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 息も絶え絶えに大学にやってきた理子は、四限に開講されている柳井則男教授の「精読演習」の授業に出席した。授業ではヘーゲルの『精神現象学』の序文を輪読していたが、テクストの中身がほとんど理解できなかったのは単に、硬質なヘーゲルの文章に理子のドイツ語力が追いつかなかったせいではない。さきほど「ジルベール」で見た光景が頭から離れなかったのだ。

 理子は大学時代に友人の家でたまたま見せてもらったBL漫画を思い出した。


(……ああいうのって、すっごく過激だよね……フーコー読んでたし、同性愛に抵抗はないんだけど……男性で読むひともいるんだ……次に会ったらどんな顔したらいいんだろ……)


 『狂気の歴史』や『監獄の誕生』などの著作で知られるミシェル・フーコーは、古典古代の文献を渉猟しながら、西洋社会のさまざまな「権力」の装置の発生と歴史を解明した哲学者である。遺著となった『性の歴史』の第二巻『快楽の活用』では、古代ギリシアの男性同性愛が論じられている。


「先生、サバティカル中はどこかに行かれるんですか?」


 突然の学生の発言で、ぼーっとしていた理子が我に返る。授業時間も残りわずかになり、すでにテクストの輪読は終わっていたようだ。


「ドイツで在外研究する予定だよ。せっかくの研究休暇だからね。日本にいると、なんだかんだいっても仕事が降ってくるんだ」


 秋からサバティカルに入る柳井が、苦笑いしながら質問に答える。研究休暇中の教員は授業をはじめとした校務が免除され、自分の研究に専念することが許される。


「まあ、研究『休暇』っていうのも妙な言葉だけど。ずっと研究はするわけだから。休みと言えば休みだけど、仕事と言えば仕事だからね」


 柳井の言葉にみなが「たしかに」とうなずく。今度は別の学生が口を開いて、授業内で触れられたヘーゲルの研究書について柳井に尋ねた。


「ああ、あれね。図書館に入ってないのかな。文殊堂を見てみたら?」


「もんじゅどう?」


 はじめて聞いた音の響きに、思わず理子が復唱する。となりに座っていた同期の学生が、驚いた様子で理子のほうを向いて言った。


「東雲さん、知らないの、文殊堂。有名な古本屋。あそこは毎日でものぞいたほうがいいよ。掘り出し物があるし。ときどき大学の先生の蔵書がごっそり入ってきたりするしね」


「そうなんだ……」


 理子は自分の無知を自覚して顔を赤くした。しかも、大道寺のことで頭がいっぱいで授業に集中していなかったから、ますます自分が恥ずかしくなった。


(……いけないなあ、こんなんじゃ……ちゃんと勉強しないと……)


「あ、東雲さんねえ」


 柳井がにこやかな笑顔で声をかける。誰に対してもきめ細やかな気配りを忘れない柳井だが、それがまったく自然体でおこなわれるのが人気の秘密なのだろう。


「文殊堂に行ってみるなら、日曜日がいいよ」


「日曜日、ですか」


 理子を除く学生たちが「あれ?」という表情で顔を見合わせる。それもそのはずで、南郷五丁目の古本屋のほとんどは日曜日が定休なのだ。学部から城京大学に通う「内部進学」の学生たちは当然そのことを知っていたが、柳井を相手に指摘することもできず黙っていた。


(……文殊堂か……よし、早速日曜日に行ってみよう……がんばるぞ……)


 不審がる学生たちをよそに、理子は一人、強い勉強の意志を燃やしていた。

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