04

「ちゃんと、沙田さんを連れてきました」


 天秤に掛けたのは少女の存在。その対価は姉という唯一の家族。しかし、少年にとっては姉たる露口奏がそうであるように、撃鉄も誰かにとっての掛け替えのない存在である。倒れ込んだきり起きあがらず、普段よりも輪を掛けて白い瞼を伏せた少女。その周囲に滞空していた真紅のモニタが、一定時間アクションがないことを感知し掻き消えた。強制施錠ログアウトである。


 豪放磊落な沙田撃鉄という少女が、今は微塵も動かぬことが恐ろしい。己が行った浅ましく身勝手な選択に、今更ながら恐怖と罪の意識が込み上げる。


 気を抜くと嗚咽しそうなそれを辛うじてこらえつつ、少年は酷くぎこちない笑みを浮かべた。


「約束は果たしました。だから、これで……これでッ、姉さんに会わせてくれるんですよね?」


 薔薇色の紅で彩った魔女の唇が、優艶と弧を描く。女の機嫌を損ねぬよう、必死に笑んでみせる少年がたまらなく愛おしい。


 どの少女よりも可憐で、どの少年よりも凛々しく。どんな構築式プログラムよりも無駄なく聡明、どんな宝石よりも煌めいていた――血も凍る程に美しい、極上の愛玩人形。

 それこそが、今廃屋の床に伏せる沙田撃鉄。そして、魔女の玩具たる露口に課せられたのは、この少女を手に入れること。

 その“お願い”を、愛しの玩具は無事に果たした。であれば、褒美を与えねばなるまい。


「貴方は、ちゃあんと私の願いを叶えてくれた。すばらしい真棒ほんとうに!」


 所々砕けた混凝土コンクリートの床面などものともせず、軽快にヒールを鳴らして少年の方へと歩み寄る。


「教えて上げるわ、あの子の居場所」


 美々しい笑みのまま、女は天を指差した。その意図が掴めずに、少年は魔性たる女の指先を見、それから艶やかな顔を見、瞬きをする。


 彼が意味を把握しかねているのを確信するや、残酷という言葉が人型を得たような女は益々口の端を吊り上げた。


「きっと今頃は、天国じゃないかしら? だって――死んじゃったもの。貴方のお姉さん」



   ***



 執拗なまでに磨き上げられた白い大理石の床を、靴底が一定のリズムで鳴らす。


 天鵞絨ビロードの如し夜が、街を覆う二十五時。白亜の廊下を進んだ先、或る部屋の前で女は立ち止まった。飾り気はないが重厚なマホガニーの扉。そこには、細やかな装飾が施された金色のドアノブが取り付けられている。それをおもむろに回し、扉を開けた。


 室内の内部は、はっきりと窺えない。女の瞳が暗順応を行っているということもあるが、室内の灯りが必要最低限にされていることも影響している。寸毫の間を置いて、女へと声が掛けられた。


「これは――お見苦しいところを。大変失礼いたしました」


 それは、一人の偉丈夫だった。扉から二メートル半ほどの距離に立つその男は「早急に整えますので」と告げ、機敏な動作で頭を下げる。スーツの黒いスラックスにワイシャツ姿であったが、シャツのボタンが上三つ留められていない。丁度、着替えの途中に女が入室してしまったらしかった。


 女は「いいわ。気にせずゆっくり着て」と微笑んだ。だが、男は素早くボタンを留めてネクタイを締め、ジャケットを隙なくきっちり着こなすや否や、女の側にはべる。


 部下たる男の忠心に関心しつつ、女は口火を切った。


「検品は済んだかしら?」


 女に問われ、「はい」と男は軽く礼をする。


「ですが、奇妙なことが……」


「一体どうしたの」


「ご覧いただくのが、最も確実かと」


 言って、男は視線を或る方向へと遣る。倣って女も双眸にて追えば、先にあったのは白で統一された豪奢な寝台であった。その一部が、盛り上がっている。丁度それは、布の下に人ひとりを隠しているかのように。


「お疲れ様。下がって良いわ」


「畏まりました」


 男は一礼して下がり、扉を閉める。


 彼の足音が遠ざかっていくのを扉越しに知覚しながら、女は「さて」と呟いた。そして部屋の奥へ悠然と歩を進める。


 ベッドの傍で立ち止まり、女は掛け布団コンフォータを躊躇なく一気にぎ取った。


 すると、柔らかなシーツの上に横たえられた物体――否、華奢な体がきゅっと丸まった。その反応は、決して寒さに対する反射ではない。それは、一糸まとわぬ己の肌をこれ以上晒すまいとするもの、もしくは身を守ろうとするかのようであった。


