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三限の授業のあいだ、心なしか理子は上の空だった。料理漫画か、それとも競馬漫画か─田中は一体どちらを読んでいたのだろう。「美食家さん」は長く続いた人気漫画だった。「馬上の騎手」の知名度はそれほどでもなかったが、小山内の話によると田中は競馬に関心があったらしい。授業中も理子は集中力を欠いていて、つい田中が読んでいた漫画のことを考えてしまっていた。
夕方、理子は哲学専攻の共同研究室に一人残っていた。学生はもとより、助教の丸山ももう帰宅している。
(……あーあ、こんなことじゃいけないな……ちゃんと予習してたからよかったけど……)
理子はペットボトルのミルクティーを両手で包むように持ちながら、回転椅子に座ってグルグル回っていた。
「……料理……競馬……料理……競馬……料理……けい」
「ば」の音と同時に、ガチャとドアが開き、入ってきた人物と回転中の理子の目が合った。
「……あ…………先生……」
言いながら理子は急停止できずにまだ回り続けていた。
入ってきたのは哲学専攻の新任教員・大道寺である。十月から研究休暇を取る柳井教授にかわり、理子の指導教員になっている。
「お取りこみ中、すみません。丸山さんはもうお帰りですか」
「……はい、もう帰られました……」
「お取りこみ中」だった理子は、数秒後にようやく回転をやめ、恥ずかしさで頬を真っ赤に染めた。
(……なんで大道寺先生とは、いつもこういう出会い方になるのかな……)
「遅かったみたいですね。今度の講演会のことで話があったんですが……どうです、東雲さん、研究は順調ですか」
「……ええ、まあ……」
「歯切れが悪いですね。一応、これでも指導教員ですから、なにか悩みごとがあったら言ってくださいね」
「ありがとうございます……悩み、というほどではないんですが」
理子は失っていた冷静さを取り戻して言った。
「……先生はどっちだと思います?」
それから理子は喫茶店「クレール」の常連・田中の件を事細かに話した。はじめはドア付近で立ったまま聞いていた大道寺も、理子の話が長くなりそうと見るや、入室して理子の正面の椅子に腰を下ろした。
「クレールには僕もたまに行きますが、その常連さんは見覚えがありませんね」
「人気から言ったら、きっと料理漫画なんですよ。でもマスターが田中さんと競馬の話をしてた、ってのが気になって」
「…………東雲さん」
大道寺が理子の目をまっすぐ見つめる。
「なかなか興味深いですね」
そう言うと大道寺は、理子に向かって茶目っ気たっぷりに微笑んだ。理子と同じく大道寺も、容易に解けない謎を考えるのが好きなのかもしれない。
いや、哲学をするひとはみなそうなのではないか。古代ギリシアの哲学者プラトンもアリストテレスも、身の周りの不思議な事柄をまえに「これは一体なんだろう?」といぶかしむ「驚異」から哲学が始まった、と述べている。古代から近代に至るまで、多くの哲学者が同時に数学者だったり自然科学者だったりするのも、ごく自然なことなのだ。
「東雲さんはタレスをご存じですか」
「タレスって、ギリシアの哲学者の、ですよね」
タレスは、プラトンよりも二百年ほど早い紀元前七世紀から六世紀にかけて活躍した人物で、宇宙の「原理」を探究した最初の哲学者たちの一人だ。いわゆる西洋哲学の「父」である。
「タレスは哲学者であると同時に、優れた天文学者でもありました」
「はい」
「ある日、タレスは星を観察していて、うっかり溝に落ちてしまったのです。助けに来た老婆はこう言いました。『タレスさま、あなたはご自分の足下さえお見えにならないのに、どうして天上にあるものをお知りになれるとお考えなのですか』と」
「そう言いたくもなりますよね。空を見上げててうっかり溝にはまってたら」
「東雲さんもそうかもしれませんよ」
「え」
大道寺が意地悪そうにニコリと笑った。
「大事なのは自分の足下かもしれません」
「?」
「東雲さんの足下はなんでしょうか……カントでしょうかね」
そう言うと大道寺は腰を上げ、わけがわからず言葉を失っている理子を尻目に「ではまた」と言い残して、共同研究室を出ていってしまった。
(私の足下……田中さんが読んでた漫画とカントが関係あるってこと……?)
大道寺の言葉が気になった理子は、共同研究室をあとにして図書館へ向かった。三階の哲学コーナーの書架からカントの伝記を探し出し、空いていた丸テーブルで読み始める。
すると、冒頭から早速、理子の理性にひらめきが訪れる。
カントの父親ヨーハン・ゲオルク・カントは、ケーニヒスベルクの馬具職人だったのだ。しかも母親のアンナ・レギーナも別の馬具職人の娘だという。
(馬具……ってことは競馬漫画のほうなのか……でも、だとしたら、そもそも大道寺先生はどうして競馬漫画だと思ったんだろう?)
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