track06.屈折
01
ゆっくりと瞼を開く。泣き疲れて寝てしまったためか、目の縁がひりりと痛み、少し腫れぼったさを感じた。
全身を支える柔らかさが、いつものベッドと違うことに気付く。
どうやらソファの上で寝てしまったようである。むくりと上半身を起こし、泣き腫らした寝ぼけ眼を擦りながら、在るべき人の名を呼んだ。
謝らなければ。
あの時昂ぶっていた怒りやら何やらを、夢の世界へと全て押しやった今なら解る。自分が下らぬことで
しかし、もう一度謝るべき人の名を呼べども返答はなく、
他の部屋にいるのだろうか。それとも、外出しているのだろうか。
取り敢えず家の中だけでも探してみようと思い、ソファから跳ねるように飛び降りる。それと同時に、ブランケット代わりに掛けられていたワイシャツがはらりと落ちた。ただそれだけの、何気ない一連の流れであるというのに、妙な胸騒ぎに気道が締め付けられた。
不安の正体が何なのか解らぬ侭、ラグの上に落ちたワイシャツを拾い上げソファへと乗せる。そこからくるりとテーブルの方へと体を向けた刹那、あるものが彼女の目を引いた。
机上に置かれたるは紙の切れ端。何故だか鳩尾の辺りに言いしれぬ不快感を覚えながらもそれを手に取る。そこには、豪快ながらも所々神経質なさまが窺える筆跡で「暫くは帰れないから、良い子にしているように」と綴られていた。
何の変哲もない、たった一言の置き手紙。
その人がこうして書き置きを残して家を留守にすることは、さして珍しいことではなかった。机上の紙にはいつも、いつまでには戻るだとか、鍋にスープがあるから温めて食べるようにだとか、それから最後には必ず温かな優しい言葉がたくさん添えられていた。
だというのに、今回はそれが全くない。これ程簡素なメッセージが残されたのも初めてであった。
例外。
頭がその事実を理解し受け止めていく程に、夜を越えて引いたはずの涙が再びじわりと滲み出してくる。脚がとうとう体を支えきれなくなり、へたりとその場に
“暫くは帰れない”などというのは方便で、我が儘を言った
――どうして? どうして? なんで。
脳内を駆け巡るのは、そんな言葉ばかり。
もしかして、などという推量ではなかった。それは最早、予感的根拠を伴う「明らかな確信」と言う方が正しいかもしれない。
その人は――彼女の父親は、もう“ここ”には帰ってこないのだと、
両の手で軽く握った紙片の上に、温かな水滴がほとほと落ちては染み込んでいった。
***
「――っと、危ねえ!」
目を見開いて、撃鉄は
危うくバスタブで溺死するところであった。湯の温もりが
「に、しても。久々に思いばびばぷぺえぽぽびばば……」
ずり落ちるように湯船へと沈み込んだ所為か、鼻から下が湯に浸かって「思い出したくねえもの見たな」という言葉が珍妙な響きになってバスルーム内に残響する。
彼女が見た夢。それは、欧州で過ごした幼き日々、その終わりの出来事だった。
成長するにつれ夢には見なくなったものの、久々に幼き日の記憶を突き付けられると苦く、つんとするものが込み上げた。我知らず、瞳にも涙の被膜が張りかける。
誰に見られているわけでもないのに
「十年前、か」
顔の横に垂れた濡れ髪を払いながら、彼女は小さく独りごちた。
あの日を境に、唯一の肉親は姿を消してしまった。
唯一彼女のもとに残されたのは、ブランケット代わりのワイシャツ、そして、
どうして自分を置いていったのか。何故、事情を説明せずに姿を消したのか。
しかし、最近はめっきりこれらの疑問に思いを馳せることはない。再会を諦めた訳ではないが、どれほど考えても現状は変わらない。つまり、詮無きことだと割り切ることにしたのだ。
そして、本日も同じく“仕方がない”と首を振る撃鉄。もしかすると、悲しみを感じる心の部分も、鈍磨してしまったのかもしれない。未練がましく問おうが縋ろうが、奇跡は起こらず願いも叶わないのだから。
深呼吸の如し溜息で、肺の中の空気を外に吐き出す。二酸化炭素と一緒に、悲壮や諦観、余分な思考を押し出し、平常心を取り戻すかのように。
