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 理子が日曜日に南郷五丁目の駅に降り立つのははじめてだ。大学が休みのため、街を歩くひとの感じもいつもとは少し違っている。理子は駅前の交差点を渡って大通りを右手に進むと、古本屋が立ち並ぶ「みみずく通り」へと一直線に向かった。

 しばらくして、意気込みに満ちあふれて歩道を闊歩していた理子が、若干の不安に駆られてあたりを見回す。


(……なんか、ひと、少なくない? それに閉まってる店が多い気が……)


 洋食屋やコーヒーショップは普段どおりに営業しているが、通りの両側に点在している古本屋はどこもシャッターが降ろされていて、開いている気配がまったくない。

 それでも通りの奥まで進んでいった理子を、衝撃と落胆が襲う。目的地である文殊堂のガラスドアにも、見間違えようのない「本日定休日」との紙が貼られていたのだ。


(……え、文殊堂も休みじゃん……柳井先生、勘違いしてたのかな……)


 がっかりして帰ろうと思った理子だが、それでも柳井を信じる気持ちを捨てきれず、お世辞にもきれいとは言えないガラスに顔を近づけて目を凝らしてみる。

 すると薄暗い店内に、なにやらひとが動いている様子が見えた。さらに注意して見てみると、眼鏡をかけて白いひげを蓄えた男性が、本の整理らしきことをしている。


(……開いてないけど、お店のひとはいるんだ……どうしよう、柳井先生に言われたしなあ……)


 理子が勇気を出してドアに手を添える。鍵はかかっていないようで、ドアがわずかに動いた。一瞬ためらったものの、思い切ってドアを開け、店主とおぼしき男性に声をかけた。


「こんにちは……お休みのところ、すみません」


「ああ、いらっしゃい。どうぞ」


 突然の来客にもかかわらず、店主は特に驚いた風もなく作業を続けている。古い木製のテーブルのうえに、何十冊もの洋書が雑然と平積みされている。


「あの……今日って、お休みじゃないんですか?」


「休みだよ。貼り紙あったでしょ」


 店主が手を止めて、理子のほうに顔を上げた。言っている意味がわからず、理子が二の句を継げずにいると、店主がニヤリと笑みを浮かべて続ける。


「うちは日曜定休だけど、休みじゃないからね」


(……休みだけど休みじゃない? なんか柳井先生も同じこと言ってたような……?)


「あなた、なにを研究してるの? 城大の院生でしょ」


「わかるんですか?」


「そりゃ、雰囲気でね。『勉強したい』って顔に書いてあるもの」


 はっとして、つい理子は全身を見回してしまった。白いブラウスにレモンイエローのスカートという出で立ちは古本屋にはそぐわないはずだが、自分の顔は自分で見ることができない。幸い、顔には勉強への意欲が刻まれていたのだろう。


「えっと……私、学部ではフランスの現代思想をやってたんですが、大学院ではカントを研究したいと思って、勉強を始めたところなんです」


「現代思想って、たとえば?」


「卒論はミシェル・フーコーについて……」


「フーコーからカントね……いいじゃない。フーコーはカント研究もしてたわけだし。はじめからカントだけ読んでるよりも、見えてくるものが違うかもしれないよ」


「えっ」


 思わず声が出た。店主の知識の豊富さに驚いただけではない。大学院に入ってはじめて、フランス現代思想を勉強していたことを誰かに肯定されたのだ。


「でも、じゃあドイツ語は読めないかな」


「……はい……いまがんばって勉強してるところです」


「そしたらまずはドイツ語を鍛えて、またいつでもいらっしゃい。そのあたりにハイムゼートやなんかもそろえてあるから」


 ハインツ・ハイムゼートはドイツの代表的なカント研究者で、『純粋理性批判』の注解をはじめとした重要な研究を残している。


「はい! ありがとうございます」


 そのあともしばらくのあいだ、理子は店主からカント関連の専門書にとどまらない色々な本を教えてもらい、有意義な日曜の午後を過ごした。店をあとにして理子が家に帰るころには、文殊堂が定休日だったことなどすっかり忘れてしまっていた。

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