02

 雨音が聞こえる。今まで訪れたどの地で聞いたものよりも、打ち付ける雨粒が奏でるそれは激しい気がした。


 いつか父が「近くに豪雨地帯があるから、首都付近にも雨雲がたくさんやってくる。だから首都も降水量が多くなっているんだよ」と教えてくれたことを思い出す。

 この逃亡の旅の途中、死んでしまった穏やかな父。

 碌に世界のことを知らない自分に対し、父と共に様々なことを語り聞かせてくれた優しい母。

 もっと色々なことを教わっておけばよかったと、少年は下唇を軽く噛みしめた。


 刹那、宵闇に走った雷光。稲妻がもたらした光は、このガレージ上方の小窓からも入り込み、床にしゃがみ込む彼の足元を一瞬だけ照らす。一拍遅れて轟いた雷鳴に混じって、複数の怒号が聞こえた。


 餓鬼共。

 探せ。

 何処に。


 断片的にしか聞き取れなかったものの、それらの声が発せられた距離は、自分達が潜むこの場所から近くはないがそう遠くもなかった。脅威となる存在から未だ逃れられていない――改めて事実を認識すると、恐怖心と極度の緊張から叫び出してしまいそうで仕様がない。かちかちと歯の根が鳴る口元を、震えて思うように動かない手で覆う。


 どうか何事もなくやり過ごせますように。そんな祈りを神でもない何かに捧げながら、きつく目をつむった。


 だが、祈りとは裏腹に、とうとう震えは全身に伝播し、浅くなった呼吸が酸素を求めて荒さを伴い始める。


 ――駄目だ。怖い。どうしよう。助けて。誰か。


 混乱した思考は涙をもたらし、しかと閉じたはずの瞼の隙間からそれが滲み出す。


 しかし、どれだけ願おうと“救い”たる存在などは現れず、こちらに向けられた悪意の一団も未だ去る気配はない。


 すると、「大丈夫」という言葉と共に、あたたかな手が少年の肩に触れた。彼が恐る恐る顔を上げると、もう一人の潜伏者――微笑んだ姉と目が合った。


「大丈夫だよ」


 安心させるように再度言って、己の隣に座す少女は笑った。穏やかな表情には疲労感が滲んでいるものの、湛えられた優しさが彼の恐怖を幾ばくか拭い去ってくれた。


「雨は私たちの足跡を消してくれる。雨音と雷鳴は私たちの声を掻き消してくれる。それに、シャッターが降りてる民家のガレージに忍び込んでいるとは、まさか相手も思わないだろうしね」


 平時の冷静な頭であれば、「気休めの言葉は要らない」と一蹴しただろう。自分たちがここに忍び込めたのも、路からこのガレージを擁する民家の敷地にほんの少し入った際に、偶然ガレージ横の扉が開いているのを見つけたからだ。虱潰しかつ強引な捜索が開始されれば、見つかってしまう可能性もあるだろう。だが、今は姉の言葉が何よりも頼もしく、嫌に拍動する心臓に安らぎを与えてくれる。


 ああそうだ、と、半ば吐息のような声で姉は唐突に提案を持ちかけてきた。


「暇潰し、あと、怖さから気を逸らしがてら、私が見た夢の話、聞いてよ。追っ手も、少しここから遠ざかったみたいだしさ」


 こんな時に何を……と一瞬思考が固まりかけた。とはいえ、混乱した頭をクールダウンさせて冷静さを取り戻し、気を紛らわせるには確かに雑談も丁度いいのかもしれない。少し迷いながらも、彼は首肯。そのさまを見届けてから、姉は目線を前方にぼんやりと据えた。


「夢の中では、私は外国に住む日系の子どもでね。親を早くに亡くしていて、でも、七つ歳の離れた弟と慎ましく暮らしていたんだ。贅沢ではなかったけれど、幸せな生活だった。でもね、あるときその国で戦争が起こる。鉄の雨が降る中、近所の人たちと一緒に私達はシェルターに避難することになって。走って走って、途中で知っている人や友達、優しくしてくれた大好きな人たちをうしないながらシェルターに向かった。でも、シェルターまであと一歩だってところで、弟が転んじゃって。私は振り向いて彼のところに駆け寄ろうとしたけれど、一緒に逃げていた大人の一人が咄嗟に私を抱えてシェルター手前の物陰に伏せた。それと同時に閃光と大きな音が轟いて……恐る恐る目を開けたらさ、弟だったものがそこかしこに散らばってたんだ。そこから先は、あまりよく覚えていないんだけど、私はどうにか無事に逃げることができたみたい」


