track01.泡沫

01

 初夏のからりとした蒼穹の半ば、橙色が滲んでいる。その薄暮の色彩は、程なく天を塗り替えるだろう。


「えいっ!」


 十二歳程の少年が、快活な声を発す。同時、桃色のボールが宙を舞った。 


 受け手たる女児はその半分に満たぬ年齢か。彼女はボールをキャッチしようと、懸命に白く柔らかな腕を上へと伸ばす。


「あ」


 だが、無情にもそれは彼女の指先より上で最高点に達し、やがて落下した。


 女児の次にボールを受け取るはずだった少女(年の頃は、少年と同年代のようである)が、「ちょっとアンタ投げるの下手すぎ!」と少年を野次る。


 「ごめん!」


 両手を合わせ、少年は幼子にびた。

 女児はふにゃり笑って「ううん、いーよ」と答えつつ、てんてん跳ねて転がるボールを捕まえて抱きかかえた。

 ふとおとがいを上げて空を見上げれば、夕暮れの気配が漂っている。


 ――あとちょっとで、お家に帰る時間だ。


 にわかに、名残惜しさと寂しさが胸に込み上げる。

 もう少しだけ、今日友人となった二人との時間を過ごしていたい。


 放課後、学友達とこの広場で遊ぶことが、彼女のルーティンとなって久しい。だが本日、いつものメンバーは習い事があったり風邪に罹患したりで、皆不参加。

 故に、本日は真っ直ぐ帰宅しようと思っていた。

 だが、習慣というのは恐ろしいもので、憂鬱に思考を支配された彼女が気付かぬ内に、足は勝手にこの場所まで辿り着いてしまっていた。

 来てしまったからには仕方ない。さてどう過ごそうかと悄気しょげながらブランコを漕いでいたところ、「一緒に遊ぼうよ」と声を掛けてくれたのがこの少年少女だったのである。

 少年少女とは初対面だが、彼らは二人とも社交的で人懐っこく、おかげでとても賑やかな時間を過ごせた。様々な遊びも大変楽しかったし、ボール遊びの前に彼らがくれたジュースと駄菓子も大変美味しかった。


 まだ帰りたくなどない。


 彼女の願いを打ち砕くかのように、何処か古めかしく柔らかな曲が周囲に満ちる。

 十七時を告げる防災行政無線の音である。


「そろそろ行かなきゃ」


 少年が空を茫洋と仰ぎ見、擦り切れた野球帽の位置を正す。


「そうだね、帰らないと」


 少女は告げ、すそほつれたTシャツに付いた土埃を払う。


「おにいちゃんたち、もう帰っちゃうの?」


 ほろと零した呟きに寂しさを滲ませて、幼子は俯いた。

 途端――涙の皮膜でぼやけていた視界が、ふわふわとし始めた。一拍遅れて、思考も同様に揺蕩たゆたっているかの如し感覚に包まれる。

 少年は「うん。だって、五時のチャイムが鳴ったもん」と目を伏せ、少女は「五時は帰らなきゃいけない時間だから。じゃあね、ばいばい」と申し訳なさそうに肩を竦める。

 そんな少年少女の声が打ったのは、幼く小さくやわい耳朶。彼らの発声は至って普通であるというのに、まるで一枚壁を隔てているような曖昧な音の輪郭を描いて彼女に届く。


「……やだ」


 もやが掛かりそうな頭に耐えつつ彼女が答えると、彼らは微笑んだ。何故か酷くよこしまな笑みに感じたが、何せ視界は曖昧だ。気の所為せいに違いないと、彼女は心の中でかぶりを振った。