それから、繊細な造りの花の
白磁の玉肌に負担が掛かってしまいそうな両掌の力加減で
右腕をバスタブの
「……」
思い出すのは、くるるが告げた、かの言葉。
露口少年は、自分に何らかの嘘を吐いている。
しかし、結局のところ“嘘”の核心に辿り着くことはできなかった。 短時間の情報量では役に立たないかもしれない、というくるるの言葉通り、有益なものは何もなかったのである。
「『これで大丈夫、多分きっと上手く行く』、か……」
くるるによって告げられた少年の心の声。それを、呟いて反芻する。
言葉だけを捉えれば、彼は「魔女への復讐」という依頼の成就を願っているだけのようにも、はたまた何かを目論んでいるようにも解釈できる。
「……うーん」
依頼の遂行は
些細な嘘であれば問題はない。しかし、それが撃鉄にとって何らかの障害または脅威となりうるのであれば、取り除かねばならない。
そして、魔女はクラスB。撃鉄の持つⅡ種ライセンスでは、対応しうる最上のクラス。
であれば、リスクヘッジを行った上で立ち回るのが筋であろう。だが、現状ではターゲットに対する情報があまりにも不足していた。露口少年の姉に関する情報収集を行うと同時に、魔女に関するそれも集めていくつもりだ。
「はぁ……」
九十度に曲げた両腕を顔の前で合わせ、それを横に開いたり閉じたりしながら少女は溜息を吐く。
因みにこの動作、撃鉄がかれこれ三ヶ月ほど継続しているバストアップ体操の一つである。気にしていないように振る舞ってはいるが、同年代の少女と比べても明らかに小さいと思うし、下手をすれば年下の少女にも負けているのは少々悔しい。すらりと華奢な己の体躯も嫌いではないが、街行く女性達を見たときや服を試着したときに、もう少し女性的な柔らかさが欲しいとも思う。
故に、こうして涙ぐましい努力を風呂場でこっそりと続けているが、反面、未だ慎ましやかな双丘を見るに効果の程は芳しくない。しかし、継続こそ力であると信じ、魔女に思いを馳せつつも今日も少女は精進するのであった。
「しっかし、どうすっかな」
曰く、魔女は死なない。
曰く、魔女の容姿は二十年前から変わらない。
何故、魔女は「死」や「老化」という万人を襲うさだめから逃れられているのか。美容に尋常でないほど気を遣っているのかもしれないし、くろろが予想したように整形を繰り返しているのかもしれない。はたまた、本当に歳を取らないのかもしれない。
人間が老いるメカニズムについては、「予め細胞分裂の上限回数が定められている」であるとか、「細胞分裂の際に生じる突然変異の蓄積によって
だが、もしも。
例えば、ヘイフリック限界をも超えて「正常な細胞を任意に、かつ無制限に生み出す」ことが――つまり、有り体に言えば“都合の良い再生能力”のようなものが存在するのであれば。
身体損傷を即時回復することで“死”を回避し、全身の細胞ターンオーバーのコントロールを行い、遺伝情報の劣化や突然変異すら阻止することができるのならば、永遠の美貌を保つことを可能とするかもしれない。
魔女がそのような異能を――もしくは
しかし、後者の可能性は低いだろうと撃鉄は思う。
何故なら、現在確認されている
一つ目の
この我々が生きる
二つ目の
物体の座標移動という点では、通常の中立子が使用する
《
となれば、残るは魔女自身が作成した
だが、
「
撃鉄が(水中で両腕を前に突き出したり脇の近くまで引いたり、バストアップ体操その二をしながら)呟いたのも無理もない。
高度な技術を持つ者でも、「
仮に魔女が
細胞や組織を修復し、失われた血液を補いつつ、遺伝子情報の劣化・変異を阻み、細胞のターンオーバーすら掌握する……この“都合の良い再生能力”は、言葉で述べる以上に精緻かつ複雑難解な現象がいくつも絡み合ったものである。それを
そんなものを可能とするのは、“神の御業”か“悪魔の所業”、或いは――歪曲地点を介さない《本物の異能》くらいだ。
思考を巡らせば巡らすほど、頭の中は纏まらない。魔女は「《本物の異能》を持っている」か、「使用している体内作用型
