02

 威勢の良い、「らっしゃいませー!」という声が店内に響く。


 店のドアを潜ってやってきたのは、一人の男。仕事帰りらしく、柔和な顔には疲労がやや滲んでいた。若干ネクタイが緩められたワイシャツも、小脇に抱えたスーツジャケットも、少々張りを失っているように感ぜられる。恐らく二十代後半であろう彼は、丁度働き盛りの頃。衣服の草臥くたびれも、勤労の証だろう。

 彼はカウンター席に座るなり、


「えーと。じゃあ、塩バターラーメン一つお願いします」


 と、人懐っこい微笑を浮かべて告げた。注文の声を受けて、大将が「あいよ!」とこれまた威勢の良い声を返す。


 現在、時刻は午前一時前ということもあってか、店内には彼の他に客は一人しか居なかった。彼と同年代と思しきその客も、仕事帰りなのかダークスーツに身を包んだ侭ラーメンを啜っている。注文を待っている間読んでいたのか、週刊誌が丼の脇に置いてあった。


「何だか最近物騒ですよねー」


 ラーメンを待っているのが暇なのか、ワイシャツの男が独りごちるように言った。その言葉に反応したのか、ダークスーツの男が(メンマをむぐむぐと頬張りながら)、ワイシャツの男の方を見る。


「私のお財布事情とか、睡眠時間の減少で損なわれる私の健康だとか。あ、いや、それは兎も角、ひったくりだとか、ヤの付く方々同士の抗争だとか。ほら、もそうみたいですし」


 言って、ワイシャツの男は空色の双眸を、カウンターの隅で浮遊するホログラフ式ディスプレイへと向けた。

 それは丁度ニュース番組を放送しており、画面には「暴力団構成員、3名行方不明か? 現場には大量の血痕」の文字が映し出されていた。

 ダークスーツの男が「ああ」と、会話する意思として提示したような、それでいて何処か思案しているような相槌を打つ。


「そう言えば、最近ちょくちょくあるな、


「ですよね。幾ら一般人には関係ないとは言っても、やはり少々恐ろしいというか。それに、ほら、この頃は魔女とかいうのもいるみたいですし」


「魔女、ね。確かによく噂を聞くな」


「不思議な噂ですよね、本当」


 嬉々として都市伝説を話す子どものように、ワイシャツの男は言う。


「曰く、『異様に実行ランが速い』だとか、『突如現れた新参マフィア』だとか」


「『この街の闇を掌握しようとしている』とか、『殺しても死なない』とか、な。ま、よく解んねえけどさ。ごちそうさん」


 ぎい、と椅子を引いてダークスーツの男が立ち上がる。どうやら食事を終えたらしい。


 同時に、ワイシャツの男の前に、「はいお待ち!」と湯気上らすどんぶりが置かれた。

 透き通ったスープの中にたゆたう艶やかな細麺と肉厚な叉焼、その上にたっぷりとまぶされた刻み葱、メンマの上をとろりと滑る一かけのバターを見るや否や、「美味しそうですねー」と嬉しげに細まった二つのスカイブルーに差し込む光輝。しかし、思い出したかのように「あ」と小さく声を上げ、会計を終えたダークスーツの男に呼びかける。


「あの、すみません」


「ん?」


「もしよければ、片付けないで私に貸して頂けませんか?」


 週刊誌を指さして問い、それから申し訳なさそうな、且つ、大型犬の如く人懐っこい微笑で告げる。


「見出しの女優さんのスキャンダルと、今週の運勢がどうも気になって……」


「ああ、ほらよ」


 と、ダークスーツの男は苦笑まじりに週刊誌を彼に手渡した。



   ***



 くろろから「秘密のお話しましょ。女の子同士の、ね。きゃー!」と連絡が来たのは、あれから三日後のことだった。ああ言われてまで“女の子”を使い続けるのだから、懲りていないのか、と撃鉄は内心嘆息。

 しかしあの程度で止めるようなくろろではない、と妙に納得しつつ、出されたフレーバーティーを一口飲んだ。苺や林檎のこっくりとした甘さが口いっぱいに広がった後、ローズヒップの酸味が後味をすっきりとさせてくれる。後で何処のメーカーのものか訊こう、と思いながら、カップを置いた。


「で、どんな秘密のお話なんだ?」


 くろろと己の間に置かれた皿、そこに盛られたスコーンを一つ取り、撃鉄は問う。傍から見れば“女の子同士のアフタヌーンティー”に見えるかもしれないが、あくまでもこれは“情報の遣り取り”なのである。仮令たとえ、「撃ちゃん、コペンハーゲンのクッキーあるけど食べる?」「マジで!? 食べる!」などという会話が繰り広げられていたとしても。


「どんな秘密のお話ですかって? それは勿論、魔女についての、は・な・し」


 青い花が描かれた陶器を模した白い缶を開けながら、くろろは器用に片眼を瞑ってみせた。


 現在二人が居るのは、結城邸はくろろの部屋。天蓋に覆われ現在は見えないが、縁にレースがあしらわれた寝具が部屋の脇にある。また、二人が座っている床にはふわりとしたパステルピンクのラグ。アンティーク調の白いテーブルにはレースが掛けられ、そこに乗せられたティーセット(可愛らしい苺が描かれている)との組み合わせもあってか、世の乙女達の憧れをその侭具現化したような空間であった。但し、その部屋のあるじは御年二十八であり、仕事場も兼ねた空間であるという、夢も糞もない場所であったが。


「魔女、ねえ」


 と。先日の会話では伏せていた言葉を、撃鉄も口の端から零す。


 プライベートな空間故、先日のように第三者の存在に気を遣わなくても良い。それに加えて――かつてくろろの姉がとして結城邸に施した“おまじない”のお陰で、この家での会話が外に漏れる心配がないのだ。


「魔女の噂、殆どは本当みたいね」


 頬杖をついたくろろ。薔薇色の頬がマシュマロのように、ふにゅ、と口元へと僅かに寄る。


「撃ちゃん、噂はどのくらい知ってる?」


構築式プログラムの実行速度がアホみたいに速くて、最近出てきたマフィアで、この街のを手に入れようとしてて、死なない。くらいだな」


「そう」


 くろろは柔らかく微笑し、それから頬杖を止め、ぽん、と軽く胸の前で両手を合わせた。


「まず一つ目。実行ランが速いのは本当。そして二つ目、新参のマフィアなのも本当で、魔女自身は華人系。よくチャイナドレス着てるみたいだし、自分からアピールしているようなものね。但し、渡来のマフィアって言うにはちょっと微妙なラインみたい。大陸あっちでの活動は一切ないの」


「じゃ、この国こっちに来てから、裏の世界へ――ってことか?」


「ええ。あと、組織構成は極めて少人数だとか。三つ目の、この街のを欲しがってるのも本当みたい。以前はちょっとをする程度だったのに、最近好き勝手し始めたみたいで、素敵なおじさま・お兄様達が大層お怒りみたいよ。悪い魔女を懲らしめた勇者には、ちょっとした褒美を出す程度にはね。でも、『どうして彼女がこの街を欲しがるのか』――その理由までは解らなかったわ」


 ふうん、とクッキーに手を伸ばしながら撃鉄は呟く。元々大陸で闇の住人をやっていたものかと思っていたのだが、こちらに来てからというのが彼女には意外に感ぜられたのである。そしてクッキーが口内でほろほろと崩れていく食感と、ココナッツの甘みを堪能しながら宣う。


「まぁ、それは支配欲とか権力が欲しいとか、そういう在り来たりでつまんねー理由な気はするけどな。余程特別な事情でもない限りは」


「でしょうねえ、アタシもそう思うわ。で、問題は最後の四つ目、死なない。ねえ、撃ちゃん……撃ちゃんは、死なない人間って居ると思う?」


「常識的に考えるなら、ノーだ。死んだら人間そこで終わりだろ。ゾンビじゃあるまいし」


 でも、と少女は言葉を続ける。カップの水面を見つめる真紅のまなこは、何処か険しい。


「そんな質問をするってことは、死なないんだろ? 魔女は、さ」


 視線をくろろに移し、撃鉄は問うた。少女の眼差しを受け止めて、ええ、とくろろは首肯。小ぶりな掌、その細やかな指を組んでテーブルに肘をつき、真剣な面持ちで告げた。


「死なないの、噂通り本当に。『暴力団構成員三名行方不明』っていうニュース、見た?」


「あー……あれか。見た見た」


「公表されてないんだけど、現場にカメラが仕掛けてあったらしくて。ピストルで心臓を撃たれて、弾が背中まで貫通してるのに、平気で動く魔女の姿が映ってたんですって」


 くろろが「しかも超美人らしいの! 一回会ってみたいわー、どストライクだったらどうしましょー! しかも三十代前半くらいだとか……きっとアダルティなエロスむんむんよ堪らないわぁ」と淫虐に舌舐めずりしだしたのは放っておき、


「“死なない”。有り得ねぇよな、普通は。どういうカラクリだよ……」


 投げかけるように、しかし独白の如く、撃鉄は声帯を震わせた。すると、


「あともう一つ、気になる話があってね」


 魔女に対する余熱を頬に宿しながらも、クッキーをぱくりと食し、くろろが呟く。


「さっきアタシ、『魔女は三十代前半くらいらしい』って言ったでしょ?」


 色魔め……と思いつつ先程のくろろの独り言を殆どスルーしてしまっていたので、「え? ああ、うん、言ってたな……」と曖昧な返事をする撃鉄。これは目敏い小悪魔に咎められるか突っ込まれるな、と思ったが、以外にもくろろはそのまま言葉を続けた。


「ひょっとしたら彼女、この国に来てからか、かもしれないの」


 お伽噺の世界に生きる魔女、その姿は老婆か美女か――常にそのどちらかである。この都市に現れた魔女は、見事にその後者らしい。


「二十年くらい前に神戸で魔女そっくりな女性を見かけた人がいてね、そりゃあもうデンジャラス系アダルティ美人だったからよく覚えてたみたいで。魔女を見たとき、姿形二十年前そのまますぎて『化けて出てきた』と思ったんですって。もし神戸で目撃されたのが魔女本人だっていうなら、実年齢は五十歳以上……っていう、辻褄の合わないことになるのよ」


「死なない上に、年を取らない。おいおい、不老不死の――本物の魔女が居るなんざびっくりだぜ僕ァ」


「本物かもしれないし、元が超美人なだけに老いていく見た目にえられなくなって、整形に依存しなきゃ生きていけなくなっちゃった系美女かもしれないけどね。ま、もし魔女に接触するなら、絶対に無理はしちゃダメよ? 慎重に万全の態勢で挑んで、危険だと感じたら直ぐ手を引くこと。直接関わらなくたって、魔女を目障りに思う人達や、警察がどうにかしてくれるわ。今までみたいなお遊びで済みそうな相手じゃないんだから」


「っ!」


 お遊び、という言葉に反射的に噛み付きそうになる。確かに、今まではスリルを楽しんでいる気持ちがなかったと言えば嘘になろう。しかし、今回は――魔女の件は、


「真剣だよ。雲行きが怪しくなったら直ぐさま逃げるさ、でも、軽い気持ちで関わろうとしてるわけじゃない。僕や誰かが魔女に鉄槌を下せなくても――」


 せめて露口くんの姉さんが何処に居るかくらいは、と言いかけて、口を噤む。必要以上のことを迂闊にも喋り掛けただけでなく、依頼人の事情にを強く重ねてしまっていることを知られたくはなかった。


 やや無理矢理苦笑して、話題を変えようと撃鉄は呟く。


「しっかし、何処であれこれ手に入れてくるんだよいっつも」


 正直、情報の入手経路の予想は出来ているのだが。撃鉄専属とはいえ、くろろは所詮アマチュアの情報屋インフォーマ、精々“情報通”程度のもの。撃鉄としては大筋を把握すれば十分な場合が殆どなので、情報量が不足しすぎることはないのだが、時折何処で知ったのだと思うようなことを話してくれることもある。


 何せ、沙田撃鉄の対面に座す結城くろろ――幼気な姿をしたそのヒトは、毒有す花に他ならない。


 無意識に他者の視線を奪う撃鉄とは対照に、くろろは意図的に他者のまなこを魅了する。そうしてその侭、男女問わず(とはいえ、男を好む傾向があるようだが)寝床へと誘い込み、他者を捕食する可憐な食虫植物。有り体に言えば淫魔、色欲の権現。であれば、少女の皮を被った淫獣の手に落ちた人間こそが、情報源の一部である可能性はある。


「うふふ。マタ・ハリって呼んで」


 大いにある。


「呼ばねぇよ」


魔性ファム・ファタルでもいいわよ?」


「だから呼ばねぇっつの。つーか僕、そろそろ帰るよ」


「ま、撃ちゃんがそう呼んでくれないのは悲しいけれど、いいわ」


 心底残念そうに、くろろは華奢な肩を落とした。


「撃ちゃん、今日はこれからどうするの?」


「んー、十五時から依頼人殿と会うな。で、依頼人殿も来ることだし、駅前でプリン買って帰るわ」


「撃ちゃんがあの店のプリン食べたいだけでしょー?」


 悪戯好きな少女のように笑ってみせるくろろに、撃鉄はやや赤面して答えた。


「ばッ! 違ぇよ! これはその、詫びだよ詫び! そりゃ、僕とたっくんの分も買うけど、さあ……」


「はいはい、撃ちゃんプリン中毒だものねー」


 言って、柔らかな水色の髪を耳に掛けながらくすくす笑う。


 中毒と言っても過言でないほどプリンが好きなのは否定しないし、依頼人・露口少年への詫びの品というのも真実である。だが、こうして手玉に取られている感が否めなくなる度に、姿こそ十代の少女だが実際くろろは自分より年上なのだ、ということを撃鉄は改めて実感する。


 そんな彼女を余所に、「でも――」と、二十八歳の自称・女の子は人差し指を下唇に当て、上目遣い気味に此方を見る。


「お義兄にいちゃんには、プリンじゃなくてアタシをテイクアウトしてもらえないかしら?」


「しねえよ。たっくんも多分、『返品できるかいねー?』とか言いながら全力で受け取り拒否すると思うぜ?」


「ええっ! 酷いわ撃ちゃん」


「酷くねえよ。どっちかっつーと、姉の旦那たっくんにモーションか何か解んねえ際どいちょっかい掛け続けてるくろろのがひでえよ」


 腰に手を当て、溜息と共に告げられた撃鉄の言葉に、「アタシの下心、じゃなかった、家族と仲良くしたい気持ちをちょっかいだなんて、やっぱり撃ちゃん酷いわ、ううう。お姉ちゃんよりもアタシの方がお義兄ちゃんと会うのが先だったら……」とくろろがよく解らない悲しみに酔い始めたので、放っておいて帰ることにした。自分の世界に酔っているくろろに付き合うだけ無駄なのは、十年の内に得た撃鉄なりの教訓だ。


「じゃあなー。また何か解ったら頼むわ」


「うう、さようなら撃ちゃん。お義兄ちゃんによろしくね」


「応」


「いつでもアタシのことテイクアウトしていいからって、伝え」


「ておかねえよ」


「なんなら撃ちゃんがアタシのことテイクアウトし」


「ねえよ」


 そんなつれない撃ちゃんが好きよ、などというよく解らないラブコールを背に、少女はその場を後にした。

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