track05.リピート

01

 機械的なスパークが、小さく弾ける。


 瞬目のために下ろした瞼を再び上げると、目の前には扉。それは、撃鉄にとっては見慣れたものだった。視線をぐるり巡らせば、網膜に映り込むのは同じく見慣れた風景――彼女が趣味で営んでいる事務所の来客用デスクであったり、ソファであった。

 先程までの薄暗く閉塞的な空間とは打って変わり、眼前に広がるは事務所の光景。


 《要塞》には時折出入りしているとはいえ、気分が微塵も沈まないと言えば嘘になる。あの陰鬱な空気には僅かながらてられてしまうし、《要塞》の住人たちを見るたびに何とも形容しがたく落ち着かない妙な気分になった。その度に、鉛でも呑み込んでいるかのような息苦しさに襲われる。

 そして今回彼女は、名状しがたい感情の正体と、過去の記憶が脳裏を掠める原因――因果の糸を一本違えれば自分も彼ら側だったかも知れなかったことと、驕りから来る同情心が己の胸裡に芽生えていたことに気付いてしまったのだから、少女の胃はいつにも増して重かった。


「ここ……沙田さんの事務所、ですか?」


 《転移テレポート》による空間移動が俄には信じがたいと言わんばかりに、少年は周囲を見渡し、何度も瞬きを繰り返す。独話とも対話とも取れる露口の言葉に「ああ。無事着いたみたいだな」と取り敢えず返しておく。


 若干ぶっきらぼうな声音になってしまったのは、此度こたび思い知った己と彼らを別つ云々うんぬんまつわる憂鬱だけではなく、少年に対する申し訳なさも尾を引いていたからである。

 先日の詫びの品として買ったプリンも台無しであるし、何より、自分を庇った所為で負傷させてしまった。《転移テレポート》時にちらりと彼の手の甲を見たが、本人の言うように傷は浅かったらしく、そこには掠れた血の痕が残るのみ。

 それでも、自分自身の落ち度には変わりない。苛立ちを孕む溜息を、噛み締めた歯の隙間から逃がす。

 未だぼんやりぐるぐると周囲を見回す少年の手からスカーフが離れたのを確認し、手早くそれをセーラー服の襟下へ通す。胸元で適当に結んでから、ソファの方を指で示した。


「まあ取り敢えず座れよ。色々あって疲れただろうし、さ」


「あ、はいっ、ありがとうございます」


 慌てたように露口は頭を下げ、ぱたぱたと小走りに指定されたソファまで向かい、(途中でつまずきながら)慌ただしく着席した。相変わらずこちらの顔色を伺っているようなおどおどとした反応に、生ぬるい水に似た感情が臓腑に満ちる。「好い加減慣れてくれてもいいのではないか」という寂寥、そして「何故、彼はこのような怯えに近い様子を見せるのか」、「魔女からの逃亡生活に起因しているとすれば、一体過去に何があったのか」という下衆じみた疑問。


 だが、侘びしさを口に出し詮索を行ったとて、今は一銭にもならないし、そこまで落ちぶれたつもりもない。兎も角、今自分たちに必要なのは休息である。体力・精神力を回復し、冷静な頭で余裕を持って思考するためにも、だ。


 撃鉄は彼の対面に位置するソファの後ろへと回り、そのまま部屋の奥――窓際に置かれた自身のワーキングデスクの方へと向かった。何故向かいに腰掛けないのだろう、と言いたげな少年の視線が背中に柔らかく刺さる。無言の問いかけに答えることはせずに、机の斜め右後ろにあるキャビネットをおもむろに開けた。

 丁度彼女の胸の高さにある段に、複数の小箱と、スティック状のものやころんとしたコイン大の容器が沢山置かれている。整然と棚の中に鎮座するそれらを見、この数なら大丈夫そうだと安堵の息を吐く。何せ、休息にはが必要であり手っ取り早い。喉に何かが蟠り、臓腑に疲労感が満ちているのならば、洗い流し新たなもので体を満たせばよいのだ。


「コーヒー、紅茶どっちがいい? まあ、それ以外にもあるけどさ」


 振り向きざまに告げると、露口が「それ以外?」と不思議そうに小首を傾げる。「おうよ」と返答し、「えーと」などと呟きながら小箱、それから小振りなアルミスタンドに立てられたスティック、プレートの上に並べられたコイン大の容器――ポーションを見遣る。


「ラズベリーティーとマスカットティー、あと、緑茶とほうじ茶、煎茶と茉莉花ジャスミン茶。それからココア、あとは――インスタントだけど、いちごラテ、抹茶ラテ、チャイ、カフェラテとかもあるぜ」


 中身が整頓されていたおかげで、何があるのかすらすらと言うことができた。細々こまごまとしたものは適当に棚に突っ込む性格の自分ではこうは行かなかっただろう。心の中で佑に感謝を捧げると同時、以前ごちゃごちゃとキャビネットに突っ込まれたドリンク類を憐れに思い整理した佑に対し「息子の部屋ァ掃除する母親じゃあるまいし」と悪態をついてしまったことを詫びた。

