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久しぶりに降り立った「扇子台」駅には、海から来る生暖かい風が吹いていた。自宅までは、昔ながらの薬局やパン屋が立ち並ぶ商店街を通り抜けて、徒歩で一五分ほどの道のりである。
実家に着いた理子は、二階の自室に荷物を置いた。机の横の本棚には、高校時代に読んだ哲学の入門書や、子どものころ愛読していたお化けの絵本『ドロロンちゃん』がそのまま置かれている。定期的に帰省をしているが、高校までを過ごした部屋に戻るとそのつど懐かしい思いがする。
一階のリビングに戻ると、理子は早速キタローと対面した。対面といっても、キタローのほうはいつものようにソファーの定位置で寝ていただけだったが。
「ちょっとちょっと、キタさん」
理子が馴れ馴れしく話しかけながら、丸くなったキタローの首のうしろから尻尾の付け根にかけて、手を背骨に沿わせるようにして繰り返しなでる。キタローは「んぐ」と声にならない声を出して目を開けると、ぐぐぐっと前脚を伸ばして、面倒くさそうな顔で理子をにらんだ。
「なんか変なんだって。キタにゃん」
理子は遠慮なしにキタローをごいごいとなで続けている。キタローは舌を出して鼻の頭をペロペロしたあと、「こりゃだめだ」と言わんばかりに、前脚を枕にしてまた目を閉じた。
「どう、キタロー?」
母の良子が冷たい麦茶をグラスに入れて、リビングに持ってきてくれた。
「どうって言われても……なにが違うんだろ?」
「久しぶりだとわかんないのかな」
「かなあ。普通にかわいいけどね」
言いながら理子はまだキタローをなでている。完全に諦めモードで服従していたキタローだが、あまりにしつこい理子の愛撫にさすがに嫌気がさしたのか、背中で弧を描くように大きく伸びをしてから、すとんとソファーを降りてどこかへ行ってしまった。
「あーあ、嫌われちゃった」
良子が意地悪そうに言う。
「大丈夫だよ。長い付き合いだもん」
「じゃあわかってもよさそうなのに。なんか元気ない感じしない?」
「うーん……毎日見てるお母さんが言うなら、そうなのかなあ」
理子は首をかしげながら麦茶を口に含んだ。香ばしい水分が渇いた喉を潤す。窓の外はきれいに晴れていて、爽やかな風が庭の植木の葉を揺すっていた。
ほんの一瞬だった。黒い塊が外をすうっと歩くのが見えたような気がしたのだ。
「ん?」
キタローはいつのまにか戻ってきていて、すたすたとリビングの隅を歩いている。
(……いま庭にキタローがいるように見えたけど……気のせいかな)
ある可能性に理性を刺激された理子は、キッチンで昼食の準備を始めていた良子の背中に向かって大きく声をかけた。
「お母さん……この辺にさあ、ほかにも黒猫いる?」
「え? ほかに黒猫? いないわよ」
良子はお昼のうどんの薬味になるネギを刻む手を止めて、理子のほうを振り向いた。なにおかしなことを、と明らかに怪訝な顔をしている。
「そうだよね……いたら話題にしてるもんね。気のせいかなあ……」
「変なこと言わないでよ」
良子がふたたびネギの刻み作業に戻る。
「でもお母さんが知らないだけかもよ。近所に別の黒猫がいたりして」
良子は理子に背を向けたままザクザクと包丁を動かし続けている。
「ねえ、お母さん」
「なに」
「キタローだと思ってて、実は別の猫だったりして。ほかの黒猫とすり替わってるの」
「そんな馬鹿なことないでしょ」
「違う感じがするって言ってたじゃん。違う猫なら違ってて当然じゃん」
良子の返事はない。さきほどのキタローと同じく、諦めの境地に入ったようだった。
「お母さん」
「なに、しつこいわね」
良子が右手に包丁を掴んだまま振り返って、責めるような目を理子に向ける。
「そんなにネギ要らなくない?」
まな板の上では、二人前のうどんの薬味には多すぎる量のネギが輪切りにされていた。
うどんをずるりと平らげて食休みをしている理子には見向きもせず、キタローがのしのしとリビングを歩いている。窓ごしに庭をぼーっと眺めていると、また黒い影がちらついて見えた気がした。
「んん?」
食後で億劫だったが、理子はよいしょと立ち上がって窓のそばに寄ってみた。近視の目を凝らして見ると、いま黒い影が通り過ぎたあたりに、小さな長方形の物体が光っているように見えた。
「あれ、なんだろ? ねえ、お母さん」
「ん?」
良子はダイニングテーブルに朝刊を広げて、クロスワードパズルを解いている。
「なにあれ? もしかして……鏡?」
「そうそう。車出すときにさあ、表の道が見えづらいでしょ。自転車ほんと危ないのよ」
東雲家に面した道路は狭く、塀もあるせいで左右の交通がよく見えない。猛烈なスピードを出して走る自転車や、逆に道の端をスローペースで歩くお年寄りなど、良子は車で外出する際に何度も冷や汗をかく思いをしていた。
「昨日届いたからさ、今朝とりあえずつけてみたんだけど。どうかな?」
