track01.スーパーノヴァ

01

 雨上がり、澄んだ赤橙が照らす夕刻に。


「や、だっ……助けて、誰かッ!」


 寂れた仄暗い路地裏に、少女の悲痛な声が一つ。暮れの雑踏するメインストリートから少し入り込んだ場所であるにも関わらず、救いの言葉と共に駆けつける者も、その震えた声を拾う者も、誰一人としていなかった。唯々ただただ、換気扇の回る乾いた音と、少女の眼前に佇む男の荒い息とが、ビル壁に反響して「奇跡も魔法も、一縷いちるの望みもない」と言わんばかりに彼女の鼓膜を振るわすばかり。

 獲物を前にした空腹の獣のように、熱に浮かされた狂人のように、じり、と出刃包丁片手に少女へと詰め寄る男。怯えで眼を潤ませ覚束おぼつかない足取りで後退する動作も、涙声の拒絶も、最早少女の一挙一動は状況を好転させるものであるどころか、更に男を興奮させるものでしかない。


「っあ」


 とっ、と少女の背に何かが当たった。少女にとっては認めたくはない現実であろう、袋小路。愛らしい顔が一気に青ざめる。恐怖で脚に力が入らないのか、彼女は壁に背を預けた侭、ずるずるとその場に座り込んでしまった。


 少女の様子を舐め回すように見つつ、男は右の口角を上げる。その顔は、もうぐ己の欲望は満たされる、という歓喜で溢れていた。


 退路を断たれてしまった今、後は〝これまでの例〟の通り、少女はその心身を蹂躙され、残虐の限りを尽くして殺されるのだ。抵抗するすべもなく、唯々無力な侭。

 男はゆったりと本日の獲物たる少女の方へと近寄ってしゃがみ込み、彼女の胸ぐらを暴漢に似つかわしくない紳士的な仕草で掴んだ。そしてセーラー服の襟元に包丁の切っ先を掛け、切り裂き破ろうとした一刹那。


「たす、けて」


 と、予想外に放たれた、絞り上げるような無垢の声に、その手が一瞬止まる。更に嗜虐心しぎゃくしんあおられ、気分が高まったところで作業を再開しようとしたその時、再び男の手が止まった。


 否、波立つ空気の違和感に、想定外の事態に、手を止めざるを得なかった。

 先程まで憔悴した顔をしていたのがまるで嘘だと言わんばかりに、少女が不敵に笑っていたのだ。

 形成逆転の奇跡など望めぬ死の淵にひんし、何故笑みを浮かべていられるというのか。狂ったにしろ何にしろ、理解することあたわぬ不気味さに、男の顔を脂汗が伝う。


 状況に頭が追いつかず硬直していた男の鳩尾みぞおちに、凄まじい衝撃が加わった。少女が容赦なく蹴りを叩き込んだのである。男が地べたに叩き付けられた隙を突いて彼女は逃げるでもなく、不躾ぶしつけな少年のように「はッ」と鼻で笑い、プリーツスカートに付いた土埃を払いながら立ち上がった。仰向けになってせ込み呻く男を見下ろし、彼女は口火を切る。


「僕がさァ、『たすけて』とか本気で言ってるとでも、思った?」


 にやり、と。未だ幼さは残るとはいえど、血も凍るその美貌に肉食獣の笑みを浮かべ、


「なあ、追い込む側から追い込まれる側になった気分はどうだ? なんなら僕が、このままアンタが殺してきた奴らと同じ目に遭わせてやっても良いんだぜ? でも、僕ぁ生憎性的な意味で人を襲う趣味は持ち合わせてないんでね。っつーことで、まあ――」


 滔々と捲し立てるように言って、少女は両手を眼前に掲げ、


「――しばらく寝てろや」


 次の瞬間にうっすらと開かれた男の瞳が捉えたのは、鈍器を振りかぶった少女の姿。腰に届かんばかりの濡れ羽色の黒髪が斜陽を受け、滑らかに流れきらめくその光景は、鳩尾に走る激痛など麻痺してしまう程神々しく、自らが置かれた状況など忘れてしまう程美しく。


 己の視界が暗転しつつあることさえ知覚できぬ侭、男は意識を手放した。



   ***



 所変わって、ある古ビルの一室で。


「じき来ると思うんやけど、すまんな」


 独特のなまりと共に差し出されたティーカップを見遣りつつ、少年は「はぁ」と相槌を打った。豊かなアールグレイの香りが、鼻先をくすぐる。応接間に流れる沈黙が気まずく感じられたが、少年に紅茶を勧めた人物――向かいのソファに腰掛けた黒眼帯の男に話し掛けるのも気が憚られ、何だか手持ちぶさたになって座り直すと、ソファがかすかにきしんだ。