 趣味兼仕事のスペースを他人に触られるのをあまり良しとしない撃鉄ではあるが、今更ながらあの言い方はなかったと思う。何となく、整理整頓しないのを責められている気がしたが、それも己の思い込みに過ぎない。


 そもそも、佑は母親――否、父親でこそないが自分の保護者だ。本当の保護者が今何処に居て何をしているのかなど知らない。佑は赤の他人だというのに、十年間も自分の保護者で在ってくれる。あの日差し伸べられた手の温かさのお陰で、現実を悲しめども憎まずに生きていられたと言っても過言ではないだろう。


「沢山ありすぎて何が何だか……どれにしよう……」


 少し呆けたような依頼人の声が、浸りかけていた感傷を優しく拭い去る。はたと目を瞬き顔を上げ、ゆっくりと体ごと少年の方を振り返れば、彼は真剣に悩んでいるようだった。

 普段は自信のなさそうな表情ばかりしている顔の眉間に今は皺が小さく寄っているさまが、何だかおかしくて愛嬌が感じられた。見ていて思わず零れでた微笑と苦笑に、撃鉄の口の端が柔らかに上がる。


「悪い悪い、初めはこんなになかったんだけどさ、気付けば増えてたんだよ」


 我ながら無駄に充実したラインナップである。美味しそうなものを見つける度に買っていた所為か、ちょっとしたドリンクバー状態になってしまったのだ。お陰で客人の好みに幅広く対応することはできるが、今回のように悩ませてしまうことになるとは。


 五秒ほど唸ってから、露口はぱっと面を上げた。


「じゃあ、紅茶をお願いします」


 言って、少年は少しはにかむように微笑した。


「最初こちらにお邪魔したときに水鏡さんが出して下さったものが、凄く美味しかったので。今回は、沙田さんおすすめのものがあれば、それを是非」


おう。暫く適当に寛いでてくれ。何かあったら、この部屋出たところにある廊下を右手にずっと進んだ突き当たり僕はいるから」


 大捕物に巻き込まれた挙げ句、危機に晒され負傷してしまった露口の疲労感は、想像に難くない。今あるもので一番美味しいと自信を持って言える茶葉が入った缶を手に持ち、撃鉄は部屋を後にする。身に染み渡るような香りと温かさが少しでも少年の疲れを癒やしてくれることを期待しつつ、華奢な胸元に缶を抱え直しながら給湯室を目指した。



   ***



 強化カーボン製の調理器具が主流な現代では、最早ステンレス製のやかんなどレトロや骨董品と呼ぶに相応しい。撃鉄はそれに水をはり、つるりとした板状のコンロに乗せてパネルを操作し「加熱」の文字を押す。


 火を使用しない、電磁誘導によるこの加熱技術は、既に十九世紀ほど前に確立されていたらしいと高校の授業中に聞いた。屡々しばしば「二十一世紀終盤をほんの僅かにしのぐ文明力」と表現される現代科学だが、少しでも嘗ての科学力を上回っているのであれば、一瞬で水が沸騰する技術くらい開発されていても良いではないかと彼女は思う。

 そもそも、照明しかり、空調然り、玄関や窓の錠然り――あらゆる生活機器のネットワーク化も二十一世紀終盤よりも進んでいるのだから、事務室に居ながらボタン一つ押すだけで、やかんが自動的に動いて自己給水から加熱までしてくれ、その足(と表現するのが適切であるかは不明だが)で事務室まで来てくれたならばよいのに。


 事務室に電気加熱式のポットでも置けばよいのだが、事務室の雰囲気やインテリアと調和しない気がするので置きたくない。しかし置かないのであれば、こうして毎度給湯室に赴き毎度湯を沸かすしかないというジレンマ。


 腕を組み、眼下のやかんに無言で恨み節をぶつけたとて、湯が沸くのが早くなるわけではない。そんなことは解っているというのに、ぴーと鳴らないやかんが憎らしくて溜息が零れた。


「……はあ」


 溜息に合わせて自然に目線が下がり、僅かに下りる睫毛。すると突如、


「どないしたんな?」


 給湯室と廊下の境目付近から発せられた、方言混じりの男の声。撃鉄は完全に気を抜いていたにも関わらず、驚くことはなかった。彼女は「や、ただ早くお湯沸かねえかなーって」などと返答しつつ、コンロに背を向けて声の方向を見遣る。給湯室の入り口で、声の主たるたすくがちょいちょいと手招きしていた。医院のスペースにいれば、転移完了時に生じた円環アニュラスのスパークが微かに聞こえる筈だ。恐らく、佑はそれを聞き付けて撃鉄の帰還を悟ったのだろう。