 シーツの一部が赤く染まっている。はて、と女は首を傾げ、同時に眉をひそめた。この少女のもってすれば、赤の染みはここまで広がらぬ筈であるからだ。


「あらあら大惨事ね。彼、大丈夫そうに見えたけれど……実は貴方に刺されていたのかしら?」


 女がくすくすと嘲笑を漏らせば、身を縮こまらせた生き物がわずかに首をもたげる。それは、血の気の引いた白いかんばせの、幼さと成熟の双方を持ち合わせた少女。疲弊の滲む瞳が、力なく、それでいて敵意を込めて女を見る。


「……そんな訳ないでしょう」


 声には覇気がないものの、眼差しと同様に敵愾心が込められていた。


 手負いの獣のようなさまを見、女は愉快そうに「刺されたのは或る意味貴方だったわね」と笑う。


「追いつかなかった、のかしら?」


 何が追いつかなかったのか、明言されなくともその意味を正確にとらまえ、横に首を振る少女。但し、女と同様、詳細には触れず答えを口にした。


「私は、至って普通の女の子だからね」


「それは残念ね。貴方が持っていた構築式プログラム、是非欲しかったのだけれど」


 構築式プログラムと聞いて、少女の顔色が僅かに変わった。下らないとでも言いたげで、やっぱりかとでも言いたげな、呆れが滲むおももちで溜息を吐く。


「私からあの構築式プログラムを取り上げたところでどうするの? 絶対に“あなたたち”では導入インストールできないし、そもそも“私たち”じゃないあなたに、あれを私から奪うこと――搾取サルベージすらできないでしょう?」


 “私たち”という言葉が指すものは、少女とその家族のことでないと女は知っている。少女が自身を含めて一括りに纏めたそれは、特別で特異な、埒外とも呼ぶべき唯一の者共だと知っていたのだ。“あなたたち”という言葉は恐らく、一般的な中立子のことを指しているのだろう。だが女とてその集合に含まれる存在ではなかった。目を嘲笑に歪め、女は少女を見下ろす。


「でも、私なら貴方から奪えるし、自分のものにできるわ。ええ、無問題もんだいない


「もしかして貴方、大陸で造られた“私たち”の類似品? 昔、母さんから聞いたことがある。所有領域メモリ量が大きいだけで、演算能力も速度も大したことない粗悪品だって。無理だよ、貴方の性能スペックじゃ。“私たち”以外に、あれは絶対に実行できない」


 露骨に侮辱され、女の表情が歪む。口元や目元の皺がより一層深く刻まれるのも厭わず、怒りを剥き出しにして少女の肩を乱暴に押し、か細い体を仰向けにさせた。触れたその肌は吸い付くように柔らかく、水分と油分の足らぬ女のかさついた掌にさえすべらかさと瑞々しさを伝える。少女の持つ全てが妬ましく、憎らしい。


 女が振り上げた腕を視界に捉え、少女は反射的に固く目をつむる。微かに身をよじるが、それは少女の白い胸を微かに揺らしたのみで、頬に迫る平手から逃れる効果をもたらすことはなかった。まるい頬辺をしたたかに打つ、乾いた音が室内に残響する。


「……っふふ。あはは! ねえ、怒った?」


 口のに血を滲ませながらも、少女はへらりと笑って、己に跨がる女を見た。


 女は未だ肩で息をしながらも、乱れた髪を手櫛で整えつつ少女に笑みを返す。


「いつまで最高性能の規格外ハイエンド気取りなのかしらね“貴方達”は」


「事実でしょう」


「どうだかね。そうそう、い加減その傷付いた表情おめなさいな。未通女おぼこ娘でもあるまいし。記憶くらいはあるでしょう?」


 笑みが徐々に面から引き、無表情になって押し黙る少女。


 それが何を意味するのか一瞬把握できず、女は目をゆっくりと瞬く。それから一拍置いて、理解したと同時、勝手に喉からくつくつと漏れ出す笑声。程なくしてそれは哄笑へと変わり、


「これはこれは。真実初めて、大人の仲間入りをしたってわけね」


「何を以て大人とするのか、貴方の浅い考えが知れてよかったよ」


 減らず口こそ変わらぬが、女がこの部屋を訪れる前になされた検品は確かに少女の心を傷付けたらしい。これではまるで、ただの小娘ではないか。本当にが“彼ら”――くだんの特殊個体のひとつだとにわかに信じられぬ程に、普通の人間ではないか。


