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理子が席を取っているのは、地下一階の閲覧室に設けられた自習室で、縦横に二席ずつ、計四個の机が組み合わさった座席のうちのひとつである。向かいの座席とはもちろん、となりの座席とのあいだにも板でできた仕切りがあるから、一人分の机は正面と側面とでしっかり区切られている。
座席の後方には、「返却する図書はここに置いてください」との紙が貼られた可動式の鉄製の台があり、何冊かの本が重ねて置かれている。机のスペースが狭いので、本をたくさん持ってきて勉強するひとは、この台を本の仮置き場として使っているのだ。帰るときに台に本を置いておけば、最終的には職員が書架に戻してくれる。
職員にとっては仕事が増えることになるが、利用者が間違った場所に本を戻してしまうと、本に貼られたラベルの情報とずれて二度と見つけられなくなる可能性があるので、返却台の利用を積極的に勧めているふしもある。
席を立った理子は、書架から自分で持ち出してきた本をすべて抱えて、一階の参考図書コーナーへ向かった。ほぼ満席の閲覧室を抜けて、階段を上っていくあいだも、理子は自分がカント研究の末席に連なるのにふさわしいかどうかを考えていた。
参考図書コーナーは図書館の総合カウンターの正面にあり、その脇には蔵書検索用のパソコンが何台も並んでいる。
理子はそのうちの一台のまえに座って、簡易検索のキーワードのところに「カント」と入力し、出てきた結果からいくつかの和書の書名と請求記号を備えつけの筆記具でメモした。それから階段で三階の「哲学」のコーナーに向かい、最初に借りていた本をもとの場所に戻してから、さきほどメモしたカントの研究書を三冊探し出した。
どんな学問分野であれ、研究を始める際には、これまでどのような研究がなされてきたのか、すなわち「先行研究」を調べなければならない。
理子は大学の卒論指導のときにゼミの先生から聞いた言葉を思い出した。
「東雲さん。学問っていうのはね、偉大な先人たちが積み上げてきた積み木の山に、自分の名前を書いた小さな積み木をそっと付け加える作業なんですよ」
卒論のために実際にいくつかの先行研究を読んでみて、理子はこの言葉の意味を理解した。自分が考えるようなことは、誰かがすでに考えているものなのだ。先駆者たちへの敬意に裏打ちされて生み出されるほんのわずかな独創性が、研究の価値なのだ。
貸出の手続きは取らずに自分の座席に戻った理子は、持ってきた三冊の本を順番にめくり始めた。まずは目次を確認したうえで、はじめから流し読みし、特に興味を惹かれた箇所は段落の全体を読んでみた。なにか気になる部分があれば修士論文のテーマにできるかもと考えた。
(悟性のカテゴリー、超越論的統覚、格率……やっぱりカントは用語からして難しいよね……んー、悟性と理性はどう違うんだっけ)
哲学の用語は、日常で使われるときの意味とずれていることが多い。さらに、同じひとつの用語でも、哲学者によって使い方が微妙に異なるというのもよくある話だ。
カントは『純粋理性批判』のなかで、人間の認識の働きを三種類に区別している。
まず、視覚や聴覚などの五感で対象を受容する「感性」。
次に、感覚によって得たこれらの素材を、「一と多」「可能と不可能」「必然と偶然」などのカテゴリーによって総合する「悟性」。
最後に、感性と悟性の上位に位置して、人間の思考を統一し制御する原理をもたらす「理性」。
だから、感性といっても、「彼女は感性が鋭い」というときの芸術家的な繊細さを意味するわけではないし、理性も、「彼は怒りで理性を失った」というときの分別ある行動を保証する能力を意味するわけではないのだ。
理子は座ったまま、うしろを振り向いた。そしてキャスター付きの椅子でずりずりと移動し、台のうえの『哲学大辞典』を持ち上げてまた机まで戻り、「悟性」の項目を探して読み始めた。
そのときの理子はまだ、自分がしているおかしなことに、まったく気づいていなかった。
理子の理性に軽い違和感が走ったのは、『哲学大辞典』の「悟性」の項目に記された、ジョン・ロックの『人間悟性論』についてのくだりを読んでいるときだ。
ジョン・ロックは、人間の知識の基礎を感覚的経験に据える「イギリス経験論」の祖である。人間は生まれたときにはなんの観念も持っていない「白い板」であり、そこに経験を通じてさまざまな知識が書きこまれていくという。
理子は読んでいたページを手で押さえながら本を起こし、表紙を確認した。
(……あれ、この辞書さっき返さなかったっけ?)
