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(……え……どういうこと?)
一階の参考図書コーナーに『哲学大辞典』を返してから地下一階の閲覧室に戻ってくるまで、ほんの数分しかかかっていないはずだ。それなのに、いま返したばかりの、菊判で五キロはあろうかというこの辞書が、悪びれもせず台のうえに鎮座しているではないか。
(……これって「アンチノミー」ってやつ……?)
アンチノミーとは「二律背反」の意で、ある命題とその反対命題とが同時に成り立つ状況、あるいは逆に、両方の命題がいずれも成り立たないような状況を指す。「『Aかつ非A』はない」とする「矛盾律」に反した状況である。
外はきれいに晴れている。「晴れている」のだから、同時に「晴れていない」ということはない。当たりまえのことだ。
『哲学大辞典』は台のうえにある。だが『哲学大辞典』は参考図書コーナーにあり、台のうえにはないはずだ。まさにいま理子の目のまえで、Aと非Aが同時に成立してしまっているのだ。
(アンチノミーと言えばやっぱり……カントだよね……)
カントは、人間がついつい考えてしまうような、「世界」や「自由」や「神」をめぐる大きな問題に、理性は解答を見つけられないと述べた。
たとえば、世界は無限なのか、有限なのか。
仮に無限だとしよう。だとすれば世界には限界がないことになり、どの瞬間をとってみても、無限の時間が流れているはずである。だが、いまそう考えている「現在」の瞬間は、時間の最前線であり、いわばひとつの限界である。つまり、世界は有限である。
反対に有限であるとする。そうすると世界には始まりがあることになり、始まる以前には空虚があったはずである。しかし、無からはなにも生まれないから、始まりのまえにも世界はあったのでなければならない。すなわち、世界は無限である。
ふたつの推論はどちらも正しいにもかかわらず、最終的に結論が前提を覆してしまう。正しいはずの理性が、その正しさゆえに自分自身を偽ってしまうのだ。
(たしかにここには『哲学大辞典』がある……でもこの辞書はついさっき棚に返したんだから、ここにあるはずがない……)
わけがわからず立ち尽くす理子に、さらなる追い打ちをかける事態が生じた。あやうく理子は叫び声を上げそうになった。
となりの座席に陣取っている男がおもむろに振り返って、理子が見下ろす『哲学大辞典』に手をかけたのである。
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