「おかえり」


 二歩だけ彼の方に歩み寄った撃鉄に掛けられたのは、相変わらずの平坦な声。けれども、そこには幾許かの温かさが潜んでいる。


 どうやらは佑は本業ののようで、ネイビーカラーのスーツを身に纏い、銀縁の眼鏡を掛けていた。その右目は黒い眼帯に覆われておらず、左目と同じ鈍色の虹彩をしたまなこがある。廊下よりも明るい給湯室に佑が足を踏み入れると、双眸の瞳孔は小さくなった。

 それは、ヒトの目で自然に起こる瞳孔の収縮。網膜に到達する光量の調節。しかし、今照明の下に晒されている彼の右目、実は生体のそれではなく義眼である。それも、極めて自然に動き、前述の対光反射を当然の如くこなしてみせるほど精巧な機械仕掛けの。


 出生の際に細胞採取が義務づけられ、それを用いた再生医療がスタンダードとなった現代にいて、義肢や義眼を装用している者は極めて稀だ。

 但し、彼の周囲に「何故に目を細胞で作らず、義眼など使っているのか」と問う者はいない。「右目が義眼」という事実に気付いていない者もいれば、彼の或るを知った上で、その事実が自然なものとして馴染んでいる者もいる。撃鉄はというと、その後者であった。


「応、ただいま。たっくんもおかえり。今日は仕事だったんだな」


「ん。十五分くらい前に帰ってきて、色々済ませて少し休んどったとこやわ。もうちょいしたら、洗濯物取り込もかいねうかな。そっちは依頼人君、来たんやな」


 トレイの上に二つ置かれたカップを一瞥して、佑はそう告げた。


「そうそう。来てくれたっつうか、花珠神社くろろんちからの帰りに偶然会ってさ、一緒に来たんだ。まあ道中色々あったけどな、うん……」


 プリンを犬に強奪されたり、その流れで《要塞》に住まう少年少女を脱臼させたり気絶させたり、プリンを取り戻したかと思いきや箱が犬の唾液塗れで泣く泣く奪還を諦めたり等、色々とあった。今は語ると長くなりそうなので、この程度で留めておくことにする。


 若干消え入るような説明が引っ掛かったのか、佑の双眼には不審そうな色合いが見ゆる。しかし、敢えて説明しなかったこちらの意図を酌み取ったのか、「どないしたんな?」と問うてくることはなかった。

 無遠慮でもなく無関心でもなく、関わるべきタイミングを静かに見極めてくれる。保護者かつ同居人のそんなところを、撃鉄は好ましく思う。


 吐露を促す言葉の代わりに、彼は別の言葉を告げる。それはある意味で、彼女にとっての吉報であった。


「プリンもろたから、二人で食べてかまんよ」


「……マジ?」


「ほんまほんま。給湯室ここの冷蔵庫に入れたあてあるから」


「たっくん神様かよ……ありがとう」


 撃鉄は歓喜を噛み締めながら百九十一センチの神を見上げた。アガペプリンを与えたもうた神もとい佑のまなじりは「そんな大げさな」と語るように微かに細められていたが、彼女がつぐんだ受難を思えば、それも仕方ないことだ。


「礼はくるるに言うとくんやで」


「え? くるる?」


「この間の報酬、後払い分やってさ」


 名を聞いたときは思わず目を瞬かせてしまったが、これが“報酬”であるというなら納得がいく。いつぞやの――少女を狙った連続殺人事件、その囮役に対するくるるからの個人的な“報酬”だ。特別報奨金対象制圧者バウンティハンター・ライセンスの所有者は警察の協力及び依頼のもと、囮役となることができる。報酬は前払いだ。

 しかし、今回囮役の仕事を持ちかけた刑事こと結城ゆうきくるる、佑の妻の弟であり、くろろとは双子。そんな青年は撃鉄を幼い頃から知っているために、こうして「後払い分ですよ」などと称して労いの甘味を寄越してくれるのだ。しかも、今回は彼女が愛して病まない店のプリンで。


「やばいな、くるるも神様に見えてきた」


 くるるに対する好感度の折れ線グラフが、撃鉄の中で直角に近い勢いで上がる。


 その上昇が数日で元に戻ってしまうことを知っている佑は、顔に苦笑の気配を滲ませた。それから、プリンに対する喜びで我を忘れている少女の背後で先程から存在を主張している物に言及するのだった。


「お湯、もう沸いたんとちゃうか? 音しとるで」


「あ!」


 撃鉄は慌ててパネルを操作し、コンロのスイッチを切った。そのままやかんのハンドルを持ち、慣れた手つきで熱湯をティーポットに注ぎ、洗い流す。その様子を暫し見守ってから、佑はゆっくりと踵を返した。そして振り向きざまに、


「そいだしたら、俺は着替えて医院の方戻っとるさかから。また夕飯食べれるようなったら連絡しといてな」


「オッケーたっくん。それじゃ、またな」


 己の肩越しに佑を見、にっと笑って撃鉄は手を振る。すると、佑も小さく掌を振って、それに応えてくれた。


 撃鉄は再びティーポットへと向き直る。そして、遠ざかっていく足音を背に、紅茶を煎れるのであった。

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