第32話 彼の真実と彼女の決意6

 ゆらゆらと、水の中で揺られているような感覚にリサは満たされていた。

 波間からあぶくが浮いてくるように、人の声が耳に届いては消える。


「では、殿下が悪魔を?」

「王家の血は継いでいないけれど、試してみると……」


 言葉の途中で別な揺れに襲われる。曖昧なリサの世界も上下に揺すられた。

 ほんの少し、心地よい眠りの縁から覚まさせられるような不快感をおぼえる。


「……わかった、では行こうユシアン。モーリッツ、リサを受け取ってやれ」


 背中を支えていた腕がもぞもぞと動く。

 それと同時に胸の上で小さな生き物が跳ねている感覚が伝わる。さえずり声を知ってる。これは……。


「キケル?」


 目を開けると、最初に映ったのは緑の木々だ。せせらぎの音に、川の側だとわかる。

 それからお腹の上で自分を見上げてくる小さなヒヨコを見つけた。すがるようなキケルの眼差しにリサは首をかしげそうになる。

 なんでそんな目をしているのだろう。


「目が覚めたのか、リサ」


 額の近くで発された声に顔を上げると、そこにユシアンの顔があった。どうもリサは彼に横抱きにされているようだ。安堵したような表情に、リサはどうしてそんな顔をするんだろうと考え……直前のことを思い出す。


 イオニスに慈悲を乞われ、口づけされた。

 私も王妃も王でさえ遠い場所へ始末してくるという、ひどく不吉な言葉を聞いた後、リサは気を失ったのだ。


 イオニスは一体何をしようとしているんだろう。

 リサを置いていくのは、危険なことをしようとしてるからではないのか。でもそれが何なのか分からない。


 でも今、更に不吉な言葉を聞いた気がする。

 殿下がとか、悪魔とか、それを抑えるとか。


「この馬鹿」


 ぼんやりとしていたリサは、ユシアンに優しく叱られて再び彼を見る。


「なんで言うことを聞かなかったんだ。あれほど王子に係わるなって言ったのに」

「え? どうしてそれを……」


 その時、再び振動に襲われる。

 思わずユシアンにしがみついたリサは、飛び上がって大騒ぎするキケルの視線の先を追い、言葉を失った。


(あれは何?)


 たった一言すらも喉の奥で詰まったように出てこない。


 それは『虫』のようだった。

 巨大な複眼の上には角のような突起がある。下には唇の薄い人間のような口と、奥から覗く蛇のような舌が覗いている。これが頭だろう。

 暁の光の中、黒光りする体は節のある甲虫のようだ。脇から無数に伸びた足は百足のようで、体にも足にも鉛色をした茨のような物が絡みついている。棘が足に刺さっているのか、あちこちから緑色をした血が流れていた。


 虫が足を大きく蠢かせる。柔らかく伸びた鉛の枷がちぎれ、緑の血が吹き上がる。その事を嘆くように大地が揺れて鳴動した。

 ユシアンが揺れに耐えるため、リサを抱えたまま地面に膝をつく。

 意識を失う前に驚いた揺れは、あの怪物が枷を解き放っていく音と振動だったのだ。


 しかしそれだけだと思ったのは、リサの勘違いだった。


「いかん、伏せろ!」


 クリストの叫びに、なぜ彼がここにいるのかと疑問を持たなかったわけではない。それよりもリサは、虫が口を開いた奥、そこに熾火のように揺れる赤い光に意識を奪われた。


 虫が石の彫像のように固そうな翼を広げ、振るわせる。

 リーーーーン、と鈴を振る可憐な音と共に口中の炎が大きく広がり、空を焼いた。


「わっ!」


 間抜けな叫び声と共に、リサの体はユシアンに押し倒される。

 空どころか、近くの木の上までも炎が丹念に舐めて駆け抜けた。一瞬後には、周囲の木々はその頂から燃えはじめていた。


 人家が近い所なのだろうか。

 燃えさかる木々の向こうから、悲鳴が聞こえた気がする。


「なんで……」

「あれが、古王国を滅ぼした悪魔だ」


 呟くリサに答えたのはユシアンだ。


「復讐者の名を与えられた悪魔は、古王国の王が施した封印から解放されて、王都を破壊しようとしてる」

「だ、誰がそんなものを解放したの!?」

「イオニス王子は、王妃だと言っていた。自分が王妃の子供ではないということを、王妃が都を破壊して隠蔽したいのだろうと」


 口を引き結んだリサに、ユシアンは苦笑う。


「君はそのことを、知ってたんだねリサ」


 そしてユシアンはリサを地面に座らせ、自分は立ち上がる。


「リサは王都からなるべく離れて。イオニス王子からの伝言だ」

「え? 伝言って……」


 いつユシアンがイオニスと会ったのだろう。そう問えば、彼は哀しそうな表情をする。


「リサ、僕と約束したのに王子に会いに行ったんだね」

「それはその」


 確かに危ないから行くなとは言われた。けれどリサはイオニスに会う必要があった。今でもそれを後悔していない。イオニスを助けることができたのだから。


 でもそのイオニスは……。

 リサは自分の手で、思わず唇に触れそうになる。ユシアンが見ていることを意識して、それはこらえた。


 どうしてイオニスは、リサに口づけなんかして気絶させたのか。それを思うと、恥ずかしいという気持ちより、不安で落ち着かない。

 だってイオニスがしたことは、もう二度と会えない相手にするような行動ではないだろうか。


「僕は、君が大人しくしているか気になって、家まで様子を見に行ったんだ。居ないのを知って、王子と一緒に王宮へ行ったんだと思って探して……隠し通路で君と王子を見つけた」


 では、リサが気を失った後にユシアンがやってきたのか。


「じゃあ、イオニスはどこに?」


 リサを置いてどこへ行ったのかと尋ねると、ユシアンは答えずにどこかへ行ってしまおうとした。


「僕は先に行きます」


 言われたクリストは少々戸惑ったものの、リサに近寄って頭を撫でて言った。


「あの怪物は私達がなんとかしてくる。だから早く逃げるんだよ」


 クリストも素早くユシアンの後を追った。

 置いて行かれたリサは、もう一人の頬のこけた男に手をさしのべられ、立ち上がりながら彼の外套を見た。

 いつか地下迷宮で見た赤い外套。


「赤色の鍵……」

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