第三講 休みのない古本屋
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穏やかな陽気の五月の午後。東雲理子は授業のまえに、城京大学からほど近い南郷五丁目の書店「ジルベール」に立ち寄った。
「ジルベール」という店名は、パリの有名な本屋「ジベール」をもじったらしく、カウンターの奥の壁には、「GIBERT JEUNE(ジベール・ジュンヌ)」という黄色いロゴの入ったポスターと、「GIBERT JOSEPH(ジベール・ジョゼフ)」という青いロゴの入ったポスターが並んで貼られている。
一八八八年、古典文学の教師だったジョゼフ・ジベールが、古本の学校教科書を扱う本屋をパリで始めた。当時のフランスは、公教育相ジュール・フェリーによる初等教育の無償化と義務教育化が進められた時期で、ジベールの書店は大成功を収める。ジベールが一九一五年に亡くなったあと、一九二九年に書店はふたつに分かれ、二人の息子がそれぞれを経営することとなった。兄の店「ジベール・ジョゼフ」と、弟の店「ジベール・ジュンヌ」である。二店とも、現在でもパリの学生街「カルチエ・ラタン」の象徴と呼べる本屋である。
この日、理子が「ジルベール」を訪れたのは、実家で飼っている黒猫のキタローの写真が雑誌に掲載されたと、母の良子から連絡を受けたからである。理子の知らぬまに、自慢の飼い猫を紹介するページに応募していたらしい。
ペット雑誌のコーナーにやってきた理子は、面陳された『ラブ・キャッツ』六月号を手に取り、なかを開いた。猫に「目がない」理子の脳内に大量のよだれが流れる。
(……うわあ、かわいい、ノルウェジアン・フォレストキャット……毛がふさふさで、きれい……ん? この子、あんまし見たことないな……セルカークレックスっていうんだ……ぬいぐるみみたい……ああ、いかんいかん……)
無言で首を横にブンブン振った理子はパラパラと雑誌をめくって、愛猫紹介のページを探し出した。そこにはたしかに「キタロー・雄・一四歳」という説明書きのある、見慣れた黒猫の写真が載っていた。
(……あ、キタローちゃん……やっぱりうちの子が一番かわいいよね……ふふふ)
キタローが東雲家にやってきたのは、理子が小学四年生のときである。学校から帰ってくると、母が玄関先に並べていたパンジーのプランターのとなりに、小さな黒い塊がちょこんと座っていたのだ。そっと近づいてよく見ると、漆黒の毛玉のなかに黄色い目が光っている。
理子は子猫と遊びたかったが、勝手に家に入れるわけにもいかない。うしろ髪を引かれながら家に入る理子の姿を、子猫は動かずにじっと見つめていた。
翌朝、眠い目をこすりながら二階から降りてきた理子は、驚きと喜びで「えええ!」と叫んだ。昨日の黒猫が、床に置かれたお皿でご飯を食べていたのだ。理子が寝たあと、玄関のまえにいつまでも座っていたのを不憫に思った母の良子が、家に入れてしまったのだという。
名前は理子の一存で「キタロー」に決まった。当時、再放送していた某アニメの主人公からとったものだ。目がキランとしているのが似ているらしい。本人の目玉なのか、親父の目玉のほうなのかはわからないが。
ただ、そのときの理子は、飼い猫に日本を代表する哲学者と同じ名前をつけてしまったことをまだ知らない。東洋的な絶対的「無」の概念を軸に西洋哲学の超克を試み、逆にヨーロッパ思想にも大きな影響を与えた、京都学派の創始者・西田幾多郎である。
キタローとの思い出にふけりながら、雑誌を片手に理子がレジに向かおうとすると、紺色のシャツに黒のジャケットを羽織った男性が颯爽とカウンターのまえを横切った。
(あ、大道寺先生……哲学書、探しに来たのかな)
城京大学の教員や学生が頻繁に訪れる「ジルベール」は、哲学関連の書籍も充実している。
挨拶がてら、なんの本を見に来たのか教えてもらおうと、理子が大道寺を追いかけた。大道寺は「哲学・思想」のプレートが立てられた棚には目もくれず、早足でさっと突きあたりを曲がった。
(あれ、哲学の棚に行かないんだ……ん? あっちの棚は……)
大道寺が向かった奥の棚には「BL」の文字が。
(……えっと……British Literatureかな……イギリス文学の棚ね……ん……あれ……?)
理子の目に、海外文学の本の表紙とは思えない肌色多めの絵が飛びこんでくる。
(……だ、大道寺先生が、び、びーえる……?)
あまりの衝撃に、理子はへなへなと膝の力が抜けてしまった。あやうくしゃがみこみそうになるのをなんとかこらえ、ふらふらとレジに戻ると、理子は『ラブ・キャッツ』六月号を買って、逃げるように「ジルベール」をあとにした。
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