたる店のパン達なのだから。

 何せ、一ヶ月前にさる百貨店の催事場で全国パン祭りが行われると聞いてから、毎日夜しか寝られぬほどに楽しみにしていたのだ。高級ホテルや大手ベーカリーのパンなら直接出向くなり株主優待品等で手に入れられるものの、遠方の名店や個人店だとそうはいかない。

 通販があれば取り寄せ可能であるが、それを行っていない店も多い。故に、正規のルートで購入するのであれば、直接現地に赴いて行列に並んで手に入れる必要がある。りとて、パンのためだけに遠方に出かけることなど中々できぬし、評判の店に限って居住不可地域アネクメネ付近の――かろうじて居住可能地域エクメネと呼べる辺鄙へんぴな場所に店を構える物好きな店主も多い。


 このようなとき、己がであれば転移テレポートで買いに行けるのに……と、くろろは内心歯噛みしてしまう。

 しかし、パンであったりその他の品であったり、期間こそ限られてしまうものの、大手百貨店がこぞって開催するフェアで手に入れることができるのは、首都在住の強みだろう。生まれ落ちた環境と、それから朗らかに微笑んでくれたレジ担当の美女店員(混雑してさえいなければ声を掛けたかった)に感謝しつつ、彼女は視線を紙袋から上げた。そして再び、機嫌良くパンプスのかかとを鳴らし歩みを進める。


 世界には、彼我を分かつ“線”が遍在している。

 例えば。彼女が悠々と歩くこの都市まちと、その他の市町村は、地図上で明確に区切られている。だが、日常生活にいて両者の境を意識することはない。河川という比較的“線”として捉えやすいものが境となっている場合ですら、普段その事実はぼんやり頭をよぎる程度。確かに存在するにも関わらず、常時はほとんど認識されぬその境。或る種、“不可視”と化していると言ってもいいだろう。


 そして、世界に遍在する線はこのように、往々にして常に透明さを装っているのだ。居住不可地域アネクメネ居住可能地域エクメネ、過去と現在、現在と未来、それから、日常と非日常――などなど。それらを区切るものは、普段は明瞭な存在でない。

 だが、記憶の想起、事実の再認識、物事との対面など。些細な“何か”を切っ掛けに、そのは顕在化する。

 

 とはいえ、各々が認識せぬ限り、やはり“ない”のと同様である。ほとんどの人間が、逐一意識などしない。

 態々わざわざそのようなことをしていては、日々の生活に疲弊してしまうからだ。


 つつがなく過ごすため、人々は今日も境界を見つめぬようにしている。

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