02

 取り敢えず腹拵えをするために、撃鉄の案内でまず喫茶店へと向かうこととなった。


「この角を曲がればもう直ぐだぜ」


 砦はこくりと頷いて、撃鉄に半歩遅れて続く。

 大通りから一本入っただけだというのに、朝の喧騒が大きく和らいだ。少し歩いたところで、撃鉄が立ち止まる。


「ここだ」


 視線の先を追えば、控え目で小さな看板がぶら下げられた店があった。閑静な空気によく似合う、落ち着いた店構えである。


「こういう感じのカフェ、今はかなり珍しいんだってさ。たっくんから聞いたんだけど、純喫茶って言うらしいぜ」


「純喫茶……」


 初めて聞く単語を噛み砕くように呟いていると「応、純喫茶」と撃鉄も繰り返す。


「しかもマスターが名古屋出身でさ、本格的なモーニングが食えるんだ」


 名古屋、と聞いて砦は逡巡。どの辺りの地名だったか。


「えっと、中部にある街だっけ? モーニング……朝ごはんが有名なの?」


「ああ。名古屋のモーニングといやぁ、安くて美味くて大満足らしいぜ。んで、ここのモーニングは、和歌山に居ながら本場の味が食べられるって評判なんだ。まあ、僕ァ名古屋行ったことないんだけどな」


 苦笑しつつ、飴色の木製ドアを開ける撃鉄。

 まず第一に、コーヒーの豊かな香りが少年少女たちの鼻腔を擽り、次に、


「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」


 カウンター内に佇む五十路半ばほどの男性店主が、柔らかな声音で二人を迎える。その佇まいは、レトロな風合いの店内によく似合っていた。

 先客は、カウンターに壮年の男性一名、テーブル席に老夫婦が一組。十代の客は珍しいようで、三名の視線が入店した二人へと向けられる。だが、それも一瞬のことでそれぞれ再び朝食を取り始めた。壁には小さく「水・日はモーニング営業のみとなります」と書かれた張り紙がある。


 撃鉄は慣れた足取りで進んで行くが、砦は店内を見渡している内に三歩足を踏み入れたところで気を取られてしまう。齢十七の人生の中で、純喫茶どころか喫茶店を訪れるなど初体験なのだ。


 店内に置かれた椅子やテーブルは、魔女の根城にあったそれのように豪奢ではないが、古いながらも大切に磨かれており気品がある。

 また、老夫婦の穏やかな会話、からんと鳴るドアベル、壁面上方に投射されたホログラフ式ディスプレイから流れるテレビ番組――と様々な音に満ちているのに、とても静かな印象を受ける。

 まるで、この場所だけ時の流れが緩やかであるかのような。そんな感覚が少年を包んだ。


 撃鉄は己の後ろを追ってくる気配がないことに気付き、やれやれと肩を竦める。

 少女は「ほら、こっちこっち」と少年を手招いてから椅子を引く。そしてその席が彼の場所であることを視線で示し、向かいの席へと腰掛けた。


「あ。う、うん」


 はっと我に返り、砦は早足で撃鉄のもとへと向かい着座する。


「ん、メニュー。朝はモーニング一択っつーか、モーニングだけなんだ」


 差し出されたメニュー表を見れば、『モーニング:お飲み物(コーヒー、紅茶、林檎ジュース、オレンジジュース)』とあり、更に『※通常メニューは十一時以降から』と付記されていた。食べ物は何も書かれていない。


 砦は内心、飲み物だけか……と項垂れながらも、それだけでも嬉しいと感じてしまう。

 逃亡生活の最中であれば、もっと強い飢えに悩まされることもあったが、魔女に保護されてから昨日までは“まともな空腹”しか感じていない。現在感じているのも、逃亡中に比べれば何ということもない空腹である。だというのに、今、強い飢餓感がある。飲み物ですら、糧と歓喜するほどに。


 規則正しいサイクルで腹が満たされる状態(加減は上手く行かないが)に慣れてしまった現在、あの頃に戻るのは難しいだろう。こうして安寧を手に入れた今、戻りたくもないが。

 しかし、たった数日間とは雖も、何者にも脅かされない日々を過ごす中で思い知ったこともある。自分が“普通の生活”に触れる程に、嘗ての自分達がどれ程恵まれない存在だったかを痛感する。そしてその度に、惨めさが喉の奥に満ちるのだ。


