第四講 バラは「なぜ」なしに咲く

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 六月のある木曜日の午後。東雲理子は喫茶店「クレール」の店内にいた。

 木曜日に理子が出席している授業は、四限に開講されている柳井教授の「精読演習」だけである。一般に大学院では授業の履修よりも論文の執筆が優先されるから、この四月に修士課程に入学したばかりの理子も、一週間の授業はそう多いわけではない。

 それだけ学生個人の高い自己管理能力が要求される、とも言える。

 理子は三限に授業のある火曜日の午前中と、四限から授業の木曜日のお昼過ぎに「クレール」で勉強することにしている。最初はコーヒー一杯で二時間も粘っていいのかと悩んだものの、すぐ近くにシアトル系のカフェがあるせいか「クレール」が満席になることはめったになく、もちろん退店を急かされることもない。

 いまでは毎週二回、決まった曜日と時間に、サイフォンがたえずコポコポと音を立てるこの店で勉強するのが理子の楽しみになっていた。


「理子ちゃん、ちょっといいかな」


 理子は授業のテクストであるヘーゲルの『精神現象学』のコピーから顔を上げた。声の主は「クレール」のマスター・小山内である。

 四月から週二回通っていて、なかば常連である理子は、しばしば小山内とも軽い会話を楽しむようになっている。もっとも、理子はいつも勉強をしているから、小山内も気をつかって、注文や給仕のとき以外には積極的に話しかけてくることはない。


「勉強してるところ悪いんだけど」


 テーブルに近づいてきた小山内が、遠慮がちに言った。


「いえ、大体終わったので大丈夫です」


「あ、そう。よかった。実はちょっと相談、ていうか、話を聞いてもらいたいんだよね」


「なんでしょう。私でよければ……」


「田中さん、いるじゃない。いつもカウンターに座ってた」


「はい。田中さん、どうかしたんですか?」


「……それがさ、突然、来なくなっちゃったんだよ」


 小山内の言葉に、理子が顔を曇らせた。理子も田中とは何度か言葉を交わしたことがある。中折れ帽がトレードマークの常連客だ。

 理子は、旅行会社に勤めている友人の綾音を「クレール」に連れてきた日に、田中に軽口を叩いて海外旅行を勧めたことを思い出した。


「突然、ですか……そう言えば最近お見かけしてなかった気が……ご病気とかじゃなければいいですけど。田中さんって、おいくつなんですか?」


「定年退職して一年くらいかなあ。いや、元気は元気なんだ」


「?」


「うちには来なくなったんだけど、このあいだ外で見かけたんだ。ピンピンしてた」

 小山内は少しだけ肩をすくめるような仕草を見せた。


「いやね、もちろん、お客さんの自由だからさ。別に来なくなったっていいんだけど。ずっと来てたひとが急に来なくなったら、どうしたのかなって思うよね」


「それはそうですよ。私だっていつも買ってるヨーグルトが急にスーパーからなくなったら困りますもん」


 理子はたとえが微妙にずれていると途中で気づいたものの、引き返すことができずに最後まで言い終えてしまった。


「それそれ、本当にそうなんだよ」


 たとえの微妙さは小山内にはまったく関係なかったようで、理子は安堵した。文章であれ会話であれ、日常的に哲学の言葉づかいに触れている理子は、言葉の細かい区別に敏感になっているのだ。


「……えっと、いずれにしても、理由が知りたい、ってことでしょうか。別に来なくなったことを責めるとかじゃなくて」


「そうそう、そういうこと。どうしたんだと思う?」


 うーん、と理子は腕を組んだ。「どうしたんだと思う?」もなにも、理子も田中とは「クレール」で少し話をしていただけで、個人的なことはなにひとつ知らないのだ。


「さっき、ずっと来てたっておっしゃいましたよね」


「そう、一年くらいまえからかな。いつも火曜日の朝に来てたんだ」


「私がお会いするのも火曜日でした。ほかの曜日にはいらっしゃらなかったんですか?」


「うん。それで一時間とか一時間半くらい。お昼まえには帰ってたよ」


「最後にいらした日、なにか変わった様子はなかったでしたっけ?」


「その日が最後になるなんて思ってないからさ、あんまり覚えてないんだけど。覚えてないってことは、特に変わったところはなかったんだろうね」


「そうですよね、私も……たぶんゴールデンウィークのあとに友だちと来たときが最後だと思うんですが」


 うーん、と小山内も無意識に理子をまねて腕を組んだ。人懐っこいおじさん顔のおでこには、深い皺が三本刻まれている。


「えっと……この話をどうして私に?」


 ひとが自分と同じ格好をしていると気になるもので、理子は腕組みをほどいてから尋ねた。


「いや、まあ、いまはおしゃべりできるような常連さんもそう多くないし。それに理子ちゃん、勉強家だから良い知恵が浮かぶかと思って。哲学だっけ?」


「……哲学は探偵業じゃありませんよ」


「ふふふ、そうかもしれないけどさ。いいじゃない、ちょっと考えを聞かせてよ。スペシャルティコーヒー、サービスするからさ」


「え、なんでもいいんですか? コピ・ルアックも?」


「……あ、ああ、うん、言っちゃったもんな。いいよ、いいよ」


 コピ・ルアックはジャコウネコの糞から取り出したコーヒー豆を用いて作る最高級コーヒーで、「クレール」では一杯千五百円で提供されている。「コピ」はインドネシア語でコーヒー、「ルアック」はジャコウネコの意味だ。ルアックは赤く熟したコーヒーの実を好んで食べる習性があり、果肉は消化されるものの、種子であるコーヒー豆は消化されずに排泄される。ルアックの腸内の消化酵素が、豆に独特のアロマを加えると言われている。


「わー、やったー。一度飲んでみたかったんですよね。がんばって理由考えます……て、もう行かなきゃ」


「そっか、これから授業だっけ」


「はい、来週また来ます。そのときに田中さんのこと、もっと教えてください」

 理子は会計を済ませて小山内に挨拶をしてから、足早に「クレール」をあとにした。


(……理子の理は、理由の理、だったっけ? ま、いっか)


 理子はジャストのタイミングで青信号に変わった横断歩道を、大学の東門めがけて走り抜けた。

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