06

「壊す? 補助装置サポートデバイスとの契約は、契約者しか解除できないでしょう?」


 基本知識だろうにとでも言いたげに魔女が嘆息した。撃鉄からの攻撃に備え、開錠ログインしかけた女を見据え、撃鉄は笑う。


「言っただろ? 物事には特例が付きものってな。僕自身、そのひとつだ」


 殊更獰猛に、不敵に不遜に笑んで。


「《破壊クラック》、実行ラン


 静かに、重く――少女は天啓メッセージに告げた。先程露口が述べた言葉の一部に、撃鉄は強く共鳴した。というのも、彼女も「己が何者であるか」など解りやしなかったからである。


 父親から譲り受けた六弦に搭載された物理変数パラメタ操作構築式プログラムが感覚的に無声実行できるのは(譲渡可能かつ、製作者以外が実行可能な高度構築式プログラムを創造した父親が異常なだけなので)兎も角、通常、侵入者ハッカーは基本の三構築式しか使えぬ存在。だというのに、気がつけばこの《破壊クラック》なる特殊構築式プログラムが使えたのだ。


 《破壊クラック》は、この世界に自分が生まれ落ちる前からIDと共に自身の内に在ったものだと、直感的に撃鉄は確信している。その証拠に、呼吸の方法を学ばずして知るが如く、出所不明アンノウンなそれの扱い方が既に解っていた。これが単に純粋な身体的・芸術的能力であったのならば才能と呼ぶことができただろう。しかし歪曲世界を介したこれは最早――異端の所業、例外としか呼べまい。


『特殊構築式プログラムの実行を検知しました。実行範囲を主従契約マスタ・スレーヴに限定して承認します。対象を指定して下さい』


 冴え冴えとした天啓メッセージの音声を受け、撃鉄は高らかに告げた。


「そこの少年君。それから、どうしようもねえ年齢詐称女。この二人だ」


 己が例外であることを自覚したきっかけは、撃鉄がまだ幼かった頃。くるるの当時の恋人、兼、契約者が彼の体に付けた痣や傷を見たことだった。当時は青年が被虐趣味愛好者マゾヒストであることや、需要と供給が成立したうえで刻まれた愛の証であることなど知りもしなかったので、くるるが理不尽に暴力を振るわれているのだと思い悲しくなったし、兄のように友人のように自分に接してくれる優しいくるるを虐げる存在など、何処かに行ってしまえばいいと怒りに駆られた。それから二週間ほど経ったころであったか、不意に脳裏に浮かんだのはこの命令コマンド。誰に教わるでもなく唱えた《破壊クラック》は、くるると恋人の補助装置サポートデバイスとしての契約と――それから、彼らの“恋仲”という関係を壊してしまった。


 成長し、自分がやってしまったことを理解してショックを受けたものの、当時くるるが酷く落ち込んだり自棄になることはなく、彼は至って普段通り。それは何故だったのかとくるるに尋ねたとき、「実は契約が切れる数日前、二股を掛けられていたことが解って丁度別れようとしていたところだったんですよ。不誠実さは不快ですし、精神面の傷はつらくって趣味じゃないので。あ、でも身体的な負傷は大歓迎です」と苦笑する青年の様子に、少し救われもしたが「えぇ……」と引いたのを今でも克明に覚えている。


 母の顔など知らない。父も行方を眩ました。七歳のあの日エックスデー以来、血縁関係にない大人の庇護下にある。既に周囲の“普通”とは差異があるというのに、侵入者ハッカーが持たざる構築式プログラムの所為で、侵入者ハッカーにあらざる力の所為で、自分が得体不知で酷く気味の悪い、不確定の存在に思えてならない。現在は「まあ個性みたいなもんだろ」と無理矢理割り切っているものの、それでも心身が弱っているときなどは再び不安の影に苛まれる。


 肉親と生き別れ、身に宿した不可解な構築式プログラムに思い悩んだ撃鉄だからこそ。もし自分が少年の立場であったら何を思い何を感じるか、克明に想像できてしまう。


 ただ、それにしても、だ。


「お誂え向きだぜ、全くよ」


 出所不明アンノウンなこの構築式プログラムを自分が持っていなければ、露口を魔女の中立子的支配――主従契約マスタ・スレーヴから解放することはできなかっただろう。精神や肉体が女の支配から逃れるには時間が掛かるかもしれない。ただ、契約が消滅することが、少しでも少年の救いとなればいい。天啓メッセージによる処理が進む中、例外たる少女は微かに自嘲する。