 彼女に向かって、少年が「じゃあ、一緒に行こう!」と晴れやかに右手を差し出し、少女が「そうすれば、もう少し遊べるよ」と柔らかに左手を差し出した。


「おいで」

「おいで」


 こっちにおいで。


 雲に寝そべるような夢心地の中、二つの呼び声が聞こえる。

 変声期も未だ迎えぬいざないが、女児を手招く。


 こちらの水は甘いとでも言うように。

 こちらでは、美しい花が咲き乱れ、素敵な服も存分にあるとでも言うように。


 彼女は半ば無意識に、それでいて入眠前の如し多幸感に包まれながら。彼らの手を取り、とろり笑って頷いた。


「――うん」


 まるで笛の音に誘われるが如く、覚束ない足取りで導かれるままに歩く。

 そうして、二つの小さな影と、それよりも小さい一つの影は広場から消えた。


 神話、童話、言い伝え――この世で語られる様々な話に登場する“手招く声”は、どれも酷く甘美なものである。

 その方へと向かってしまえば、もう戻れやしないというのに。



***




 窓辺から差し込む朝日が、台所で立ち尽くす少年を照らしている。

 夏の気配を纏う優しく温かな日差しは、朝方の冷えた室内の空気を和らげども、少年の凍てついた心を溶かすには至らない。


「――どうしよう」


 呆然と唇から言の葉をこぼし、少年こと露口つゆぐちとりでは頭を抱えた。


 ちら、と己の前方にある半透明のキッチンワゴンを伺い、二歩歩み寄って一段目の抽斗ひきだしを開ける。

 実は、中身を確かめるのはこれで二度目。だが、先刻は目当てのものを見落としていた可能性があるかもしれない。そんなかすかな希望を胸に抱き、ふりかけの袋や調味料の容器を除けて隅々まで見るが、やはりない・・。二段目、三段目と同様に確認するが、目的のもの――腹の足しになりうるものは皆無。

 どう足掻こうと、食料ストック切れであった。

 

 きゅるり鳴いた腹にそっと手を添えて、砦は呟いた。


「お腹、空いたなあ」


 昨日夕食を摂っていないこともあり、より強い空腹感が彼を襲う。腹には何も入っていないというのに、懸命に蠕動ぜんどうしては鳴る胃が余計に虚しい。


 夕食を抜いてしまったのは、帰宅するや否や、疲労感のままにベッドに倒れ込み寝てしまったのが原因だ。


 何故、少年は疲労困憊し気絶するように眠りに就いたのか。

 それは――昨日の夕方。幼い姉弟達の面倒を見、疲れ果てて帰宅した二時間後のことだった。撃鉄に「来いよすけ。依頼が入ったぜ」などと連れ出された挙げ句、大小様々な犬達の散歩に付き合わされたためである。


 勢いに流されるまま二匹分のリードを左右の手に持ち、計四匹の散歩に繰り出したはいいが、犬達に道中振り回されるばかりだった。別々の方向に進みたがったり、急に駆け出そうとする元気盛りの四匹は、幾度となく彼を転倒させかけた。否、実際に数度転んだ。


 一方の撃鉄。少年と同じく計四匹の犬を散歩させていたにもかかわらず、絶妙なタイミングでリードを弛張させ、犬達を時に誘導、時に牽制することにより制御。比較的スムーズな散歩を実現させていた。

 散歩の途次みちすがら、彼女は「ぼかァ犬派なんだよな」と語っていたが、犬好き故なせるわざなのかもしれない。


 依頼である散歩の終了後、涼しい顔で犬達を飼い主に引き渡した撃鉄とは対照的に、砦は肩で息をしつつへろへろと依頼主宅の門扉にゴールする有様。

 撃鉄は一見華奢だが、必要とあらば荒事に対処できるほど身体能力が高い。片手間ではあるが、伊達に換金屋――賞金稼ぎをやっていない。一方、砦は運動する習慣もなければ、そもそも膂力パワー持久力スタミナも平均以下。そんな少年が過酷な運動もとい散歩を長時間行ったともなれば、空腹すら忘れて泥のように眠るのも道理。


「うう……」


 もう一度空腹を主張した胃を、情けない声を出しながらさする。

 食料の残量を大まかにでも把握していれば、このような失態を犯すこともなかっただろう。だが、彼は今まで一人で生活したことが――否、それどころか、世間一般で言うところの“普通の生活”をした記憶がない。