そうなのだ。さきほど理子は、入館時に持ち出した本を一度すべて返しに行っている。「参考・禁帯出」のラベルが貼られ、図書館に一冊しか所蔵されていない『哲学大辞典』は、きちんと一階の参考図書コーナーに戻したはずなのだ。
しかし、現代思想や同期の学生についての嫌な記憶を思い出し、その落ちこみをまだ引きずっていた理子は、このとき自分自身への信頼を失っていた。返そうとしたけど、重いから結局あと回しにしたかもしれない、と思った。『哲学大辞典』以外の本も、それなりの分厚さがあったのだ。
(それにしても、こんなこともわからなくなるなんて、我ながらどうかしてないか? たかが研究計画ひとつで、どうしちゃったんだろ)
もちろん、本当に「たかが研究計画」と思ったわけではなかった。むしろ焦りを覚え始めていた。壁の時計を見ると、ちょうど午後三時になったところだ。柳井との面談までもう一時間しかない。
(ずっと座って本読んでるせいかな……気持ちを切り替えたほうがいいのかも)
理子は読みかけの「悟性」の項目に急いで目を走らせると、貴重品と『哲学大辞典』を持って階段へと向かった。
地下からの階段を上って右手には、新聞や雑誌が置かれたガラス張りの部屋がある。図書館内でこの部屋だけは飲食が可能で、ほかの利用者に迷惑がかからない程度にはおしゃべりもできる。理子は空いていたテーブルに『哲学大辞典』を置いて席を確保してから、自動販売機でペットボトルのミルクティーを買ってきた。
温かいミルクティーを飲みながら周囲を見渡すと、理子の斜め前方では、春らしいピンクやベージュの軽やかな格好をした女子大生がサークルやバイトの話で盛り上がっていた。理子もつい一ヶ月前までは女子大生だったわけで、見た目にはそれほど変わらないはずと思いながら、「女子院生」の自分は彼女たちとはまったく異質な存在であるような気がした。
英央大学時代の友人たちは、卒業後、ほとんどが就職している。理子がお茶を飲んでいるこの時間にも、きっと研修やらなにやらで奮闘しているのだろう。ぼんやりと休憩している宙吊りの時間が、「大学生」と「社会人」のあいだに漂う理子自身を表しているようだった。
聞くともなしに聞いていた女子大生たちの会話のトーンが、ふと変わる。
「知ってる? 最近、図書館に変なひとがいるってうわさ」
「聞いた聞いた。一階をウロウロしてるひとでしょ? 全然学生に見えないっていう」
「そうそう。職員さんも、なんとかすればいいのに」
「でも、なにもしてないひとに注意できないんじゃない?」
「それもそっか。なんか怖いね」
(……一階をウロウロか……私もさっきから行ったり来たりしてるし……院生だけど、さすがに学生には見えるよね……あーあ、いまごろ絢音もがんばってるんだろうな……よし、集中しよう)
不安な自分を励ましてくれた親友の笑顔を思い出した理子は、残っていたミルクティーを飲み干してペットボトルをゴミ箱に捨ててから、参考図書コーナーに向かった。
棚には何箇所か空いている場所があって、理子はやや戸惑ったが、ほかの哲学関連の辞書にはさまれた隙間に『哲学大辞典』を収めた。理子が正しい場所に戻せるか気になったのか、カウンターにいる落ち着いた様子の女性職員が理子の姿をじっと眺めていた。
一階のトイレに立ち寄ったあと、面談までの残りわずかな時間、頭をフル回転させようと地下の座席に戻った理子は、驚きのあまりに、あやうく理性が弾け飛びそうになった。
いま返したはずの『哲学大辞典』が、またも台のうえに戻っていたのだ。
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