 そう、“落ち着いた気持ちで喫茶店に来た”という今の状況でさえ、過去が染み出せば苦汁と化す程に。

 メニューへと落とされた砦の視線、その焦点が微かにずれ始める。


 だが――苦々しい意識は、柔らかくも硬質な物音によって現実へと引き戻された。

 ふと音源の正体を視線で探れば、テーブルに水の入ったグラスが置かれていた。


 ことり、と。音がもう一度響く。次は、撃鉄の目の前にグラスが置かれる。

 そして、グラスを置いた人物――この喫茶店の男性店主が、二人へと穏やかに語りかけた。


「お決まりですか?」


「え!? えーと、その、あの……まだ決まってなくて……。ごめんなさい」


 反射的に米搗こめつき飛蝗ばったよろしく頭を下げる砦。

 それを見、撃鉄はやれやれと肩を竦め、店主は「こちらこそ、焦らせてしまい申し訳ございません」と詫びた。そして店主は、更に言葉を続ける。


「もしコーヒーがお嫌いでなければ、カフェオレをホットでどうぞ。カフェオレ用にブレンドした豆を使用しておりまして渋みが少なく、ミルクのまろやかさの引き立つ柔らかな味わいです。普段コーヒーを飲まない方にもお勧めですよ」


「コーヒー……」


 幼い日の記憶が少年の脳裏を掠めた。無意識にそれを辿る。

 逃亡生活の最中の、僅かな休息時間の出来事。小さかった砦は母が飲んでいたそれに興味を持ち強請ねだって飲ませてもらった。だが、味蕾みらいに伝う慣れない苦みに顔をきゅっとしかめる自分。それを見て、「砦にはまだ早かったみたいね」と苦笑する母。微笑ましく見守る眼差しをこちらに向けていた父。呆れたように、けれども可笑しそうに小さく吹き出した姉。

 じくり、と。懐かしさと苦しさが綯い交ぜになった痛みが胸を走る。その痛みをもう少しだけ感じていたい気持ちにもなった。であれば、在りし日を思い出すものが丁度いいのかもしれない。


「じゃあ、その……カフェオレのホット、でお願いします」


 若干口ごもってしまったが、店主は無事聞き取ってくれたようで和やかに頷く。撃鉄が迷いなく「紅茶、ホット。ストレートで」と注文すれば、店主は「カフェオレのホットと紅茶のホット、ストレートですね。畏まりました。少々お待ちください」と告げてカウンターの方へと戻っていった。


 それを見送ってから撃鉄は右手で頬杖を突き、溜息と共に口火を切る。


「……なーんか浮かない顔してんな」


「そ、そう……かな……」


 少年の歯切れの悪い返答に、そして己が何を話そうとしていることが何であるのかという気付きに、撃鉄は口を開き掛けて思い留まる。だが、零コンマ数秒の沈黙の後、その空白を悟らせぬよう成る可く自然に声を紡いだ。


ぼかァ、アンタにこれまでの色んなことを『ずっと忘れるな』とか『もう忘れろ』とか、そんなことは言わねえよ。でも、苦しいときはちゃんとした言葉になんなくても吐き出しとけ。じゃないと、消化不良起こして必要以上に時間掛かっちまうからな」


 過去に折り合いを付けるまでの彼女自身を振り返っての言葉だったが、砦はそれに感づくこともなく「うん」と何処か申し訳なさそうに頷く。撃鉄は、他者に嘗ての自分を重ねて救済を行っているような心地がして、微かな自己嫌悪に苛まれつつも続けた。


「法とモラルに反さなきゃ、吐き出すのはどこでもいいし誰相手でもいい。僕で良けりゃいつでも聞くし、さ」


「ありがとう、撃鉄」


 そう言ったきり、お互い口を噤む。

 撃鉄は眠気を欠伸と共に噛み殺しながらカウンターの向こうで珈琲を煎れるマスターへと視線を向けた。

 砦としてはこれ以上会話を続けるにも糸口がなく、何となく手持ち無沙汰に感じ、視線を壁面上方に投射されたホログラフ式ディスプレイへと向ける。今流れている番組はアニメーションと実写が合わさったもののようで、演出などから察するに子供向けの学習番組らしかった。


『ねえねえ』


『なあに?』


『今日はどんな不思議に出会えるかな?』


 十歳程の子供が二人、歩きながら楽しげに会話している。すると彼らの進行方向の先、軽やかでありながらも激しく踊る猫がいるではないか。

 申し分ない動作の緩急、完璧なアイソレーション。決してぶれぬ体幹に、見事なまでの重心移動。そして、頭から尻尾の先、全身を使った見惚れるような感情表現……。素晴らしい猫の踊りを見、子供らは歓声を上げた。


『うわあ! とってもダンスが上手な猫さんだ!』


『ね! すごく格好良よくて可愛いね!』


 猫はハッとして声の方向を見る。二人を見た侭『んにゃあ!』と赤面しつつ、尻尾と髭をぴんと伸ばした。

 先程までの動静の抑揚で表情を生んでいた手足の動きはどこへやら、もじもじとその場でちょいと手先や足先を動かすばかり。観客ギャラリーがいるこの状態は、先程のように一匹で気の向く侭自由に踊っていたときとは訳が違うらしい。


『あれれ? さっきまでキレッキレだったのに……どうしたのかな』


『これって……僕たちが猫さんの踊りを見たから、猫さんは恥ずかしくなっちゃったの?』


 男児が小首を傾げながら猫を見ると、『にゃーん……』という鳴き声と共に三角の耳が垂れる。先刻の言葉を肯定しているようだ。

 すると、ぽんっという効果音と共に、眼鏡を掛けた初老の男が現れる。男は『そう、まさにその通り!』と大袈裟に頷くが、頭にぴたり撫で付けられた白髪はくはつが崩れることはない。


『諸君らに“目撃された”からこそ、猫君は普段通り踊れなかったのだ! そして、科学の世界でも似たような現象が起こるのである!』


『あっ、ミルカラニ博士!』


『ミルカラニ博士、こんにちは。科学の世界にも、恥ずかしがり屋さんがいるの?』


 博士はまたも、大きく首肯。その動作に合わせ、白衣の裾がゆうらり揺れる。


『うむ。観察するという行為が観察対象に影響を及ぼすことがあるのだ。さあ諸君、今日はその不思議に迫ってみようではないか!』


 子供達が『うん!』『はーい!』と各々首肯すれば、てててーてってー、と愉快なオープニングテーマが流れ始めた。


 と同時に、砦と撃鉄のテーブルに「お待たせしました。モーニングです」と朝食が置かれる。


「ありがとうございま……へ?」


 思わず砦は瞠目。己のプレートにはカフェオレ、撃鉄の方には紅茶が乗っているのは解る。注文通りだ。

 だが更に――ゆで卵、サラダ、ヨーグルト、餡子とバター。そして、こんがり焼かれた分厚いトーストが乗せられている。

 不安になり、対面に座す撃鉄をおずおずと見つつ「えと、ぼくたち頼んだの飲み物だけだよね?」などと問うてしまう。


 撃鉄はにやりと笑い、男性店主の方へと視線を向ける。すると、彼も少し悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。


「こちらが当店のモーニングです、お客様。餡子とバターは、お好みでトーストにお塗りください」


「ドリンク代だけでこれだけ付いてくるのって、破格なんだぜ」


「そうなんだ……」


 喫茶店の利用は初めてであるが故に比較対象もなく、また、相場が解らないので実感は薄い。だが、主たる注文である飲み物よりも、明らかに付いてくるものの方が多すぎる。果たして商売として成り立っているのだろうか。

 そんな砦の心配を余所に、「いただきます」と両手を合わせトーストに餡子とバターを塗ってかじり付く撃鉄。「あー、美味い。これだよこれ」などと宣い、うんうん頷き咀嚼している。

 

「え、えっと……いただきます」


 おずおずと、見様見真似でトーストに餡子とバターを乗せ、恐る恐る食べてみる。すると、餡子の優しくも確かな甘さとバターの塩気とまろやかさが合わさり、口の中に広がった。不思議だがその複雑さがとても、


