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親友のこれまでの華々しい恋愛遍歴が頭をよぎって、理子は絢音には聞こえないため息をついた。理子も絢音の過去の恋人はほとんど紹介されて知っている。だが、変なひとだと思ったことはこれまで一度もない。数は多いが、そのつど厳選された相手と付き合っているのだろう。
「……で、今度はどんなひと?」
絢音は「うーん」と唸ってから、不意に理子に顔を近づけて小声で言う。
「見た目は、あのひとに似てる」
絢音が店内の奥を指差した。目立たないように気をつけながら、理子がそれとなく首を回して振り返る。思わず声が出そうになり、慌てて口を手でふさいだ。
そこでは理子の新しい指導教員である大道寺哲が、「クレール」名物のカレーを食べていたのだ。濃いグレーのシャツを着ていて、ボタンが開けられた襟元から色白の肌が少しのぞいている。
小山内が先代から引き継いで味を守っている秘伝のカレーは「クレール」の人気メニューで、そのために遠方から来店する客もいるほどである。適度にスパイスが効いているはずだが、細身のメガネをかけた大道寺は涼しい顔をして、音も立てずにスプーンを口に運んでいる。幸い、理子がすぐに背を向けたせいか、こちらに気づいた様子はない。
「ちょっと! あれ、私の、新しい先生!」
「えっ!? そうなの? すごい偶然……へえ、理子の先生、かっこいいんだね。紹介してもらおうかな」
「ダメだよ! 恋人いるんでしょ!」
絢音がぺろっと舌を出す。
(……まったくもう……油断も隙もない……でも大道寺先生って、やっぱりかっこいいのか……哲学研究者と付き合うなんて、めんどくさいだけだと思うけど……ひとのことは言えないのか……)
「でもね」
絢音が急に真面目な表情に戻る。
「もう別れるかもしれない」
「えっ」
絢音がテーブルに突っ伏した。泣き出したわけではなさそうだが、急な感情の波に襲われているのは間違いない。理子はまた、いままでの絢音の数々の恋愛エピソードを思い出していた。
(……絢音は恋多き女子だけど、そのつど全力で本気なんだよなあ……)
数十秒後、絢音はむくっと起き上がった。ほんの少し目が潤んでいて、それが長いまつ毛の奥の深い輝きを余計に引き立たせている。
「だってね。最近よくわからないんだよ、あのひと」
「最近って言ったって……会社の先輩なら、まだ付き合い始めたばかりなんでしょ?」
「そうだけど……なんかね、同じ支店の、ほかの子にすっごく親切にするんだよ。わざとらしいくらいに。残業してまで仕事のアドバイスしたり、ミスした子をご飯に誘ったり……」
「ご飯に誘うって……浮気してるかも、ってこと?」
「ううん。二人のときは私に優しいし、隠し事はないっぽいから、違うとは思うんだけど……なんか信じられないっていうか。本当の気持ちがわからなくなっちゃって」
理子がうーんと声を出す。
(……どうして絢音の彼はそんなことを? ちょっと待って……もしかして、これもプラトンで解ける謎じゃないかな……?)
「……あくまでも私の想像なんだけど、いい?」
「うん、聞く聞く」
「きっと絢音の彼はさ、職場をわざと『洞窟』にしたんだよ。絢音を守るために」
「え?」
「彼が親切にしてる女の子たちって、もちろん絢音の先輩なわけだよね……たぶんだけどさ、二人のこと、まだ誰も知らないでしょ」
「よくわかるね。さすがに気づかれてないと思う」
綾音が率直に驚いた表情になる。
「だからだよ。新入社員がいきなり先輩と付き合い始めたら、ややこしいでしょ。裏でなに言われるかわからないじゃん」
「で、『洞窟』ってのは? さっきのたとえ話のこと?」
「そう。彼が絢音以外の女の子にも優しくしてたら、絢音が目立たなくなるじゃない。あえて偽物をつくって、そのなかに本物を隠したんだよ」
「そうなのかなあ」
半信半疑の様子の絢音だが、さきほどより落ち着きを取り戻したようだ。木は森に隠せ、と言うように、隠したいものが目立つなら、周りを同じ見た目にしてしまえばいい。理子が続ける。
「哲学の考え方でね、『仮象』と『本質』って区別があるんだけど」
「なんか難しい言葉だね」
「でも簡単な話だよ。目や耳とかの『感覚』って間違うことがあるでしょ。知り合いだと思って追っかけたら全然違うひとだったとか、名前を呼ばれた気がして振り返ったらほかのひとが返事してたりとか」
「そんなの、しょっちゅうだよ」
「それを『仮象』って言うの。そういうふうに、間違う可能性がある感覚的なものとは別に、『それがなにか』っていう本物の存在、ずっと変わらない本当の姿がある。それが『本質』」
「じゃあ、彼は周りのひとにわざと『仮象』をつくって見せてるってこと? ていうか、ほかのひとに親切にしてるっていう姿も、私が見てる『仮象』なのか」
「そう……だから絢音は『仮象』に惑わされないで、彼の『本質』を見てあげないと」
「そっかあ」
ようやく絢音がほっとした笑顔を見せる。
「ありがとう。本当の彼の姿を見抜けるようにがんばってみる」
「きっと大丈夫だよ」
理子が斜め上に目をやり、長い年月がこげ茶色に染め上げた鳩時計を見た。朝から二人で話しこんでいて気づかなかったが、もうお昼の時間が近づいてきている。
「そろそろご飯食べに行こう。お腹空いちゃった」
「そだね。理子、このあと授業あるんだもんね」
二人は席を立つと、バッグを肩にかけてレジへと向かった。ちょうど大道寺が会計を終えたところで、理子に気づいて「あ」という顔になる。
「やあ、東雲さん。いらっしゃったんですね。気づかず失礼しました」
「……あ、先生、こちらこ……」
「はじめまして! 私、東雲さんの友人の能條絢音といいます!」
理子が言い終えるまえに、絢音が割って入ってハキハキと自己紹介をする。さっきの落ちこみはなんだったのかと思わせるほどの満開の笑顔だ。
「こんにちは。大道寺と申します。東雲さんの指導を担当しています」
大道寺が礼儀正しく頭を下げた。涼し気な表情にはなんの変化もない。大道寺のまったく動じない様子に、絢音もいつもとの勝手の違いを感じているようだ。
(……先生すごい……絢音の悩殺スマイルが全然効かないなんて……)
大道寺のあとをついてドアに向かう二人。背後から小山内の「ありがとうございました」という声が届く。振り向いた大道寺が会釈をしてから、ドアを開け放った。薄暗い店内に長時間いたせいで、突然のまぶしさに理子と絢音は思わず「うわっ」と目をつむった。ようやく片目を開けた絢音が、理子にそっと耳打ちする。
「理子の先生、本当にかっこいいね。ちょっとミステリアスな感じもするし」
爽やかな五月の午後の光を浴びながら、理子もなんとか目を開けた。明るい視界のなかに、先に店を出た大道寺のすらっとしたシルエットがぼんやり浮かぶ。理子にはなぜかその背中が、
「あなたに本当の私がわかりますか?」
と語りかけているように見えた。
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