 誰も、少女を止めようとしなかった。否、今何が起こっているのか解らず、動けないでいた。構築式プログラムによる他個体への干渉は不可能だと言われている。故に――第三者による契約の解除など、


「――有り得ないわ」


 半ば呆然と魔女が零す。だが、時既に遅く、天啓メッセージの『処理を完了させますか?』という平坦な声に、撃鉄が力強く返答した。


「応!」


『受理されました』


 その言葉と同時に、強い目眩めまいが魔女と少年を襲う。この平衡感覚の乱れこそ、構築式プログラムによる干渉由来の負荷だが、両者はそれを知る由もない。


 眩む視界に耐えつつ、女は少女を睨もうとした。しかしその視線は別のものに吸い寄せられる。


「どういうこと」


 魔女の目を奪ったのは、前方に出現した翡翠色のモニタ。女――中立子アポリアの意思で起動したものではない。撃鉄の行使する《破壊クラック》なる特殊構築式プログラムが強制的に起ち上げたものである。モニタの中を白銀の文字が高速で流れたかと思えば、二秒後、或る文字列を刻んで停止した。


 魔女だけが読むことのできる“契約の完全解除を実行”という文字列を。


『アポリアにより契約が解除デプログラムされました。これに伴い、補助装置サポートデバイスの所有権は永久的に失われます』


 モニタが光の粒子となってほどける。それと同時に、少年の首元に枷のような緑光りょっこうの輪が出現し、弾けるように消えた。


「嘘、でしょう?」


 譫言のように、それでいて狂気を滲ませて。魔女は震える己の掌を見た。

 今や少年の固有構築式プログラムの恩恵に与れぬその肌からは、急速に艶が失われていく。弾性繊維エラスチンが減少し、たるむ表皮を覆っていくのは細かい皺。


 “彼ら”を凌ぐ逸品で在れと、理不尽な試験や観測を強いられていたあの頃とは違う。「中途半端な性能だ」と、廃棄命令を下されたあの頃とは違う。処分とは名ばかりに黒社会を通じて裏市場に流通し、島国の地方の暴力団幹部に買われた惨めなあの頃とは違う。

 幹部からトップに上り詰めた男に飼われ、知識を与えられる中、強請ねだって一つの組織を女のために作らせた。男に悟られぬよう、私利私欲と快楽のために組織を育て上げ、私腹を肥やした。所詮は一地方のならず者、男が年齢を十分に重ねた頃反旗を翻し、全てを女のものにした。

 そして運命か宿命か。女が支配する組織の一端から露口夫妻が金を借りてしまったことを切っ掛けに、憎み渇望した“彼ら”が一個体たる少女・奏に出会う。望んだ形ではなかったものの、“彼ら”にしか許されなかった力を手中に収めた。それと同時に、愛玩用の少年を手に入れ、かつての美貌を取り戻したのだ。


「ねえ……どうして! どうしてよ!」


 定義と尊厳を奪われ続けた、惨めな過去とは決別した。枯れぬ美々しさを保ち、愛らしく美しい少年を支配し、肉の乾きを潤し欲を貪り、ほしいままに生きるのだ。更に、沙田撃鉄という至高の美少女を手に入れ、肉体を蹂躙した後に殺し、特別な遺体保存技術エンバーミングを施して永遠のビスクドールにして愛でねばならない。願いは他にも尽きず、奪われた人生を取り戻すかのように、これからも華々しく人生を歩んでいく。そのはずであったというのに。


「どうして私が奪われないといけないの! 有り得ない、有り得ないわ! こんなことが、有る筈がないのよ!」


 美しく、豊満で妖艶な面影は最早ない。七十代に差し掛かからんばかりの、老いた女がそこにいた。


 老婆を赤い瞳で刺すように見、撃鉄は告げる。


「『有り得ないなんてことは有り得ない』んだよ。他人の受け売りだけどな」


 不老と不死を魔女から奪う。さすれば魔女もただの中立子、普段から鍛錬でもしていない限り、体力とスタミナは十代の撃鉄に分がある。そして、態々わざわざ女盛りの時分の姿を固有構築式プログラムを使って保っているのであれば、美しい外見にも強く固執しているだろうと撃鉄は踏んだ。その予想通り、若さと美貌を失った女は、錯乱しているのか慟哭しつつあるのか、よく解らない呻き声を漏らしていた。


