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 週が明けて、ふたたび柳井教授の「精読演習」の授業後。理子は演習室から出ていった柳井のあとを追い、個人研究室へと通じる廊下で呼び止めた。


「柳井先生、すみません。ちょっとお時間いいですか」


「ああ、東雲さん、どうしたの」


「このあいだ、先生に伺ったとおり、日曜日に文殊堂に行ったんですが……」


「あ、ほんと? 岡田おかださん、元気だった?」


「店主さんですか? 立派な白いおひげの」


「そうそう……東雲さん、つぎ授業ある? よかったら、そこ座ろうか」


 廊下の奥に備えつけられているベンチへ促され、理子がさきに腰を下ろす。


「どういうかたなんですか、文殊堂の店主さんって」


 理子と並んでベンチに座った柳井は、授業の資料を横に置いてから、懐かしそうに答えた。


「岡田さんはもともとうちの大学院にいたひとでね。あるとき文殊堂を引き継いだんだ」


「先生は昔からお知り合いなんですか?」


「そうだねえ……僕が院生のころからだから、もう三十年近くになるかなあ」


「すごく哲学にお詳しくて、びっくりしました。それに丁寧に色々と教えてくださって……あ、でも……実は定休日だったんですよ。なかをのぞいたら店主がいらっしゃったので、無理に入れてもらっちゃって……」


「ふふふ、日曜日は文殊堂、休みじゃないんだよ」


 柳井が意地悪そうに笑う。店主が理子に見せたのと同じ種類の微笑みだ。


「先生……私、店主にも煙に巻かれちゃって……どういうことなんですか?」


「東雲さん、大学での『勉強』と大学院での『研究』って、なにが違うと思う?」

 微笑を口元に残したまま、柳井が理子に尋ねる。


「違いですか……うーん……自分で設定したテーマに、長い時間をかけて取り組むところでしょうか。あと、研究だから、なにか新しい発見や解釈が必要ですよね……卒論だと、先行研究をまとめて考察を加えるだけで、ある程度の分量になってしまいますし」


「うん、具体的にはそのとおりだけど。もっと単純に言ったらこうだと思うんだ。『勉強には終わりがあるけど、研究には終わりがない』」


 大学では、授業に出席して試験やレポートをこなし、卒業に必要な単位を取得することが目指される。個人的に興味を持って自分で勉強を続けるのであれば別だが、基本的に、単位を取ってしまえばその科目の勉強は終わりになる。

 大学院でも取得すべき単位は設定されているものの、授業よりも学生自身の研究が占める割合のほうが大きい。修士課程では修士論文、博士課程では博士論文という最終目標はあるが、論文を完成させれば研究が終わるわけでもない。むしろ新しい課題が見つかって、それがまた次の研究の始まりになる。


「だからね。研究には終わりもなければ休みもない。適度にリフレッシュは必要だけど、研究が趣味って言えるくらいじゃないと、研究者は務まらないよ……それに」


 柳井が一呼吸置いて、しみじみと続ける。


「僕も院生のころからヘーゲル読んでるけどさ。何十回と読んでるテクストでも、いつもなにか発見があるもんね。終わりがない、っていうのは哲学研究者なら誰もが持ってる実感だと思うよ」


 話を聞いているうちに、理子にも柳井の意図が徐々に伝わってきた。


「もしかして……文殊堂の店主さんって、古本屋をしながらいまも研究を続けてらっしゃるんですか? だから『休みがない』っておっしゃったんでしょうか」


「ははは、それもあるんだけどね。あのひとは偏屈だから」


「?」


「このあたりの古本屋、どこも日曜が定休日だって知ってた? 商店街の組合で決めてるんだよ」


「そうなんですか……知らなかったです」


「それを岡田さんはね、『休めと言われて休むのは仕事と同じだ』って言ってね。日曜は『定休日』の貼り紙は出してるけど、実際には『営業』してるわけ。もちろん客なんて来ないんだけど。『休み』って書いてあるから」


「なんだかややこしいですね」


「でもね、休みって知らずに日曜に客がくると、そのひとの関心や好みを聞いて親切にアドバイスしてくれるの。だから東雲さんにも、わざと日曜に行ってごらん、って言ったんだよ」


「そういうことだったんですね。ありがとうございます。おかげでゆっくりお話を聞けました。また教わりに行ってみます」


「それがいいよ。研究は一人でやるものだけど、一人でやってはいけないものでもあるんだ」


「え?」


「導いてくれるひとがいないと、独善的になったり、客観性を失ったりするからね。教師なり先輩なり古本屋なり、教えてくれるひとは一人でも多くいたほうがいい……まあ、その筆頭が指導教員なわけだけど……いやあ、ごめんね、ほんと」

 ここまで調子よく話してきた柳井が、途端にばつの悪そうな顔になった。柳井はサバティカルの取得にともない、理子の指導教員を大道寺と交代することになったからだ。


「でも、大道寺くんなら安心だから」


「あ……はい……」


 大道寺という名前を聞いて、先週「ジルベール」で見た姿が理子の頭をよぎった。あれから一週間、まだ大道寺の顔を見ていない。


(……うーん、大道寺先生にも色々教わりたいんだけど……聞きづらい部分もあるし……本当に安心なのかなあ……)


 急に黙りこんだ理子を、柳井が穏やかな表情を浮かべながら不思議そうに見つめていた。

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