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「彼が新入社員のときにね、新しくできたばっかりの支店に配属になったの。小さな支店で、支店長以外は彼も含めて三人しかいなくて、しかもみんな新入社員」


「そんなことあるんだ」


「相当珍しいと思うけど。でね、社員の親睦を深めるための本社の指示だ、って、支店長が変なルールを決めたんだって」


「変なルール? どんなんだろ」


「全員が始業時間の三○分前に出勤して、みんなでラジオ体操。もちろん支店長も」


「うそ。小学生の夏休みじゃあるまいし」


「で、お昼はかならず一緒に食べて、食後にトランプとかで遊ぶんだって。週に一度は飲み会だのカラオケだのボーリングだの、幹事を持ち回り制にして、毎週なにかのイベントをやってたらしい」


「今度は大学のサークルみたい。誰も文句言わなかったの?」


「そこなんだけどさ」


 絢音が口に水を含んで喉を潤す。グラスのなかを氷がくるんと泳ぐ。


「みんな新入社員でほかの支店を知らないから、そういう会社なんだと思って特に不思議に感じなかったみたい。しかも、その支店長がとってもいいひとでね、彼も結構楽しかったらしいのよ」


「へえ。信じられない……それで、どうなったの?」


「あるとき本社のひとが来てね、実はそんな指示なんてなくて、ぜんぶ支店長が勝手に決めたことだってわかったのよ。当然、支店長は異動。新しい上司が来て、なんの変哲もない支店になったらしい。本来はそっちが普通なんだけど、彼にしたら急につまらない日々になったって」


「ふうん……そんな極端な上司が来ると大変だよね……私らの場合、指導教員がかわっても、状況が劇的に変わることはないけどなあ……まあ、今度の先生のことはまだわからないけど……」


「……あ、ごめん、理子。哲学とはなんの関係もない話で……あんまり高尚な話題がないからさ」


「え、全然そんなことないよ。面白く聞いてるし」


「そっかな……なら、いいんだけど」


 すまなそうな絢音の顔を見て、理子は大学で哲学を専門的に学び始めたころのことを思い出した。当時の理子は、哲学を自分とは縁遠いものだと考える周囲の学生に対して寂しい気持ちを抱いたものだったが、そう考えるひとにまったく悪気がないのはいまではよくわかっている。むしろ、哲学を難しいと決めつけるひとにこそ、哲学の楽しさを伝えたいと思うようになっていた。


「それにね、いまの話は、すごく哲学っぽい」


「え?」


 思わぬ理子の発言に、哲学の「て」の字も知らない絢音が口を開けて固まる。


「こういうたとえ話があるんだよ。生まれたときからずっと手足を縛られて、暗い洞窟のなかで暮らす囚人たちの話」


「なにそれ」


「囚人たちは首も動かせなくて、奥の壁を見てるだけなの。彼らのうしろでは火が焚かれていて、色々なものの影が壁に映し出されてるんだけど、囚人たちはこの『影』しか見たことがないから、それを本物だと思っちゃうの」


「本当にそれしか見たことなかったら、それが当たりまえだと思うもんね……本物と偽物の区別もないってことか」


「そうなの。でさ、あるとき囚人たちが解放されて、影じゃない実物を見せられたら、どうなると思う?」


「なにが起こるんだろ」


「彼らは、これまでの人生をずっと暗闇のなかで過ごしてきたから、まぶしさに耐えられなくて、またもとの壁のほうを向いてしまうの。そこに映ってるのは『影』なのに」


 絢音の目が宙をさまよっている。高校時代から付き合っている理子には、絢音が頭を高速回転している最中だとわかる。


「わかった。理子が言いたいのは、彼が最初に配属された支店がその『洞窟』だったってことね」


「そう、さすが絢音」


「なるほどね。極端なたとえ話だと思ったけど、かえってわかりやすいわ」


 さまざまな常識や先入観に取り囲まれて生きている私たちは、知らずに「洞窟」のなかで暮らしている。自分が生活している身近な状況から距離を取って、その「当たりまえ」を疑ってみる哲学は、私たちを「洞窟」の外へ連れ出してくれる道具なのだ。

 だが、「当たりまえ」が心地よいのもまた事実である。囚人たちがもとの暗闇に戻っていったように、「真実」を見ることにはしばしば痛みがともなうからだ。

 納得したように繰り返しうなずいている絢音をよそに、さきほどから理子には少し気になっていることがあった。


「……ねえ、絢音……その『先輩』ってもしかして……」


「うん、いまの彼氏」


 さらっと言う絢音に、呆れる理子。


(……やっぱりね……どうも「彼」って言い方が引っかかってたんだよなあ……たった一ヶ月で彼氏とかできるかな、ふつう……ほんと、この子は昔から……)

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