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翌週火曜日の午前十時、理子はいつもよりワクワクした気持ちで喫茶店「クレール」を訪れた。店に突然来なくなった常連・田中の情報をマスターの小山内から仕入れるためである。
時間を有効活用するために、授業の予習はすでに済ませてある。
そもそも理子は「クレール」に勉強をしに来ていたわけだから、勉強しないのであれば本末転倒のはずである。だが、田中の謎に取り憑かれた理子の理性は、この自己矛盾に気づいていない。
「理子ちゃん、待ってたよ」
ニコニコした小山内が水をお盆に載せて、理子が好んで座る奥のテーブルにやってきた。この時間帯の「クレール」はいつも空いているが、運良く今日は理子のほかに誰も客がいない。
「待ち遠しかったです……あ、今日は『ピック』にしようかな」
「クレール」のブレンドコーヒーには、「カロー」「クール」「ピック」「トレフル」の四種類がある。それぞれ、トランプのスートのダイヤ・ハート・スペード・クローバーを意味するフランス語だ。
(スペードは「槍」だもんね……田中さんの謎を一刺しにせねば……)
「了解。ちょっと待ってて。あとで話しても大丈夫かな?」
「はい。今日はもう予習してきてますから」
鼻腔をくすぐる豆の芳醇な香りと、コポコポという陽気なサイフォンの音がしばし店内に広がったあと、小山内が理子のテーブルに「ピック・ブレンド」を運んできた。
淹れたての熱いコーヒーを理子が口に含むのを待ってから、小山内が本題に入る。
「……で、このあいだ話した田中さんのことなんだけど」
「はい、色々聞かせてください。来なくなった理由を考えるために」
「なにを教えればいいかな。このあいだも言ったけど、最後に来た日も特に変わった様子はなかったんだよね」
「最後にいらっしゃったのはいつでしたっけ? たしか連休のあとだから……」
「レジのジャーナルで調べておいた。五月一三日。それまでは毎週火曜日に一年くらい、ずっと来てくれてたんだ」
レジの「ジャーナル」とは客に渡すレシートの控えのようなもので、レシートと同じくロール用紙に続けて印字され、レジのなかに収められている。
「へー、あとから調べてわかるものなんですね」
「田中さんはいつも『裏メニュー』だったから」
「『裏メニュー』?」
小山内の説明によると、もともと「クレール」の四種類のブレンドコーヒーには、さらにそれぞれの浅煎りと深煎りの区別があり、合計八パターンで用意されていた。それが半年ほどまえ─小山内が面倒になったという理由で─すべて中煎りの焙煎具合に統一された。だが「ピック・ブレンド」の深煎りを愛飲していた田中の希望で、「裏メニュー」という形で渋味の強いブレンドを田中だけに提供していた、という。
「だから、田中さんはいつも『ピック・ドゥブル』。ほかに出してたお客さんいないから、すぐわかるのよ」
「私も次から『ピック・ドゥブル』にします」
「理子ちゃん、それは勘弁してよ」
そう言った小山内は軽く微笑んだが、割と本気の表情であった。
「じゃあ最後の日もいつもと同じコーヒーを飲んでたんですね。コーヒーの味が変わったとか」
「それはない。俺は人間としては不真面目だけど、コーヒーに関しては真面目だから。味が変わるようなことは絶対にない」
小山内は控えめに胸を張るような仕草を見せた。ただ美味しいものを出すのがプロなのではない。美味しいものをいつも同じ味で出すのがプロなのだ。無論コーヒーだから、年によって豆の出来が異なることはあるだろうが。
「そしたら……お店での様子は? マスターとしゃべったり?」
「いや、俺とは一言二言くらい。そうそう、これも思い出したんだけど、いつも雑誌を読んでたのよ。ほら、あれ」
小山内が指差した四段ほどのラックには、漫画雑誌や週刊誌が表紙を見せて陳列されている。
「たしか『アーベント』っていう漫画雑誌を読んでたはず」