「どんな達観した感性の生き物なのかしらと思ったら、存外平凡なのね。貴方のこと、暫くはここに置いてあげる。けれど、人ひとり養うのも安くないわ。食い扶持ぶちくらいは自分で稼ぎなさいな。仕事は用意してあげたから」


ああ、そのための検品ってわけ」


「理解が早くて助かるわ」


 にこりと満面の笑みを浮かべる女。少女から退いてベッドから降り、用は済んだと言わんばかりに踵を返す。そして部屋の出口へと向かいつつ、少女の方を振り返ることもなく告げた。


「この部屋がこれから貴方の住処よ。毎日迎えの車が来るから、それに乗って仕事に行きなさい。そうそう――貴方の弟も見つけたら、ここに連れてきてあげる。姉弟が離ればなれなのはつらいものね? それに――」


 ドアノブに手を掛けながら、女は部屋の外へと出た。先程まで室内の絨毯を踏んでいた靴が、硬い大理石の床に触れて鳴る。寝台の少女を見遣り、女は扉を閉めながら、


「あの子が貴方の落とし物の行方ゆくえを、知っているかもしれない。だから、必ず見つけ出して連れてきてあげるわ。晩安おやすみなさいい夢を」


 足音が遠ざかっていくのをしっかりと感じ取ってから、少女――露口奏は、詰めていた息を食いしばった歯の隙間から逃した。



   ***



 幾度の朝を迎え、幾度の夜をやり過ごした頃だったか。

 その部屋で絹を裂く音は、早朝の喧噪にまぎれて外部には微塵も漏れ出していなかった。

 シーツを噛み、引き千切る。何度かそれを繰り返し、り合わせて紐状にする。何かに取り憑かれているかのように、露口奏はこの作業に没頭していた。トランス状態も斯く在らん、そんな様子にも関わらず、頭は冴ええとしている。


 自分のことを気に掛けてくれた樹理華じゅりかがいつか言っていた。星灯館の女の価値は高く、それ故に上流階級の者や金の扱いを心得た紳士的な客が多いと。確かに、今まで乱雑に扱われたことや、無理強いされた記憶はない。けれども、見知らぬ相手の息づかいや温度は、酷く気持ちが悪かった。あばかれた己の中は快感など導いてはくれず、得られたのは、穿うがち放たれる度、内側から腐っていく心地だけ。


 しかし、それは彼女を駆り立てる主たる原因ではない。

 己が感じているものを説明したところで、きっと誰にも理解して貰えやしないだろう。少女自身ですら、内側に巣食う底の見えない何かを明確には把握できていない。強いて言うならこれは、まるで――今の体と魂が、致命的な齟齬を起こしているかのような。たかだか十九年の存在である肉体の未熟さに対して、内包する精神と思考の比重が大きすぎる。梃子てこの片側が積載限度に達し、天秤が傾きすぎたが故の、死の欲動アポトーシス


「……」


 これまで生きてきた時間。それはあくまでも、露口奏としての人生だ。いのちの並行が崩れた今、黒い影に完全に蝕まれてしまえばきっと、自我が不確定になる。理屈は解らない、それでもそうなると理解している。完全更新アップデートが完了してしまえば、今と同一の存在ではいられない。


 先日、換金屋をしているという青年に娼館街にやってきた事情をつまびらかに話してしまった。情けない話だが、もしかすると、自分は家族以外の誰かにも露口奏の生きた道程を知って貰いたかったのかもしれない。


 ふと、今やたったひとりの家族である、弟のことが脳裏をぎる。


「あの子はきっと、大丈夫だよね」


 弟は、きっといのちを手放さぬだろう。彼女が手ずから、彼に「生きていればそれで勝ちだ」という祝福を与え、呪縛たる力を授けたのだから。


 裂いたシーツで作った紐が十分な長さになったのを確かめ、彼女は寝台から降りる。背後の窓から差し込む白日が、床に少女の形をした影を作っていた。裸足の侭ぺたぺた歩けば、影も前へと進む。だが、或る場所に達したとき、影は下ではなく彼女の目線の高さと同じ場所に移る。黒い無貌の少女が投影された先は、この部屋のドア。奏はドアノブに手を掛ける。かちゃりと僅かに音がしたが、部屋の外から施錠されており、頑丈な金属製のそれはびくともしない。


 奏の自室として用意された部屋には、は徹底的に置かないようにされていた。例えば、ナイフや剃刀などの刃物。それから、ロープも。


 手をドアノブからゆっくりと離し、奏はをする。ドアノブに奪われた右手の体温が元通りになる頃、それはようやく終わった。ゆっくりと下ろす瞼と睫毛は、まるで終幕の代わりのようで。


「さよなら」


 そして少女は。

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