 ギターで適当に殴って気絶させるべく、撃鉄が床に放ったままの愛器を拾おうとした刹那。


「どうして、姉さんは死んだんですか」


 青ざめた顔の少年が、嘗て魔女と呼ばれた女の方へと、ふらふらと詰め寄り始めていた。


「ねえ、返して下さいよ。たったひとりの家族なんです」


 その途中、彼の靴の先に何かが当たった。露口少年がそれを拾い上げると、女は短く悲鳴を上げて後退あとずさる。

 撃鉄の方角からは少年の手元が彼の背に遮られてしまい、彼が何を持っているのか解らなかった。


 少年はまるで手の中の銀色が何であるか判然としないといったふうに、角度を変えたり反対の手に持ち替えたりしつつ、一頻ひとしきりそれを眺めた。

 そして、その物体の正体がナイフであると認識すると同時、弱々しく蒼白だった彼のおもてに怒気が満ちる。一歩しっかと踏み出し、そうしてまた一歩確かな足取りで少年は前へ――女の方へと進んだ。


「父さん、母さん」


 やがてそれは大股になり、


「そしてお前は」


 悲憤と怨嗟を炉心に歩調を速め、


「――お前は、姉さんまでッ!」


 老婆の胸元を掴み、乱暴に壁へと押しつける。あれだけはち切れんばかりに豊満な肢体を包んでいたドレスも、今や布が余っている。

 人並み以下の膂力りょりょくしかない少年であっても、布地を掴んで拳を捻るようにすれば簡単に女の喉付近を絞めることができた。


 酸素を求め、魔女と呼ばれた女が呻く。

 往生際の悪い命乞いなのか、生き汚く反撃の契機とせんがための開錠詠唱ログインなのか、どちらであるのか自身ですら確信できぬままに老女は口を動かした。だがそれは言の葉を成さず、やはり呻きとなって宙に消えた。


 瞬間、露口が右腕に力を漲らせ、ゆっくりと上げた。

 先程は角度の所為せいで見えなかったが、ここに来てやっと彼が拾い上げた物体がナイフであったのだと少女は知る。


「おい、やめろ」


 事態を飲み込みきれない撃鉄が制止の言葉を零す。


 老人は弛んだ瞼を精一杯見開いて、掠れた小さな悲鳴を上げる。露口の腕で壁に縫い止められ身動きが取れない。

 このままでは、少年が振り上げたナイフが顔面に深々と刺さってしまうというのに。


「やめろ、露口君!」


 少女は駆け出し、懸命に腕を伸ばす。だが彼女の位置ではまだ少年には届かない。

 言葉や願いは何の意味も持たず、露口が刃を深々と突き立てるのを止めることなどできなかった。


 もっと早く少年を止めに向かっていれば。彼がナイフを拾ったのだと早急に把握していれば。ぎりと奥歯を噛み締めつつ、撃鉄は視線を落とした。


 だが。


「ひ、ィ――」


 あまりにも間の抜けた悲鳴が、廃墟に満ちた静寂しじまを破る。はっとして撃鉄が露口の傍らに駆け寄れば、壁に背を預けた老婆がぶるぶると震えていた。


 ナイフは女の顔の真横に刺さっている。その柄を握ったまま、大きく肩で息をする露口。寸でのところで呼び戻された少年自身の正気が、あだとはいえ手を下すことを良しとしなかった。今でも魔女のことは殺してしまいたいくらい憎い。だが、彼には殺せなかった。決して露口が腑抜けだからという理由ではない。ここで女を死に至らしめてしまえば、女が受ける罰はたったそれだけで終わってしまう。死をもって解放されるなど、とてもゆるせやしない。