「漫画雑誌ですか。ちょっと見てもいいですか」
理子はすっと席を立ち、雑誌のラックから『アーベント』の最新号を持ってきた。パラパラめくってみると、たしかに老年男性の読者がいても不思議ではない劇画調の絵柄が目に飛びこんでくる。
巻末の目次に目をとめたところで、理子の理性に十アンペアほどの電流が走った。
そこには「『アーベント』は毎週火曜日発売!」という文字がゴシック体で踊っていたのだ。
「……マスター、私、わかっちゃいました」
「え、なにが?」
「だから、これですよ、漫画」
「漫画がどうしたのよ」
「田中さんは毎週この雑誌を読みに来てたんですよ」
「雑誌を読むために? じゃあなんで来なくなったのよ」
もったいぶるつもりはなかったが、理子は深く息を吸ってから言った。
「……読んでた漫画の連載が終わったんです」
理子の推理を聞いた小山内は目をパチパチさせたあと、呆気にとられた顔で理子を見つめた。
「……理子ちゃん……そんな理由ってあるのかなあ。それじゃあ田中さん、うちに漫画読みに来てたってことじゃない。それだけのために」
「きっとそうなんですよ。マスターは認めたくないかもしれないけど」
実際、理子も勉強するために「クレール」に来るようになったのだ。コーヒーが美味しく店の雰囲気が好きなのは事実だし、マスターとの会話も楽しいけれど、授業前の勉強が必要なかったとしたら、少なくとも毎週欠かさず訪れることはないのではないか。
「わざわざ裏メニューまで出してたのに?」
「はい。だって必ずこの雑誌の発売日に来てたわけだし」
小山内は納得しがたいといった表情で腕を組んだ。客がどういう目的で店に来ようが、店側は最善のサービスを尽くすだけであり、そのことは小山内も重々承知している。だが、一年のあいだ毎週相手をしていた常連が突然姿を見せなくなり、少なからず心配もしていた小山内にとって、そもそもの来店目的が漫画雑誌を読むことだったと言われると、なんだか二重に裏切られたような気がしたのだ。
「でもさ、理子ちゃん。田中さんが来なくなった日に終わった漫画が本当にあるのかな」
「それは調べてみないとわかりませんが……ちょっと待ってください」
理子はテーブルに出してあったスマートフォンのブラウザを立ち上げ、検索を始めた。雑誌『アーベント』の公式サイトで、田中が最後に「クレール」にやってきた五月一三日の号を確認したうえで、「連載が終了した作品」の欄からその号で終了した作品がないかを探した。
「……あ、ほら、ありますよ……ん? ふたつある?」
念のため理子はその漫画のタイトルを検索エンジンに入力し、別の情報サイトも確認してみたが、やはりそのとおりだった。
五月一三日の号で連載が終了していたのは、幼少期から競馬界での将来を嘱望されてきた天才騎手の苦悩と活躍を描く「馬上の
「たぶん田中さんはどっちかの愛読者だったんですよ。で、ここに来れば毎週最新号が読める、と。しかも裏メニューつきで」
「そんなもんなのかなあ」
「やっぱりこっちの料理漫画のほうでしょうかね」
「うーん、どうなんだろう……そう言えば、田中さんと競馬の話、したことある気がするな」
カランカラン、とドアの鈴が鳴り、男性客が一人入ってきて、小山内が「いらっしゃい」と声をかけた。ふっと理子と小山内の心が、田中という共通の話題からそれぞれの事情へと離れた。時計を見ると一二時になっている。
「あ、じゃあ、そろそろ行きます」
「ああ、もう時間だね。ありがとう、理子ちゃん」
小山内は、田中が毎週読んでいたのが「馬上の騎手」だったのか「美食家さん」だったのかには、それほど興味がなさそうだった。
(考えても答えはわからないし、正解も確かめられないけど……)
また明後日までに考えてきますね、と小山内に声をかけて、理子は「クレール」をあとにした。
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