「どうかなって……家のなかの猫を映してどうすんのよ!」
「えっ、そうなの? じゃあ角度がおかしいんだ。あとで買い物行くから、運転席から見て調整しようと思ってたのよ。さっそく直さないと」
「もう、紛らわしいことしないでよ……」
理子はすっかり気が抜けて、ソファーにどすんと座りこんだ。キタローは窓際で姿勢を正し、静かに外の景色を眺めている。猫の一番高貴な姿だ、と理子はほれぼれとキタローの横顔にみとれた。
(……別の猫だってのは理屈としては成り立つんだけどな……いくらキタローがかわいくても、見た目がまったく同じ黒猫がいないとは限らないし……)
理子が十匹くらいの黒猫と公園の砂場で一緒に遊んでいるさまを想像してニヤニヤしていると、スマートフォンが鳴った。画面を見て理子が目を大きく見開く。そこには「大道寺哲」という名前が表示されていたのだ。
必要が生じたときのために連絡先は伝えてあるが、ふつう文系の大学院の指導教員と学生が電話で連絡を取ることはない。もちろん大道寺からの電話もはじめてである。
理子はゆっくり息を吸ってから、心なしか丁寧に「応答」のボタンを押した。
「もしもし、東雲さんですか。大道寺です。お休みのところすみません。いま大丈夫ですか?」
「あ、はい、大丈夫です」
「月曜日に面談のお約束をしていたんですが、急な会議が入ってしまいまして……申し訳ないんですが、別の日に延期してもらえないでしょうか」
「あ、そうなんですか……わかりました……」
つい落胆した口調になってしまった。思った以上に大道寺との面談を楽しみにしていたことに気づいて、理子は我が事ながら驚いた。
(……美優ちゃんがお父さんと勉強の話するって聞いて、私、ちょっと羨ましかったのかな……)
「申し訳ありません……昨日突然言われたんですが、昨夜は用事があってご連絡でき……」
電話の向こうがザワザワしていて、大道寺の声が聞き取りづらくなった。
「もしもし、先生? すみません、ちょっと聞こえなくて」
「……あ、もしもし、これで聞こえますか。今日明日と、学会で
「大浜山大学にいらっしゃるんですか!?」
理子が声を上げて驚く。
「はい、
「先生……じゃあ、お帰りは扇子台駅からですか?」
「ええ、今日はこちらに泊まって、明日のお昼過ぎに帰ります」
理子が思い切って言う。
「あの……私、いま実家に帰ってきているんですが、実は扇子台駅のすぐ近くなんです」
「そうでしたか。それは偶然ですね」
「それで……ずうずうしいお願いなんですが、もしよろしければ、先生がお帰りになるまえに少し、駅前の喫茶店かどこかで面談していただけないでしょうか。できれば早く、研究の相談に乗っていただきたくて……クレールみたいに落ち着けるところはないですけど……」
「……そうですか……ええ、いいですよ。もとはと言えば約束を破ったのはこちらですし。帰り道ですから」
「ありがとうございます! えっと……じゃあ何時くらいに……」
いつのまにそばに来ていたのか、良子が理子の手元にメモ用紙を差し出す。横目で見ると、「うちに来てもらってもいいよ。先生お連れできるようなお店ないでしょ」と書いてあった。さすがに躊躇したが、面談をするのに適当な店が思い当たらないのも事実だ。
「あ、先生……すみません、母が、えっと……せっかくなのでうちに寄っていただいたら、って言ってるんですが……」
「えっ。それはご迷惑かと思いますが……」
「いきなりで変ですよね……でも、こんな機会もめったにないですし」
どことなく理子は母に大道寺を自慢したい気分になっていた。捉えどころのない性格の大道寺だが、誰が見てもスマートな見た目をしている。大道寺が少し黙考する。
「……わかりました、じゃあお言葉に甘えて。午後三時には着けると思います」
大道寺は戸惑った様子を見せつつも、最終的には理子の提案を受け入れた。
「ありがとうございます! 三時に駅にお迎えに上がります」
「よろしくお願いします。それでは」
電話を切ると、理子はふう、と大きな深呼吸をして、ソファーの背にもたれかかった。キタローがわざとらしく理子の脚に身体をすりつけてから、尻尾を立てて部屋の隅に歩いていった。
(……大学院で家庭訪問なんて聞いたことないけど……部屋の片づけは……別にいいのか……)
「城大の先生が来るなんて緊張するわ……お茶菓子、買ってこなきゃ」
自分たちが言い出したにもかかわらず、突然決まった大道寺の来訪であたふたする東雲家をよそに、学会の会場に戻った大道寺には別の思惑があった。
大道寺の頭のなかには、かつてドイツのミュンヘンで出会った「シノノメ」という謎の哲学教師の姿が浮かんでいた。
(……ミュンヘンの「シノノメ」先生……東雲さんと関係があるのかどうか……お宅にお邪魔すればもしかしたら……)
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