 何せ砦は、幼少より家族と逃亡生活を送り各地を転々としていた。両親を失った後は、残された姉と寄り添い生きてきたのである。

 その間、落ち着いた日常ではなかったとぼんやり覚えているものの、日々の中に少なからず食料の調達や何かしらの家事等は存在したはず。だが、砦が“家族の中で最も幼く弱い者”であったがために、それらは他の家族が行っていた。もとい、免除されていたため任せきりであった。


 父が死に、後を追うように狂い果てた母が死に、それから、姉とはぐれた後。少年は、魔女に生殺与奪の権を握られ生きてきた。籠の鳥さながらの生活であったため、家事や買い物等、日常生活上必要なことを学ぶ機会は得られなかったのである。

 故に、極端に生活能力が低い。それが、露口砦という十七歳の実態であった。


 だが、何の因果であろうか。そんな世間知らずが、四日前から一人で生きていくこととなったのである。撃鉄の事務所と佑の医院が入ったビル、その最上階に設けられた居住空間で。

 撃鉄曰く、「あんまり良い場所じゃないかも」。確かに、魔女に飼われていた時分よりも部屋が大幅に狭くなり、寝具の柔らかさも、風呂場の高級感も劣る。しかし、穏やかに過ごすことのできる場所というだけで、どれだけ心が救われることか。何にも怯えず、緊張感をいだかずに済む安心感は万金に値する。

 彼がまず“普通の生活”に慣れるために、購入したのは最低限の生活用品とインスタント食品のたぐい


 その為、買い溜めしたインスタント食品――特に即席麺が、ここ数日の彼の主食である。撃鉄との買い物で雑談中、即席麺は数十世紀前に開発された食品であると聞いたときは驚いたが、現在湯を沸かすことしかできない少年にとっては神の食べ物に等しい。思わず、古に生きた開発者達に感謝した。


 そして。実は、このジャンキーな味わいの食品、砦にとっては馴染み深いものであった。姉と共に魔女から逃れる日々の間、何度か食したからである。

 たった二人の逃亡生活中の主食は、次の瞬間に追っ手が来ようと何が起ころうと即座に逃走できるよう、菓子パンや栄養ブロック食など、その場で手軽に食せるものを食べられるだけ食べた。次に食べ物にありつけるのはいつなのかなど解らない。故に、多少無理をしてでも腹に詰めた。


 只、時折ではあるが、心と時間に僅かながら余裕がある際は温かな食事を摂る。それは弁当であったり、湯沸かし可能な環境であれば即席麺であったりした。

 麺を咀嚼する程に広がる強い塩気と共に、暗澹たる日々の記憶が脳裏を過らないと言えば嘘になる。だが、何もかもが変わってしまった日々の中で、“知っている味”というのは一種のよすがのように感ぜられたし、陰鬱な記憶だけでなく温かな思い出も呼び覚ましてくれる。


 その一方で、これから“生きていかねばならない”のだから、料理も覚えねば思っていた。故に買い出し中、調理が必要な青果や肉も買いたいと撃鉄に伝えたのだが、素気すげなく却下。


「今まで手前の世話も碌にしたことのない人間が、いきなり一丁前に掃除して、洗濯して、ゴミの分別して、それから包丁握って料理もできんのか? 疲れて結局何もできないのがオチだろ」


 やれやれとでも言いたげな彼女から弩級の正論を叩き付けられ、ぐうの音も出なかった。

 現に、高々四日の“生活”を熟してきただけで疲労感が溜まっている。もし、自分の希望通り青果や肉を買っていたとしても、日々の新しさと慌ただしさに振り回され、腐らせてしまっただろう。今になって彼女の発言を振り返れば、これは酷く的を射た言葉だったのだと解る。


 この四日間、どうしようもなく精一杯だったのだ。食料が今どれほど自分の手元にあるのか把握できない程に。


「……」


 僅かな希望と共に、もう一度チェストの中に視線を遣る。

 だが結果は変わらない。彼の腹を満たせそうなものは、もう底を尽きてしまった。


「――買いに行かなきゃ、何もないよね。って、買う?」


 ぽつり零してから、自分が何を言ったか理解して数秒フリーズ。少年は「買い物なんて無理だよ!」と、ぶんぶんとかぶりを振る。


「……どうしよう」


 何せ、まともな買い物を経験したのは先日が初めてのこと。

 様々な商品に溢れた店内の様子や、手早く会計を済ませる撃鉄を興味津々に見つめてある程度の手順を観察してはいたが、一人で焦らず買い物ができるかとかれれば、それは否である。