撃鉄は小さく唸りながらずりずり浴槽に沈み、鼻の頭までを湯に浸してぶくぶくと息を吐く。
これ以上考え続けてしまうと、変に推測が固まってしまいかねない。柔軟な視点を失うのは御免だ。
ぐぬぬと水面下で唸っていると、顔の横で柔らかな通知音が鳴った。音の方向を見遣ると、壁面に嵌め込まれたパネルの一部が明滅している。
それは、居宅の玄関に何者かが接近したことを知らせるものだったが、AIがけたたましいアラート音を鳴らさなかったのを鑑みるに、よく見かける来訪者――つまり、
いつまでも真横でちかちかされるのも鬱陶しいので、撃鉄は明滅箇所に触れる。するとパネルのライトが消え、水面から少し上の位置に、監視カメラの映像がホログラムモニタとなり投射された。
そこに映し出されたのは、案の定佑であった。走り込みに行っていたらしく、ランニングウェアを身に纏っている。
彼は首に巻いていたタオルで額の汗を拭いながら、インターホンの真下に設置された黒く艶めくパネルに手を当てた。程なくしてパネルが淡く発光して錠が外れたことを示すと、佑は玄関の扉に手を掛けた。
「ランニングとか……たっくんもよくやるぜ、全く」
苦笑しつつ宣いながらも、早く汗を洗い流したいであろう同居人のために湯船から出ることとする。
生粋のインドア派のような見た目をしている佑だが、夕飯の片付けや明日の準備等の諸々を済ませた後、こうしてよく走りに行ったりトレーニングをしている。曰く、「自主的に
先日「つってもさー、たっくんまだ三十五じゃんか」と返したときなど、「ええか、三十路はもう
但し、「体も鈍って、動くための勘も忘れてしもて、『いざ』いうときに動けんのも辛いしな」という彼の言葉には、素直に「成る程」と納得の声を上げた記憶がある。
嘗て、“自分の身を守る基本”と“戦うための基礎”を彼から教わり始めた際に、手合わせを数日しなかっただけで“動き”や折角掴んだ“感覚”を忘れてしまうことがあったからである。
――懐かしいなあ、そんなこともあったか。
心に暖かく染み出す、遠い日の記憶。思わず口元を綻ばせながら、浴室から出た撃鉄はバスマットに乗りつつ後ろ手でドアを閉めた。直ぐ傍に置いていた籠からバスタオルをむんずと掴み取り、体をてきぱき拭いていく。
嘗ては彼女の第一言語であったフランス語も、今では簡単な会話しかできなくなった。
折角佑に教えて貰った“身の守り方”も“戦い方”も、月日が経つにつれ酷く自己流になってしまった。
成長するに伴って失ってしまったものは、他にも大なり小なり存在する。だがそれでも、この十年間が――佑や結城家の面々、神父や街の人々と過ごしたこの国での十年間が、今の撃鉄を形作っている。
微かな感傷と感慨に浸りつつも、髪を拭く手の動きは緩めない。バスタオルを一旦足元に置き、ショーツやらキャミソールシャツを身に付けていく。
それから黒い厚手の五分丈レギンスを穿き、パジャマ代わりのワイシャツを手に取ったところで、ぽつりと言の葉が零れ出でた。
「十年も、経ったんだな」
あの日、幼い自分に掛けられていたこのワイシャツとの付き合いも。肉親が姿を眩ましてから流れた日々も。この国に来てから経過した月日も。
十年。
それだけの時間が、過ぎていたのだ。
***
街の光が、人工の蛍のように瞬いている。
闇になりきれぬ夜を照らす点滅。その無機質なさまをぼんやりと俯瞰しながら、露口は部屋の窓ガラスに手を当てた。
この街の何処かに姉がいて、今回それが見付かるかもしれない。そう思えども、心には希望の温かさと共に陰りの冷たさが満ちた。
撃鉄が依頼を受けてくれて安心したと同時に押し寄せた不安が、未だ舌の根に
気を抜くと
「……」
あの少女には、本当のことを伝えてはいる。だが、それは決して“嘘を吐いていない”という意味ではない。彼女との契約を成立させたいと心底願った反面、断ってくれたならどれだけよかったか。
もう
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます