03
自動ドアが閉まり切る前に発された「有り難うございましたー!」という爽やかな別れの挨拶が、撃鉄の鼓膜を震わす。
「さて、と。帰らねえとな」
軽やかな歩みに合わせてケーキボックスがぷらりと揺れ、念願のプリンを手に入れたその足取りは心なしか
大抵の中立子は、公共機関や車に自転車、果ては徒歩での移動すら嫌う。そんなことをするより、
中立子の例に漏れず、撃鉄も当初は結城邸から店まで、そして店から事務所まで
ふと立ち止まり、何となく空を見上げた。陽の眩しさと蒼穹の鮮やかさに思わず手を
――「洗濯日和やな」とか、たっくん思ってそうだなあ。
もし洗濯しているのであれば、衣類だけでなく、医院のシーツやら何やらも洗っているかもしれない。取り込んだり畳んだり、帰ったら色々と手伝おう、と思いつつ目線を前方に戻す。
すると、交差点に差し掛かったとき、見慣れた人影が彼女の視界に入った。
かっちりと黒い
「こんにちは、神父様」
かつん、と靴音を鳴らし、こつり、と白杖の先端を地面に触れさせ、神父様と呼ばれた金髪の男が彼女へと顔を向けた。
年の頃は二十代後半ほどか。柔和で整った西洋系の顔立ち、その目元はサングラスで覆われはっきりとは窺えないが、穏やかな気配を湛えていた。
おや、と彼は柔らかに驚いてから少女の名を呼び、
「こんにちは。今日はどうされたんですか?」
などと、とてつもなく流暢な日本語を発した。初対面では面食らってしまいそうな光景だが、およそ十年の――撃鉄の日本語が覚束ない時期から付き合いがある
「くろろン
「プリン……成る程。それで、そんなにも嬉しそうにしていらっしゃるんですね」
納得がいった、とでもいうように、神父はふんわりと微笑む。
この盲目の若神父――ヨハン・M・ディートリッヒは、人の感情や様子、空気に敏感である。そのため、彼に知られてしまうのは仕方ないとして、くろろにさえプリンを楽しみにしているのが解ってしまったほどなのだから、プリンが絡むと自分は犬の如く嬉しさ丸出しらしい。そんな己の様子に少々ショックを受けたらしく、撃鉄は「しっ、神父様まで僕をプリン大好き野郎扱いするのかよお……」と塞がっていない方の手で額を覆った。
そんな彼女の様子を察知し、ディートリッヒはおたおたと焦りだした。
「あの、すみません、
優しく穏やかで、聖職者の鏡のような性格だからこそ人々(主に子ども達)に好かれているが、人が良すぎるのが玉に瑕である。撃鉄は話題変更を図るため、あわあわしている神父へと言葉を投げかけた。
「大丈夫大丈夫。ところでさ、神父様こそ今日はどうしたんだ?」
「私は、商店街まで買い物に行こうかと。近々子ども達とちょっとした遠足に行く予定でして、用意できるものは今のうちに購入しておこうかな、と思ったんですよ」
言って、
「ああ――そうだ」
ぽん、とディートリッヒは軽く両手を合わせる。手首を通した紐の先、地面から浮きぷらりと揺れる白杖。
「もしよければ、また遠足へのご同行をお願いしてもいいですか? 多分、一ヶ月程先になるとは思いますが……」
ふふ、と撃鉄ははにかんだように笑いながら、
「もっちろん。行く行く! 僕もみんなと久々に会えるの楽しみだしさ!」
「ああ、有り難うございます。では、日程などの詳細が決まり次第、またお知らせしますね」
「応、よろしくな神父様。みんなにもよろしく言っておいて貰えると嬉しいな」
「はい、ちゃんと伝えておきますね。では、私はこれで。最近暑くなってきましたし、気をつけてお帰り下さいね」
「ん。それじゃあ」
反射的に笑顔で手を振る撃鉄。それを感じ取ったのか、ディートリッヒも笑みを柔らかく深め、ゆったりと手を振ってから歩を進め始めた。
白杖を鳴らし、彼が歩いて行くのを数秒見送ってから、撃鉄も再び家路を辿る。
教会にはディートリッヒの他に、穏やかに歳を重ねたシスターと、教会で引き取った五、七、十歳になる三人の子どもたちがいる。
優しく上品な老婦人である一方で、茶目っ気たっぷりな少女の側面を覗かせるシスター。そんなシスターが孫に接するように自分を扱うことも、やんちゃ盛りでませてきた子どもたちが自分を姉のように慕ってくれることも、くすぐったいが非常に嬉しく撃鉄は感じている。祖父母や“きょうだい”を知らぬ撃鉄にとって、彼らと居るときは、普段とはまた違った幸せを感じる時間でもあった。遠足を始め、様々な“依頼”を引き受けては、彼らと過ごす時を楽しみにしている。
――みんな元気にしてんのかな。春君の人参嫌い、あれからどうなったんだろ……。
そんなことを考えつつ左折し、T字路へと出た。
刹那、
「あ。こんにちは、沙田さん」
己の名が呼ばれるのを聞いた。
その方角を見れば、栗毛色の髪と目をした気弱そうな少年――依頼人・露口少年の姿。こちらが彼に気付いたことに安堵したのか、ぱたぱたと小走りで駆け寄ってくる。
「丁度、沙田さんの事務所に向かおうとしてて。よければ、ご一緒してもいいですか?」
「ああいいぜ。つーか、さ……この間は本当にごめんな。あれから大丈夫だったか?」
先日の光景が撃鉄の脳裏を過ぎる。目の前に佇む少年、その顔が浮かべていた苦悶の表情、額や頬を伝っていた冷や汗。それらを思い出した途端、胃が鉛を流し込んだように重くなった。
少女の様子とは対照的に、少年は微笑して言う。
「あ、はい。大丈夫でした」
片手を胸の前で軽く振りつつ、「逆に心配をお掛けしてしまって、こっちが申し訳ないくらいです」と、苦笑する露口。まだ罪悪感が拭えず「本当に?」と問うてしまった撃鉄に、露口は柔らかく回答。
「本当ですよ」
「マジで?」
「はい」
「露口君、さ。プリン食えるか?」
声に出した後で、突拍子もない質問になってしまったとは自分でも思った。だが、露口が想像以上にきょとんとしており、その様子が何処となくおかしくて撃鉄は小さく噴き出す。
「ごめんごめん。もしよかったら、事務所で一緒に食おうぜ」
ケーキボックスを軽く持ち上げ、微苦笑する撃鉄。
彼女の言葉を受け、露口は何故急にプリンが話題に上ったのか合点が行ったらしい。
「いいんですか? 頂いても」
「いいって、いいって。つーか露口くんに買ってきたんだしさ。お詫びの品、にもならねぇかもしれないけど」
「そんな気を遣ってもらわなくても――あ、そうだ」
どうした、と首を傾げる撃鉄に対して、露口が告げる。
「先日のあれは沙田さんの
露口は、普段通り弱々しく微笑む。しかしそこには、悪戯を思いついた子どもの笑みが、少しだけ混ざっていた。
「事務所に到着するまでで構いません。先日の『授業』の続きを、お願いします」
聞いて、撃鉄は先日自らが告げた言葉を思い出した。
任意の歪曲地点ではない場所への
こうして図らずも、二時間目の授業が始まった。
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