第25話 彼の誤算と彼女の涙6

 先ほどとは違って、リサの体がすっぽりとイオニスの腕の中に閉じ込められる。

 再び心臓が大きく跳ね上がった。自分の脈拍がやけに耳について、どうしてか何も考えられなくなりそうだ。

 すがりたいからなんだろうけれど、こうほいほいと女性に抱き着くなんて、やっぱりイオニスは精神的に追い込まれているんじゃないだろうか。


「イオニ……ス?」


 そして今の言葉はどういう意味なのか、尋ねたい気持ちがわき上がる。

 嘘をついていないから、そんな事をする必要なんてないという意味なのか。それとも……今こうして抱きしめているように、リサの事を大事に思ってくれるからそんなことはできないという意味なのか。


 リサは思わず願ってしまいそうになった。

 後者の意味であってほしいと。


「リサ」


 イオニスが囁きかけてくる。

 いつもより、甘やかに響くイオニスの声。

 彼が何かを言おうとしたその時、階段を下りてくる靴音が聞こえてきた。

 弾かれたように二人は離れる。


「もう今日は来ないと思ったんだが……」

「わ、私一度隠れるっ」


 急いで地下道に戻ろうとしたリサだったが、


「君だけ戻っても外した煉瓦を戻せない。物音に気付かれる。このままにしても、散らばった煉瓦でタペストリの向こうに穴があることはすぐばれるだろう。それより何か武器になりそうなものは?」

「武器……」


 正直、リサは何も持っていないわけではない。

 けれどユシアンが持っていた火薬みたいなものはないのだ。

 でも壁をえぐる遺物を人に適用した状況を想像し、思わずリサは吐き気を感じる。いくらなんでも、それはダメだ。


 リサの様子から「無い」と察したのだろう。

 イオニスはリサを地下道の方へ戻し、ヒヨコの光を隠しておくように言う。それから彼が銀の燭台を手に持った所ではっとリサは思い出す。


「こ、これ!」


 ポケットに突っ込んだヒヨコから漏れる明かりで、その鉱物製の筒を取り出した。


「解呪」


 一言唱えると、筒から隠された刃が伸びる。リサの腕の長さほどの剣に変わったそれをイオニスが受け取った。

 そして彼は燭台の火を吹き消した。暗闇の中を、足音が移動していくのがわかる。


 彼が退くと穴を隠すためのタペストリが影のように二人の間を隔てる。リサはそれに不安を覚え、端を少しめくって中を覗いた。

 階段を下りる足音が刻一刻と近づいてくる。靴音は二人分だ。


「おう? 蝋燭がもたなかったか。王子様はさぞ怯えてんだろうよ」


 粗野な口調の男の声と、ささやかな明かりが扉の向こうから漏れてくる。

 次いで鍵を開ける音に、リサは唾を飲み込んだ。


「王子殿下、お茶の時間……」


 入ってきたのは角刈り頭の衛兵らしき男だった。けれど下っ端なのだろう。言動だけではなく、その動作も下町の人間と似たような雰囲気を感じさせた。

 中年男は真っ暗な室内を、手に持った油のランプを掲げて照らす。

 そして最初に行動したのは、イオニスではなかった。


「うわちっ!」


 背後からティーポットをぶちまけられた男が、叫び声を上げる。

 誰がやったのか? リサの脳裏に疑問が浮かぶと同時に、男は横から殴りかかったイオニスによって、昏倒した。イオニスがすかさず倒れていく男の手から、ランプを奪う。

 そして次にイオニスの剣先が向かった相手を見て、リサは叫んだ。


「マユリさん!?」


 イオニスが驚いて振り下ろそうとした腕を止める。

 今にも剣で斬られかけていた女性もまた、驚愕の表情を浮かべて穴から這い出たリサを見る。


「リサちゃん?」


 ランプの明かりに照らされた淡い栗色の髪。紫に近い青の瞳が戸惑うように揺れている。

 王宮の、しかも幽閉された王子がいる場所で、リサと会うとは思って居なかったのだろう。


 そのマユリは、盆ごと投げつけたティーポットやカップの代わりにナイフを握っていた。昨日、リサが解呪で一時的に刃を失わせたナイフだ。


「リサ、お前の知り合いか?」


 攻撃の手は止めたものの、今だ剣を構えたままのイオニスを見て、マユリは脱力したように手からナイフを落とした。

 イオニスがいぶかしげな表情で、床に落ちたナイフを見る。


「そうなの。貴方がこの方を助けてくれるのね、リサちゃん……」


 マユリの言葉にリサは悟った。新月の今日。見張り番らしい男の背後からティーポットを投げつけた行動、そしてナイフ。


「マユリさん。まさかイオニスを助けようとしていたの?」


 なぜ彼女が……とリサは戸惑う。

 確かに彼女は優しい人だ。だからイオニスを助けようと思い立っても、おかしくはないと思う。


 けれどイオニスの幽閉先に来たということは、王妃の下で働いているということではないのだろうか。

 それなのにイオニスを助けたら、マユリだけではなくユシアン達にも類が及んでしまう。なのに、そんな行動をするものだろうか?


「明日では、手遅れになってしまうから」


 マユリがイオニスに丁寧な言葉で告げた。


「お持ちしたお茶に、毒薬を混ぜるよう妃殿下に仰せつかってきました」


 リサは思わず絨毯の濡れた部分を見てしまう。


「もう限界です。だからお逃がししようと思いましたが、わたしでは殿下を王宮から見つからずに逃がすのは難しい。けれどリサ。あなたは地下から侵入したのでしょう?」


 リサはうなずいた。


「そちらからの方が、発見される危険が少ないわ。誰かが私達が戻ってこないと不審がる前に、急いで」


 急かされて、リサはとりあえずイオニスを先に地下道に押しやった。そうしながらリサは疑問を口にした。


「マユリさん、どうして……」


 なぜイオニスを助けようとしたのか。

 赤色の鍵とイオニスの取引を知らないリサは、マユリの行動が理解できなかった。

 マユリはいつものように、リサの頭を撫でてくれる。


「殿下に赤色の鍵が接触している話は聞いている?」

「……あ!」


 思わず声を上げてしまったリサに、マユリは優しく微笑む。


「ごめんなさいね黙っていて。私がその一員だったの」

「え、そうしたら赤色の鍵ってまさか」


 地下探索をしているのだから、貧民街の関係者だとは思っていたけれど。まさか。

 更に尋ねようとするリサの背を、マユリが押す。


「また会った時に全て説明するから、早く」

「リサ、話は後だ」


 イオニスにも急かされて、リサは疑問をとりあえず置き去りにして自分も地下道へ入る。


「あ、マユリさん明かり!」


 マユリがランプ一つ持っていないことに気づいて振り返ると、彼女に苦笑された。


「ランプは無い方がいいでしょう。明かりを奪われて、知らせるのに時間がかかったと言い訳がしやすくなるから」


 再度急かされて、リサは地下道へ入る。

 タペストリーがリサとマユリの間を隔てる。厚い布の向こう側から、マユリのささやきが届いた。


「どうか、その方を守って……」

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