 決して気持ちを明るくする内容の夢ではなかったことに少々げんなりとしつつも、少年は黙って耳を傾けることとする。折角、落ち着いて警戒を巡らせる程度に恐怖心が抜けてきたというのに、話を中断してもう一度恐ろしさの波に苛まれ、怯える羽目になるのは避けたい。


「気がついたら私は、亡命先の老夫婦の養子になってた。二人ともとてもいい人たちでね、私を本当の子供か孫みたいに――兎に角、本当の家族みたいに可愛がってくれたんだ。故郷は失ってしまったけれど、二人がくれた愛情はとてもあたたかかった。幸せだって感じてた。でも、『ここに弟も一緒にいたならどれだけよかったか』とか『なんで小さかった弟は死んで、未来を奪われたのに、私はのうのうと生きているんだろう』っていう思いは常にあってね、心の芯みたいな場所はずうっと冷えた侭だった。生きて、自分の人生を賭してやりたいことがなんなのかなんて解らなかった。私だけが夢を見つけてなにかやっていいだなんて、生きていいだなんて思えなかった。だから、解りやすいものに……『勉強』に逃げた。頭を動かしている間は、他のことを考えなくてよかったから」


 まるでそれが夢の世界の話などではなく、己の過去や前世の記憶であるかのように姉は語り続ける。こちらもそれが“真実の話”であるかと錯覚しそうになるほどに。


「逃避して逃避して、それを何度も繰り返して。気がつけば、私は研究者なんかになっててさ……二進法類似規則を有す次元の発見、その数学的基礎理論の提唱及び確立とか、それなりに成果も残してきたけど、結局、老いて死にゆく私に残ったのは虚しさだけだった。弟を目の前でうしなったことで生がもたらしたのものは、ただそれだけ。あの時に私を守ってくれた大人の手を振りきってでも、弟のところに行くべきだったんだ、私は。喪ったあの瞬間に、私も一緒に死んでおくべきだった」


 雨に打たれて重くなった前髪。その先から雫が一定間隔に落ちていくのも厭わず、たった一人の家族は独白を止めない。膝を抱えた腕の上におもむろに片頬を預けて、黒い瞳で少年を見る。そこに湛えられた光芒の淡さは何とも痛ましく、美しい。


「だけど、私は今生きている。そして、貴方――現実の弟も生きている。でもね、私は、大切な家族を喪いたくないよ。だから、貴方には生き抜いてほしい。どんなにみっともなくても、どんなに希望を失っても。生きていれば、それで貴方の勝ちなんだから」


 酷く勝手な願いだと思った。なんと傲慢な押しつけなのだろうと感じた。


 だが、もし逆の立場であったのなら、己も同じことを願うだろう。


 仮令、生き抜いた結果どうなっても、どう在っても、“姉が生きている”――唯その事実があれば、彼自身、己の魂の最も大切な部分は決して手放さぬだろうと確信できてしまったからである。それは、少年自身のいのちを繋ぐための“柱”の確立及び存在証明を果たすことと同義であったからだ。


 彼の無言の同意と共感を感じ取ったらしく、姉の目元と口元が、緩い弧を柔らに描く。


「でも、今度こそ私は弟を守るの」


 弟を守れなかったのはの出来事だったけどね、と付け加えて、優しく、あたたかに彼女は告げたのだ。


ああ、でも、駄目かもしれない。だから――」


 屋根と地面を打ち爆ぜる雨、生物と無生物の区別なく万物を震わす雷霆、それから、いつの間にか――遠ざかり掛けていたと思っていたのに、徐々に聞き取れる単語が増えてきた、怒れる声。


 これらの要素を先程の言葉を加味すれば、この先彼女が続けんとする言葉は容易に想像できた。だというのに、二の句を阻止するために声帯を振動させることもできない。


 咎を自ら負おうとせん姉。それを止められぬ少年の呵責かしゃくを受け止めゆるす眼差しの侭、彼女は相好を崩す。


「私が囮になる。だからその隙に逃げて」


「ッけど、それじゃ姉さんが!」


「私は、大丈夫だよ」


 やっとの思いで反論を唱え掛けたが、諭すような声音に阻まれてしまう。


「私たちが分散すればあいつらもバラバラに追いかけてくるから、撒きやすくなる。だからさ、貴方も私も逃げ延びて生き延びて、そしていつか会おうよ」


「だけど、だけど!」


「きっと、大丈夫だから。それに、これまでもこんなことあったけどさ、無事合流できたでしょ? 今回も大丈夫だよ」


 追われていること、そしてもし捕まればどのような目に遭うのか想像することは、狂い出してしまいそうなほど恐ろしい。そのリスク軽減が可能となるのであれば、散り散りに逃げることも、試すにあたる。現に、これまでは上手く追跡者を振り切ることができた。