「――なあ、自分」


「はいぃッ!」


 不意に話し掛けられ飛び上がらんばかりの返事をした少年に、「そんな緊張せんでええよ」と黒眼帯の男は肩の力を抜くよう促した。

 だがその表情は決して少年がリラックスしやすくなるような微笑ではなく、限りなく無表情に近いものであり、精悍せいかんかつ端正ゆえに鋭さを帯びている。また、その声にはほぼ抑揚がなかった。加えて、覇気には欠けるものの何処か険しさを孕んだ鈍色の左眼にじいと見られ、少年は蛇に睨まれた蛙さながらに硬直してしまう。その様子に気付いているのかいないのか、男は言葉を続けた。


「よぉここまで来れたな。迷わんかったんか?」


 まだ竦んでいる感は拭えないが、栗色の瞳でおずおずと黒眼帯の男を見つつ、少年は言の葉を紡ぎ始める。


「あ……はい、迷いましたがどうにか。ここを教えてくれた人に、一応行き方も訊いていましたので大丈夫でした」


「来れても、看板も何も出てないし解らんかったやろ? 連絡してもろとったら、近くまで迎えに行くなり何なりしたのに」


「えと、連絡先解らなくて。すみません。初め、ぼくが場所を間違えてしまったか、何処かに移転してしまったのかと思いました。『沙田さた事務所』なんて何処にも書いてありませんでしたし」


 大分だいぶ緊張も解れたのか、少年の喋りがなめらかになってきた。少年の言う通り、この古ビルには彼が目的地としていた沙田事務所の看板はなく、水鏡みずかがみ医院のそれしか出ていない。ビルの規模も極めて小さなものであり看板もないとあれば、少年のように考えるのが自然である。


「でも、勇気を出してお訪ねして良かったです」


「ま、パッと見やったら両方入ってるて解らへんしなぁ」


 黒眼帯の男、もとい、水鏡医院が院長・水鏡たすく曰く、この水鏡医院と沙田事務所の二つがこのビル内で共存しているらしい。


 そして現在、沙田事務所の責任者兼たった一人の事務員の帰還を待っているところなのだが、一向に帰ってくる気配はない。十八時には必ず戻るとのことだったが、時刻は十九時半を迎えようとしている。佑は腕時計に眼を遣りつつ嘆息し、


「来ぉへんな……連絡もないし、ずっと待ってもらうのも申し訳ないから、また後日来てもろてもかまんか?」


「あ、はい、大丈夫です」


「あいつには伝えとくから、名前、連絡先、用件だけ教えてくれ」


 少年が「ぼくの名前は――」と言い掛けた、その時だった。

 二人の間にあるテーブルの一メートル程上で、小さな青白い電光が爆ぜる。続いて同位置で、同色の電光を放ちながら、地面と平行になった小さな円環アニュラスが生じた。かと思えば、瞬時にそれが広がり、また内側から新たな円環アニュラスが生まれ、幾重にも重なったものが出来上がった。そして円環アニュラスが二つに分離し、上下に広がるのと一拍遅れて――まず胴体が見え、そして滑らかに頭部と足先までが現れる。丁度、人体の中心から上下末端へと広がるように。


 「遅いわ」と呟く佑とは対照的に、少年は言葉発することあたわず、眼前に現れた少女に視線を奪われてしまっていた。


 少女は白を基調とした一般的なセーラー服を身に纏っているが、その美麗さは筆舌尽くしがたいものがある。

 長い黒髪は絹のように滑らかに揺れて、わずかに伏せられたまなこは、何処か憂いを感じさせる儚さを持っていた。艶やかな睫毛から覗くそれは、紅玉こうぎょくめ込んでいるかと見紛う深紅。雪花石膏の肌は青色光せいしょくこうを受けて非現実味を帯び、頬と唇にさした桃色が瑞々しさを感じさせる。


 二つに分離した円環アニュラスの内、片方は彼女の足下で静止していたが、もう片方は頭の少し上で滞空していた。それは丁度、光輪を頭上に戴いているようで。まるでその姿は。


 ――天、使?


 と、少年が思うと同時、円環アニュラスが消失し、とっ、と卓上に少女が舞い降りる。ふわり、と紺のプリーツスカートと、真っ直ぐな黒髪が揺れた。

 少女は愛らしいその口を開き、


「ただいま、たっくん。遅れてごめん」


 そしてゆっくりと面を上げ、夢幻から未だ醒めやらぬ少年を見、言葉を続ける。


「……で。誰だテメェ」


 可憐な外見からは想像もできないギャップ――柄の悪い言葉使いと不良顔負けの不機嫌そうな表情に、一気に現実に引き戻された少年が地味にショックを受けたのは言うまでもなかった。


 お互いあまり印象が宜しくないファーストコンタクト。

 この日この時この瞬間に、終わりへと向かう報われないお伽話とぎばなしが動き出したことなど誰一人として知る由がない。ただ一人、だけを除いて。

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