「美味しい……」


「だろ?」


 自分が作ったわけでもないというのに、にまり得意げに笑ってトーストを再度齧る撃鉄。

 砦はその笑みにこくりと頷きつつ嚥下し、朝陽の差し込む店内を改めて見渡した。物音が絶えないのに静かで、時の流れが遅くなっていると錯覚しそうになる。目を瞬かせる速度が自然と落ちるような、そんな朝の光が満ちる場所。穏やかな空気に包まれて、自然と食が進む。

 

 食べ終わり、少なくなったカフェオレをこくり一口。殆ど冷めてしまったが、美味しさは変わらない。ミルクのまろやかさが珈琲の苦みを抑え、豊かな香りが鼻を抜けて行く。


 おもてを上げて、彼は“或る記憶”に思いを馳せた。自分と姉は全くの他人であるという魔女の告知、それを受け、ここ数日で朧気ながら蘇った記憶だ。


 詳しい状況も前後の経緯いきさつもとんと思い出せない。しかしあの日――潔癖的なまでの白が目を刺すかの如し“あの研究所”で、幼い彼は可愛がっていたモルモットを抱いた侭、父と母に連れられて何処かの部屋へと赴いた。その部屋の主は厳めしい金属の首輪を嵌めたあどけない少女で、その少女こそが姉・奏だった。

 そして、見知らぬ部屋で見知らぬ少女との対面に緊張し、只々胸の中の温もりに縋るようにしていた自分。姉が声を掛けてくれて、少しずつ強張っていた身体と心が和らいだ。


 それが、奏とのファーストコンタクト。何故、そんな大切な記憶を忘却していたのだろう。幼さ故か、将又はたまた無意識か。思考を巡らせてみれども回答は導き出せない。


 兎も角。

 記憶の断片を鑑みるに、あの研究所も空間の明度こそ高かったが、この喫茶の店内のような柔らかな明るさなどまるで有していなかった。全てが余所余所しく、静謐な金属のように冷たく硬い。あらゆるものを拒絶するかの如し白く冷ややかな場所。

 魔女の話と己の記憶を総合すれば、姉は両親の手引きによって逃げ出した。そして、露口一家は束の間の幸せを手に入れる。逃亡しながらも家族で過ごしていた時間を思い起こしてみれば、その間だけは、今この場所で過ごしているような穏やかで柔らかな空気があった。

 但し、結果的に両親は死に、姉本人も囚われて自ら命を断った。生き残ったのは砦、唯ひとり。であれば、自分たち家族の“幸い”は、傍から見ればまやかし、或いは刹那の夢のようなものかもしれない。


「……砦?」


 ふと、名を呼ばれおとがいを上げる。テーブルを挟んで声の主――向かい側の撃鉄を見た。

 彼女はカフェオレを飲んだきり固まっていた少年の様子を不審に思ったらしく、不思議そうな、それでいて砦を案じていることが窺える面持ちをしていた。


「さっきもだけどさ、大丈夫か?」


「うん。えっと、その……考え事してて」


 繕ったところで撃鉄は欺けない。そのことは、先日お茶汲み要員として採用されるに至った流れなどから重々承知している。故に、砦は先程のように誤魔化さず、今回は正直に告げることにした。


「今、凄く穏やかな気持ちだなって思ったら、家族のことを思い出して。……本当は、さっきも家族のこと考えてた」


「うん」

 

「ぼくの家族はみんな居なくなって、もう二度と会えない。その結果は他の人から見れば不幸なんだろうけど、でも、幸せな時間もあった」

 

 仮令たとえそれが寸毫の間にしか過ぎぬ幸福だとしても、確かにそこにあったのだ。それだけは、紛うことなき事実。


「だから、その時間は嘘じゃなかったんだって……ごめん、上手く言えなくて」


 撃鉄はゆっくりとかぶりを振った。いつもの美々しさはそのままに、彼女は穏やかな微笑を浮かべる。言いたいことは解ったよ、と言外に語りかける微笑みだった。


「アンタがそう思ったことも、過ごした時間の温かさも、本物だろ。それは誰も否定できねえよ」


「……うん」


 考えが伝わったことに、返してくれた言葉に、安堵が体に満ちる。それは、先程飲んだ初めてカフェオレの温度に似ていた。


「ありがとう、撃鉄」

 

 礼を述べて、窓の外に目を向けると。

 柔らかな朝日が、目覚めたばかりの街に降り注いでいた。

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ディストーション 高坂 悠壱 @tetracode

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