 上がってしまった息を努めて落ち着けるようにしながら、露口は老婆の目を真正面から睨んだ。


「欲しいものを手に入れられず、望んだものも取り上げられて、この先ずっとそれを取り返せずに恨み言を垂れ流しながら。然るべき裁きを受けて、失意の侭に死んでください」


 女は間一髪で助かったことに安堵したのか、それとも極限的な緊張状態に耐えきれなくなったのか、そのままずるずる床に座り込み、白目を剥いてしまった。女が気絶したのを視認すると、少年の脚はひとりでに四歩ほどふらふらと後退してしまう。そして、糸が切れたように膝からその場にくずおれた。


 うつむく露口に何と声を掛けていいのか解らず、撃鉄はプリーツスカートのポケットを漁る。取り出したるはお馴染みの結束バンド。屈み込み、女が目を覚まさぬ内に手首を括り、両足も拘束してしまう。

 立ち上がりながら、もう一度ポケットに手を突っ込んだ。携帯端末を取り出し、現在地の地図上座標を取得。素早く操作し、くるるへとそれを送りつけた。


 三日前、くるるには予め「廃ビル街を張っていてくれ」とは頼んだものの、詳細な位置情報は伝えていなかった。予言でも、決戦の舞台情報は仕入れていない。

 前情報として手に入れ、徹底的に頭に叩き込んでいた情報は、襲撃の傾向と対策。それから、自分が死んだり重傷を負ったりしてしまう可能性の徹底回避。すなわち、或る種の生存戦略に絞っていたため、魔女と対峙しても、最終的に撃鉄が健在であることは担保されていたのだ。

 そのため、現地でドンパチ始まった際くるるに気付いて貰うか、決着が付いた後に連絡しようと悠長に構えていた。ただし、派手に割れる硝子製のものがなかった所為かナイフとギターではそこまで大きな物音にはならなかったし、自分達の声もきっと猥雑な街の音に紛れてしまったに違いない。

 加えて、昨今の警察組織にいて業務内容や多様化するニーズに対して人員不足が囁かれていることもあり、くるるも潤沢な人数で以て廃ビル街の警戒に当っているわけではないだろう、と撃鉄は思う。偶然この建物の真下にでも居合わせない限り、くるるが即時に駆けつけるのは不可能。


 魔女という目下の危機は去った。くるる達――警察が到着するまでの間に何かしらの危険が訪れたとて、本日の生存が保証されている自分一人で対処できる筈である。

 携帯端末をポケットにしまい、肺の中の空気を勢いよく押し出す。そして、体ごとくるりと後ろを向いて、


「露口君」


 静かな呼びかけに反応し、少年はゆるゆるおとがいを上げた。若干呆然としており、かつ憔悴こそしているが、あれ程漲らせていた怨嗟や怒気は抜けている。その面差しは大人しく気弱そうな、よく知る少年のそれであった。


「立てるか?」


「はい。なんとか」


 告げて、少年は右膝を立てる。力を入れるが、普段のようにすっくとは立ち上がれない。緩慢となってしまったが左足も同様にし、どうにか膝を伸ばしきり両足の裏で地面を踏みしめた。

 ちらと老女の様子を伺えば、相変わらず気絶していた。女はいつかの少年少女のように結束バンドで手足を縛り上げられている。それから、恐る恐る撃鉄の方を見た。「ん?」とでも言いたげな少女の表情からは、可憐な顔のつくりにそぐわぬ少年じみた活発さがいつものように覗いている。

 彼女に対しての謝罪や言い訳がましい言葉の数々が頭の中で入り乱れ、何を言っていいのか解らず無様に口を開けては閉じて押し黙るのを繰り返してしまう。


 すると、撃鉄が芝居がかった仕草で「悪い魔女は力を失い、退治されましたとさ。めでたしめでたし」と両腕を広げた。それから露口の方を指さして、


「っつーわけで、晴れてアンタは自由の身だ。その身を縛るものは何もねーよ」


「じゃあ、ぼくは……ぼくは、これからどうすれば良いんですか」


 これから、己は一体どうすれば良いのだろう。魔女からは解放されたが、唯一の希望たる姉はこの世におらず、良くも悪くも魔女に庇護されていた自分は居場所を失ってしまった。