 しかし、もう即席麺の買い置きはない。第二の神の食べ物たる、マイクロ波オーブンで加熱調理すれば食すことのできる米料理やパウチ食品も底を突いてしまった。

 主食になりそうな――というか、腹が膨れそうなものは食べきってしまったのだ。


 こうなればもう、ふりかけで食い繋ぐしかない――と緊張に震える手で、「カルシウムたっぷり しゃけ味」、「タンパク質もりもり たまご味」と書かれたそれらを手に取った瞬間だった。


「よお」


 そんな言葉と共に、己の背後に位置する玄関のドアが何の遠慮もなく盛大に開けられる。


「えうッ!?」


 思わず謎の悲鳴と共に飛び上がる砦。ふりかけの袋が引力の侭に落下し、乾いた音を立てた。


 すわ押し入り強盗か――と少年は身構えたが、闖入者ちんにゅうしゃの声が聞き慣れたそれだったので安堵の息を吐く。

 上がりきってしまった心拍を落ち着かせるようにして胸元に右手を当て、「び、びっくりした」などと呟きつつ、緩慢と体ごと背後を振り返る。


 予想通り、そこに在るは沙田撃鉄。

 透き通る深紅の瞳。光きらめく烏羽色の黒髪。内側から輝くような白磁の肌に、花のかんばせ。頭頂から爪先に至るまで、非の打ち所のない端正な少女だ。

 しかし。故に、魔女が我が物にせんと欲し、少年が姉を取り戻すための生贄にせんとした。それ程の美々しさ有す少女である。


「ッち。おいおい何だよ」


 見た目だけは。


 彼女は眉間に不良顔負けの皺を刻み、豊かな睫毛まつげに縁取られた目をすがめる。


「ったく、人の声聞くなり悲鳴上げやがって」


 そうじゃない、と心の中で小さく抗議する。来訪が突然すぎて驚いただけだ。そして、合鍵を持っているからといえども、いきなり玄関を開けるのは如何なものか。

 そんな言い訳と不満が砦の胸中渦巻くが、己の考えを瞬時に口にできぬたちゆえに発せなかったし、そもそも告げたところで事態を拗れさせてしまうことが明らかだったので、言葉は飲み込んでおくとする。

 代わりに、少年は朝の挨拶を行うこととした。


「あ、おはよう。沙田さ……」


 名字(偽名)にさん付けで名前を呼ぼうとしたところで、わざとらしい咳払い。

 じとーっと、こちらをめ付ける二つの深緋こきあけ。黙っていれば人形さながらな少女の不満げな表情に若干気圧けおされつつ「ええと、撃鉄さん」と言い直すが、「おい」という極短の非難が飛んできた。