 だが、今回こそここで生き別れとなってしまう可能性もある。尚且つ、囮役の姉が大きな危険に晒されてしまう。


 しかし――もしも自分が臆病な小心者でなく、姉のように行動力と勇気がある性格だったのならば、自分も彼女と同じように囮を買って出たに違いない。そう思うと彼女を止めようという意志は途端に勢いを失ってしまい、情けなさにうなだれるしかなかった。


 そんな少年の様子を気の毒に思ったのか、「しょうがないなあ」と彼女は苦笑する。


「だったら、おまじない掛けてあげる。この先どんなに貴方が傷付いても、無事に生きていけるおまじないを」


 そう言って、姉は微笑んだ。これまで見た中で、一等優しく悲しそうに。


 恐らく、彼女は知っていたが故に、このような言い回しをしたのだろう。これが――“彼女が彼に与うもの”がおまじないではなく、祝福でもなく、ある種の呪いのたぐいだということを。


 儚い光が二人を包んだ気がしたがそれが霆だったのか何だったのか、その後どう逃げたのか、最早記憶にない。


 しかし朧気な記憶の中、ガレージを出る前に姉がぽつり呟いていたのだけは覚えている。


「父さんも母さんも、貴方を連れて三人で逃げてしまえば良かったんだ。私を見捨てれば良かったんだ。そうすれば二人とも、死ぬなんてことはなかった。死ななくても良かった。――だって、」


 その科白せりふの続きは霹靂に掻き消されてしまった。少年が姉と最後にした会話を思い出すとき、或いは夢に見るとき、常にこの声の先を聞き取ることはできない。


 だが、仮に姉の科白が彼の耳に届いていたのならば、何か結果が変わったのかもしれなかった。とはいえ、今となってはそれは単なるifでしかない。


 “――だって、あいつらの狙いはきっと、私だから”。


 あの時、姉が続けた言葉が聞こえた場合ケースに関する分岐検証など、過去に戻りでもしない限り、決して行えやしないのだから。



   ***



 シャワーのような音が、優しく耳朶を打つ。その水音に少しずつ目覚めさせられる意識。


 少年は瞼をこすりつつ、微睡まどろみからめきらぬ体を起こす。窓の外を見れば、朝焼けの街に雨が柔らかく降り注いでいた。鮮やかな深赤しんせきの陽が差しているにも関わらず、雲が広がる東の空は澄んだ濃紺をていしている。美しいと思ったが、相反する二つが同時に存在しているので奇妙だとも思った。


「変な空」


 拗ねた子どものように呟いて、ベッドから下り浴室へと向かう。相変わらず、そして新たに身に纏わり付いた不快感を洗い流してしまわねば。それから、雨音に想起させられたらしい姉との最後の記憶に対する不甲斐なさや、未だ姉が見付からないという不安も濯いでしまいたかった。


 彼は手早くシャワーを済ませたが、バスタオルで全身を拭いていく手つきは酷く緩慢だった。或る種の陰鬱さすら感じさせる手つきのまま、下着と衣服を身に纏う。


 寝室の方へと向かう彼の足取りは重い。

 のろのろと向かった先は、ベッド脇に置かれたデスク。キャスター付きの椅子を引いて腰掛けると、彼は卓上に置かれた横長の白いガラス板に触れ、据置型端末の電源を入れる。ホログラムディスプレイが眼前に投射され、ガラス板に光の筋――キーボードの紋様が浮かび上がった。ディスプレイに触れて、メールソフトを起動。それから、抽斗を開けてとある用紙を取り出した。少年はそれを確認しながら、覚束ない手付きでアドレスを登録。眠りに落ちる前の“昨晩のこと”を思い出しつつ、迷いながら本文を打ち込んでいった。


 Subject:露口です。

 To:沙田さん〈f_sata_g@xx.xx〉

 お世話になっています。実は、姉に関する手掛かりが、


 なんと続きを打鍵すれば良いものか。言い知れない気分の悪さ、それから後ろめたさに指が止まってしまう。

 どうすればいいか解らなくなってしまったので、取り敢えず今打ち込んだものを一時保存することとした。


 どうして、こんなことになってしまったのだろうか。

 自分は――自分たち一家は、ただ四人で普通に暮らしていたかっただけだというのに。


 重々しく溜息を吐き、彼は天井を仰ぎ見た。

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