 これから一体、どう生きれば。


 絞り上げるような少年の声。撃鉄は「さあな。知らねえよ」とだけ返答した。


 突き放すような科白せりふに、露口はぐっと喉を詰まらせる。期待していたわけではない。しかし、道を示す言葉や、慰めの言葉を己は無自覚に望んでいたらしい。それを暴かれてしまったようで、惨めで消えてしまいたい心地になった。


「つうか、これで依頼案件は終了なワケだけど、アンタには料金払って貰わねえとなー? 元々の依頼内容に加えて、人探し、それから戦闘が一回。《要塞》の一件はタダにしてやるけど、結構な料金になるぜ。払えるだけの金があるなら三日以内に。それが無理なら、早く働き口見つけて払ってくれよな?」


 撃鉄が「ざっと金額を見積もると」以降に続けた声が、どんどんぼやけていく。最早、露口の鼓膜に届いているかなど定かでなく、はっきりと聞こえない。“現状”を受け入れることに精一杯で、急に少女が叩き付けてきた“現実”に思考と聴覚が追いつかない。

 無意識に期待していた優しさとは程遠い内容が、少女の愛らしい桜色の唇から今も紡がれているのだろう。音は聞こえずとも、きっとそうに違いない。


「……ぼくには、もう何もありません」


 辛うじて、震えた声を絞り出す。込み上げる喪失感と悲壮感の所為だろうか、喉は狭まって「何も残されていないし、持ってもいません」という科白せりふは胸元でつっかえてしまい、掠れた呻き声に似たよく解らない音の形しか成さなかった。

 情けないことに瞳には涙の被膜が張り始め、視界がじわり滲んできた。ひたすらに恥ずかしく、唯々居た堪れない。まなじりから落涙してしまわぬよう、彼は顔を俯かせ、瞬目せぬよう努めた。


 しかし、そんな浅い偽装で撃鉄の目は欺けない。彼女は己にしか感知できない程度の小ささで舌打ちする。それから、がしがしと頭を掻きつつ溜息を吐いて、「そうそう」と先程よりやや声量を上げて話を切り出す。少年の注意と意識をこちらに向けるための一声は、彼女の狙い通りに機能した。露口の困惑気味な視線が撃鉄へと向けられている。


「そういえば、さ。うちの給湯室って、事務室から遠いんだよな」


 そうのたまう撃鉄を見る栗色の瞳は、白目の部分がやや充血し、いたわしい程に潤みをたたえている。

 その双眸を、少女は己の真に紅き二つの目で見返す。不必要な同情がこもらぬよう、変に威圧感を与えぬよう留意しつつ――いつものように、不敵な微笑で以て。


「来客用の茶ァ用意したり、自分が飲み物飲みたいときに大変なのなんの。面倒臭えにも程があんだよな」


 少女は「だから」と一呼吸置いて、


「お茶汲み要員、絶賛募集中なんだけど誰かいい奴いねえかなー?」


 そしてにやにやと、少年を見つめた。


 少女の発言の意味が一瞬理解できず、露口は目を丸くする。「ええと」と呟く彼に向けて、少女は腰に手を当てて悪戯っぽく笑う。にかっと晴れやかなその笑みは、燦々とした太陽の下で咲く向日葵を想起させた。晴れやかで、あたたかに、居場所をなくした少年自身のことすら受け入れてくれるような。

 そうして漸く、彼は沙田撃鉄が言わんとすることを悟る。要するに彼女は、「自分の所に来い」と言っているのだと。

 露口は金魚のように数度口を動かしてから、半ば譫言うわごとのように問う。


「いいんですか」


おうよ」


「本当に?」


「アンタさえ構わないなら。もし住むところがないって言うんなら、たっくんの病院と僕の事務所が入ってる建物の一番上の階、居住専用の空間になってたと思うから自由に使ってくれ。もしかしたら、あんまり良い場所じゃないかもしれないけどさ」


 何でもないことのように、撃鉄は相槌を打ち、提案をしてみせる。


 ただの依頼人でしかない人間に、彼女は何故そこまで親切にしてくれるのだろう。それを試したい気持ちと、自責の念に駆られるがままに「でも」と露口少年は言葉を継いだ。


「ぼくは……ッ、ぼくは、沙田さんを騙して裏切ったのに?」


 やれやれ、と肩を竦めて撃鉄は彼から視線を逸らした。それから、肩を下げると同時に盛大に溜息を吐いて、再び少年を見遣る。


「たったひとりの家族のために、だろ? 出会って数日の僕なら、どうなったって喪ったって、一時の感傷で済むだろ。けどな、家族は替えが利かない。僕がアンタなら、きっと同じ事をするだろうさ。僕も、もう家族を喪いたくないからな。だから、僕はアンタのやったことを責めないし心の底から同意と理解をしている」