「その……げ、撃鉄」


 撃鉄は何処か満足げな笑みを浮かべながら、「それでよし」などと宣いつつ頷いていた。


 呼び捨てにする際、未だに恥ずかしさからくるむず痒さや、一度彼女を欺こうとした罪悪感による後ろめたさは消え去らない。

 だが同時に、そんな浅ましい自分を受け入れてくれた彼女の善意に、いつか何らかの形で報いたいと臆病な少年は思っている。

 雑念を振り払うかのように彼はかぶりを振ってから、少女を見る。


 砦がそんなことを考えているなどと知る由もない撃鉄は、注がれる視線を不思議に思い首を傾げた。


「ん? どうした。僕の顔に何か付いてんのか?」


 ここで漸く、少年は無意識に少女をじいと見つめていたことに気付くのだった。「ごめん」と謝罪しつつ再度頭を振って、砦は言葉を紡ぐ。


「ええと、いきなり入られるのは驚くから、ノックしてほしいかな……。じゃなくて、撃鉄こそどうしたの?」


 疑問の応酬となってしまった。

 何となく気まずさを覚える少年とは対照的に、少女はさして気にするでもなく答えた。


交渉ネゴシエーションのためさ」


 芝居がかった仕草で肩をすくめつつ、砦を見遣る撃鉄。話が見えないとでも言いたげに、彼はぽかんとしている。

 構わず、少女は言葉を続けた。


「依頼が入った。日時は明日の九時。依頼者は御得意様中の御得意様――断るなんざ考えられねえ。っつうわけで、当然返事は『はい』か『イエス』の二択しかないんだが、ぼかァ既に別の依頼を受けることになっててな。んで、だ」


 ここまでの流れで、少年は既にろくな話ではない気配を感じ取っていた。

 そして悲しいかな、予感というものは怏々おうおうにして的中する。


「アンタに僕の代理を頼みたい」


「やっぱり……そうだと思った……」


 笑顔で「さっすが。察しが良くて助かるぜ、お茶汲み員殿!」などと頷く撃鉄とは対極、砦は盛大な溜息を隠すことなくうなれる。


 赤橙せきとうに染め上げられた廃屋にて、彼女が差し出すスカーフを握手代わりに握ってから早数日。魔女の契約から解放されたことで居場所を失った自分に新たな居場所を与えてくれたことや、安心して眠りにつける住処すみかを提供してくれたことについて、撃鉄には感謝しきれないほど感謝している。彼女のお蔭で、吐き気と視界の明滅に耐える夜――己の皮膚の上を這う繊手に怯える夜から解放された。


 しかし。しかし、である。


 自分はお茶汲み要員としての採用ではなかったのか。自分がここにやってきた次の日、「アンタには紅茶とか緑茶とか、兎に角お茶を煎れてもらう。なら、湯の沸かし方くらい覚えて貰わねえとな?」と給湯室でコンロの使い方を教えたのは一体誰だったのか。ていのいいアシスタントや代打だとは聞いていない――と、砦は頭を抱えそうになった。


 とはいえども、拒否権などないことも解っている。


「……それで、どんな依頼なの?」


 少年が吐き出した溜息交じりの問いに、少女は「やることは二つだ」と、ピースサインの形にした右手をずいと差し出す。


「今日は敵陣偵察。下見だな」


「て、敵陣……?」 


「まーあまあ。心配するなよ少年」


 言って、気楽にひらひら掌を振る撃鉄。だがその態度は、少年の緊張を和らげることはできなかった。

 敵陣偵察などという物々しい言葉を聞いて、安心などできるものか。砦は警戒心を一段上に引き上げる。


「これは観光みたいなモンだと思ってくれりゃいい。アンタ、きっとしばらくはここで暮らすだろ? 自分の拠点がどんな場所かは知っておくべきだぜ。あいつ――依頼人にも、下見がてらアンタに街を案内してもらうように頼んであるしな。問題は明日の『本番』だ」


「ほ、本番?」


 まるで、失敗など許されないような響きを伴った、仰々しい言葉。砦は思わず固唾を飲んだ。

 そんな少年の様子を見、撃鉄は両眼の赤を細め、可憐な面に意地の悪い微笑を浮かべる。それは何処か肉食獣じみて、凶暴な。


おうよ。アンタに課せられるのは、絶対に成さなきゃならねえ一大任務。それは――」


「そ、それは?」


 たっぷりと間を溜めて、撃鉄はにんまり言い放つ。


「――そう、『お使い』だ」


「……えと、その、ごめん。お使い?」


「お使い」


「お使い!?」


 驚愕というより最早悲鳴じみた疑問に、「ぐうぐるる」と腹の音が重なる。

 思わず赤面し、「あ」とか細い声を漏らして砦は腹部を押さえる。撃鉄襲来及び怒濤の依頼押しつけの所為せいで忘れかけていたが、結局、まだ何も胃に入れることができていない。


 よく解らない沈黙が、両者の間に横たわる。


 撃鉄は一瞬少年を揶揄からかってやりたい衝動に駆られたが、その直前にキッチンワゴンを一瞥し状況を何となく察したのでやめた。何とも形容しがたい哀れみが、胸の内に満ちる。


