第一講 ミネルヴァの研究計画は黄昏に飛ぶ
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「あー、ダメだ、全然決まらない」
つい漏れた声が張りつめた閲覧室に響いて、理子は赤面した。
新年度の授業が本格的にスタートした四月第三週目。授業時間中にもかかわらず、城京大学図書館地下一階の閲覧室は、思い思いの本や資格試験の参考書を持ち寄った学生たちでにぎわっている。
にぎわっている、というのはもちろん言葉の綾で、実際にはみな無言でページを繰ったり、ペンを走らせたりしている。心臓の音を立てるのもはばかられるほどの緊張感だ。冷たい視線で全身に鳥肌が立ち、理子はハリネズミのように縮こまった。
東雲理子は城京大学大学院・人文学研究科の修士課程に在籍している。いわゆる「女子院生」だ。
専門は「哲学」である。
理子は今年の三月に英央大学文学部を卒業し、城京大学には大学院から通っている。大学院とは、大学を卒業した学生がさらなる専門教育を受け、研究をおこなう場所である。
二年間の「修士課程」を修了して、民間企業に就職したり公務員になる者もいれば、研究者を目指し、三年間の修業年限を標準とする「博士課程」に進学する者もいる。
教育を受けるといっても、文系の学問、特に理子の専門である哲学の場合、研究は学生の自主性に任される部分が大きい。取るべき授業はそれほど多くなく、「修士論文」のための研究を独力で進めていくことが求められる。ただし、束縛のゆるい環境のなかで学生が道に迷わないように、「指導教員」が定期的に面談して研究上のアドバイスをしてくれる。
今日は指導教員である
「もう二時か……」
時計を見た理子は、今度は口に出さないよう十分に気をつけて、心のなかで呟いた。今日の面談にあたって、柳井からは、修士課程での大まかな「研究計画」を示すように言われている。現段階では綿密なものでなくてもよいが、少なくとも「どの哲学者を扱うのか」「なにをテーマにするのか」を伝えなくてはならない。
理子は参考図書コーナーから抱えてきた『哲学大辞典』をめくりながら、小さくため息をついた。
哲学を勉強しようと決意して英央大学に入った理子は、第二外国語でフランス語を学んだこともあって、フランス哲学を専門とする教員のゼミに所属した。フランス語を選んだのは、マカロンが好きというだけの理由だったが、せっかく学んだフランス語を活かして、ゼミではフランスの二〇世紀の哲学をテーマに卒論を書いた。
二〇世紀のフランス哲学─俗に「フランス現代思想」と呼ばれる分野である。
フランス現代思想に属する哲学者たちは、耳慣れない造語や難解な言葉づかいを駆使することで知られる。「
そのかわり、彼らが過去の哲学者の議論をさばく手つきは実にスリリングである。哲学の本なのにまるで推理小説を読んでいるかのような感覚に、理子も徐々に面白さを感じるようになった。だから城京大学大学院に入った当初は、当然のように修士課程でも同じ研究を続けるつもりでいた。
だが、大学院に進学してすぐに、その気持ちは完全になくなってしまった。城京大学に学部から通っている同期の「内部進学者」たちの冷ややかな視線に耐えられなくなったのだ。
実際、かつては日本の論壇でも一世を風靡したフランスの現代思想は、いわゆる哲学業界での評判が悪い。最も流行したのが消費社会真っ盛りの時代だったこと、日本に紹介した研究者の多くが、哲学ではなくフランス文学をおもな専門としていたことなどがその原因だろう。
「チャラチャラしている」「ただの言葉遊び」「カッコつけてるだけ」「あんなのは哲学ではない」。哲学の専門家が口にする「現代思想」という言葉は、悪口だと考えてほぼ間違いない。
学部の卒業論文ならまだしも、大学院で現代思想をやるなんて、という空気なのだ。理子も大学院でそれを身をもって感じることになる。
柳井教授の授業で各自が自己紹介をしたとき、理子が「卒論はミシェル・フーコーについて書きました」と言うと、授業後に同期の学生から「現代思想やっててうちに来るなんて珍しいね」と声をかけられた。理子は「そうなんだ」と思った程度だったが、別の授業で哲学史に関する教員の質問に答えられないでいると、「東雲さんは現代思想ですから」と言ってかわりに答えた学生がいた。彼は哲学の知識が少ない理子をフォローしたつもりだったが、理子に伝わったのはむしろ、彼らが現代思想に対して抱いている軽蔑だった。ゲンダイシソウ、ゲンダイシソウ、ゲンダイシソウ……このところ理子は、この呪いの単語から逃げることばかり考えていた。
新しい環境にも慣れ始め、そろそろ研究に本腰を入れるべき時期に、論文で扱う哲学者さえ決まっていないのはそのせいである。
疲れた首をゆっくり一回転させた理子は、人差し指で前髪をくるくるいじりながら、『哲学大辞典』の「カ」の項目を、読むともなく眺めていた。
フランス現代思想とは別に、理子が以前から興味を抱いていた哲学者がいる。一八世紀に活躍したドイツの大哲学者、イマヌエル・カントだ。
カントとの出会いのきっかけは高校時代にさかのぼる。
大学で哲学を勉強したいと母に告げた日、はじめて理子は自分の名前の由来を知った。「理性」の「理」の字を取って、父親がつけてくれたのだという。
その父は、理子が生まれてまもなく、「本当の哲学を探したい」と言ってヨーロッパに渡ってしまった。産休・育休を経て民間シンクタンクに復職し、理子を育ててくれた母の良子がなぜ離婚後も父の「東雲」姓を名乗っているのかはわからない。それとなく尋ねた理子に、良子は、「佐藤」というなんの変哲もない旧姓から珍しい名字に変わって嬉しかったから、と笑って答えるだけだった。
哲学の魅力に惹きつけられていたとはいえ、リセイがなにかもわかっていなかった理子は、入学した英央大学であらためて「理性」と出会うことになる。「哲学概論」という授業で、カントの主著『純粋理性批判』が紹介されたのだ。
あのときの胸の高鳴りを、理子はいまも忘れることができない。五百人は入る階段教室で、大半の学生が船を漕いだり内職に勤しんだりするなか、自分の名前が突然マイクで呼ばれたような気がしたのだ。
自分の名前のもとになった言葉が哲学書のタイトルになっている……。しかも、先生いわく「哲学の古典中の古典」であり「哲学史における最重要の書物のひとつ」らしい……。
だから、卒論のテーマにはフランス現代思想を選んだものの、理子にとってカントはつねに「気になる存在」だった。『純粋理性批判』も四年生の夏休みになんとか読了した。もっとも、内容は本当に難しく、文字を追うだけで精一杯ではあったが。
理子は『哲学大辞典』をめくって、愛着のある「理性」の項目を探し出した。理性自体は古代にまでさかのぼる古い概念だが、説明の大部分はやはりカントに割かれていた。
(いっそのこと修論はカントにしようか……柳井先生の専門もドイツ観念論だし……でも、私にカント研究の末端の末端の末端さえ務まるのかなあ……)
もう一度『哲学大辞典』の「イマヌエル・カント」の項目に目を通してから、理子は自分を励ますように勢いよく立ち上がった。
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