「嘘だ、そんな」


「心外だな。本当だぜ?」


「沙田さんは……本当に凄い人ですね。こんなぼくを、ゆるしてくれるなんて」


「赦すまでもなく、恨んですらいねーよ。単純に、アンタの気持ちが解るだけだ」


 告げて、撃鉄はどことなくシニカルに笑う。


「ま、アンタにとっちゃ大きなお世話、過ぎた『共感』だろうけどな」


 美しくも皮肉な笑みに若干の苦さが混ざったのが、露口にも解った。


 少年の手によって、少女は魔女に売られかけた。然れど彼女は、露口に罵声を浴びせるでもなく、恨み言を叩き付けるわけでも、悲嘆に暮れるでもなく。事実を知っても尚、沙田撃鉄という少女は彼に普段と変わらぬ笑顔を向け、あまつさえ救いの手を差し伸べてみせる。


 少年は、頭では解っていた。ただ頷きさえすれば良いということを。だが果たして、卑劣な己がこのあたたかな救いに縋ることが赦されるのだろうか。少女の寛大さに甘えて、彼女に対する罪の意識などないように振る舞うことが、正統な行いと呼べるのだろうか。


「で? 来るの? 来ねーの? どうすんだよ」


 半目になった石榴色のまなこが、じとーっと少年を見つめる。それは大きな決断をせねばならぬ者を見つめる視線というよりは、店でどちらの商品を買うか長時間迷っている友人を見つめるような気軽さだった。


「――っふ、ふふ」


 少女の様子がなんだかおかしくて、露口はつい噴き出してしまう。彼女の自然体で、自由で、大らかな態度を見ていると、先程からぐだぐだと悩んでいる己が馬鹿らしく感ぜられた。「おい何だよ?」と若干いぶかるように目をすがめた撃鉄に対し、少年は失笑の尾を少々引き摺りながらも「すみません」と謝罪の句を述べて、


「ぼくでよければ……お茶、煎れさせて下さい」


 ぺこりと頭を下げながら、露口少年は思う。何をすれば、どう誠意を見せれば、撃鉄に対する罪滅ぼしとなるのかまるで解らない。けれども、現在の彼女の望みを受け入れ、叶えることこそが、きっとその一歩になると感じたのだ。


 あがないの最適解など見えやしないがそれで良い。「生きていればそれで自分の勝ちだ」という言葉を胸裡に抱きつつ、これから彼女の近くで自分なりに探るべきなのだ。そしていつか、贖罪を果たそう。それが姉や両親に対する弔いにもなると信じて。仮令たとえ、魔女が言ったように姉との血縁関係はなくとも、それでも自分たち四人は家族だった。


 腰を起こすと同時に、先刻まで心に垂れ込めていた雲が晴れてゆく。そんな心地がした。


 少年の吹っ切れた表情に、撃鉄は「ぼかァ紅茶にはうるさいぜ?」と告げながらセーラー服の襟元へと手を遣る。慣れた手つきで若草色のスカーフを解き、少年の方へと差し出しながらにやりと、


「沙田撃鉄。偽名だ。アンタの雇い主で十七歳。よろしく」


 いつのまにやら空は茜色に変わっており、天から差し込む夕日が二人を照らす。


 陽光の眩しさに目が刺激されたのか、それとも込み上げる様々な感情の所為なのか、細めた栗色の目にとらう世界が滲む。

 だがそれをいとうことなく、露口は精一杯の、しかし心からの笑顔で少女に返答した。


「露口とりで。同じく十七歳です。これから、よろしくお願いします」


 きっと彼は。この落日の鮮やかなだいだいに染め上げられた、少女の髪の煌めきや、柔らかな笑みを忘れることはないだろう。

 徐々に近づいてきたサイレンが響く中、少年――露口砦は、握手代わりにスカーフの端を握ったのだった。

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