「どうした。飯、まだなのか?」


「その……う、うん。実は昨日の晩から何も食べてなくて。それに、食べ物もなくて……」


 苦い笑みを浮かべて、視線を合わせずに少年は頬を掻く。


「仕方ねえな」


 がしがし頭を掻いて、目を軽く伏せて撃鉄は腕を組む。刹那の間に小さく唸り、部屋の出口へと向かった。

 ドアノブに手を掛けつつ、態とらしく溜息ひとつ。それから、くるりと背後の砦を振り返る。その動きに一拍遅れ、烏の濡れ羽色の髪が扇のように軌道をえがき、滑らかに収束する。それが青み掛かった光を放つさまに思わず見惚れている少年など歯牙にも掛けず、彼女は桜色の唇を開いた。


「朝飯、行くか。それから買い出し。ほら、早く来いよ。置いてくぞ?」


「っえ!? あ、うん。ま、待って」


 突然の提案に、慌てて鞄を引っ掴んだりなんだりと、ばたばたと忙しなく室内を動き回る砦。

 その様子を横目で見ながら、撃鉄は小さく零した。


「――主食は一食につき一つまで、って言っただろ」


「う。ご、ごめん……」


 少年は肩から提げたメッセンジャーバッグの紐をきゅうと握り、悪事が明るみに出た幼子のように決まりが悪い顔をしていた。撃鉄の予想通り、一定でない食事の摂り方をしていたらしい。

 

「ま、今後慣れていきゃいいだろ。アンタが飢え死にする前に訪問できてラッキーだったぜ」


 と撃鉄は肩を竦めた。


 食料はたっぷり買った。五日は保つ算段だった。

 恐らく彼は、逃亡生活中の食に関わる習慣が染みついて抜けていないのだろう。きっと、食べられるときに食べられるだけ腹に入れていたに違いない。

 仮令たとえ、魔女の元である程度規則正しい食事をしていたとしても、逃亡生活こそが彼の人生の大半とも言える。習慣というものは、容易に塗り替えられるものではない。


 少年が俯いた動作に合わせて、バッグが体に当たってぱたと鳴る。恐らく中身は財布や小物だけなのだろう。荷物の量に見合っておらず、薄っぺらい印象を受ける。先日買い物をした際に、メッセンジャーバッグと一緒に小さめのボディバッグも買った筈なのだが。


「なあ砦。バッグ、そっちでいいのか? デカいんじゃねーの?」


「え? ……あ。そっか。持ち物の量に合わせて選べばいいんだね」


 納得、といった様子で目を瞬く少年。


「その、今まで、まともな鞄なんて持ったことなかったから……解らないや」


 照れくさそうに告げてから、直ぐさまラックに吊り下げたボディバッグの元へと向かい、いそいそと中身を詰め替える。入っていたのは矢張り、財布や鍵、ハンカチといった小物だけだった。


 彼は、適切な食事の量を把握しかねている。

 彼は、荷の多寡に合わせて鞄を選ぶ習慣がまだない。

 彼は、ほんの数日前まで中立子のことすら知らなかった。


 “普通の生活”、或いは“一般的な生活”と呼ばれるものを送ってきた経験が極端に少ない。それ故に。


「……」


「げ、撃鉄?」


 知らぬ間に物思いに耽っていたようで、心配そうな視線が遠慮がちに向けられていた。


「その……大丈夫?」


「ん? あ、わりい。ぼんやりしてた。用意出来たんなら行くぞ」


「うん」


「だったら早く出た出た」


 砦を廊下へと誘導しつつ、再度思う。


 彼は。

 生活のことも、自身を取り巻く環境のことも、未だ知らない。

 ならば、これから知っていけばいい。己の世界として認知・定義する範囲を拡張すればいい。唯それだけのこと。

 少年を害そうとする存在は此処になく、また、彼はこの先も生きていくのだから。


 祈りのような、エゴのような、そんな考えを密かにいだきながら、少女は扉を閉めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る