【書籍版試し読み】ミネルヴァの梟は飛び立ちたい~東雲理子は哲学で謎を解き明かす~

草野なつめ /「L-エンタメ小説」/プライム書籍編集部

プロローグ


 出がけに肌をかすめた冷たい風は、昼ごろには雲ひとつない青空のもとで存在感を薄め、いまでは穏やかな日差しに促されてどこかへ行ってしまった。

 カフェの窓から見えるソメイヨシノの慎ましいピンク色に誘われて、東雲理子しののめりこは、桜をモチーフにしたイチゴ味のラテを手に、外のテラス席に通じるドアを押した。暖かい陽気がふわりと身体を包む。空いているテーブルに飲み物を置くと、理子は店内の能條絢音のうじょうあやねに大きく手を振った。


「ごめん、絢音。よかった? 外で」


「いいよ、全然。あったかくて気持ちいいし」


 あとを追って出てきた絢音は、生クリームに抹茶ソースのかかった同じく春限定のラテを持って、理子の正面に腰を下ろした。黒のトレンチコートを羽織ったままだが、マフラーで隠されていないニットの胸元がたしかな春の訪れを感じさせる。


「理子の大学って、卒業式いつ?」


「あさって。絢音のとこは?」


「うちは金曜日。袴、着るんでしょ?」


「うん、牡丹の模様が大きくてかわいいんだよ。綾音は?」


「私は無難なやつ。あんまり和装って感じじゃないし。そのかわり謝恩会は派手な格好するんだ」


「はは、綾音らしい。相変わらずだね」


「ま、ハレの日だしさ……それはさておき」


「ん?」


「まさか理子が『入院』するなんて思わなかったよ」


 絢音の言葉に反応して、となりのテーブルに座る年配の夫婦が理子に控えめな視線を向けた。女性の目は「この子が入院? 気の毒に……」と言いたげに細められている。


「ちょっと! 私、健康だから!」


「え? 大学に入るのが『入学』だから、大学院なら『入院』じゃないの?」


「そんな紛らわしい言い方しないよ、もう……」


 まったく悪びれる様子もなしにずずずとラテを飲む親友を見て、理子は軽いため息をついた。

 理子と絢音は高校時代の同級生で、別々の大学に入ってからもこうして定期的に会っている。この春に英央えいおう大学を卒業する理子は、四月から城京じょうきょう大学大学院に進む予定だ。一方の絢音は旅行代理店への就職が決まっている。


「……理屈はそうだけど……あえて略すなら『院進』って言うかな」


「そうなんだ。はじめて聞いた」


 あっけらかんと言う姿が女子高生のころと同じで、理子の顔に今度は自然と笑みがこぼれる。


「普通は知らないよね」


「だって大学院がなにするところかも知らないもん。大学の延長なんだよね? キャンパスも同じなの?」


「そうそう。大学院がある大学だと、どっちも同じ校舎で授業してるよ。もちろん片方しかない場合もあるけど」


「じゃあ、うちのキャンパスにもいたんだ、大学院のひと。知らなかっただけで」


「うん、早くから大学院志望とかじゃないと接点ないからね」


 ふむふむと説明を聞いていた絢音が、急に目を大きく見開いて感嘆の声を上げる。


「でもさ! すごいよね、理子。城京大に通うってことでしょ。城大生の友だちがいるって会社のひとに自慢するよ」


「学部に入るのと大学院から入るのは難易度が違うからなあ……周りも私なんかより優秀だろうし……教授陣も権威ある有名な先生ばっかりだし……あーあ、やっていけるのかな、私」


「大丈夫だよ、理子なら!」


 不安げな理子とは対照的に、絢音の目はキラキラと光っている。根拠や確信がなくても無条件で応援してくれる親友の優しさに触れて、理子の気持ちがすっと軽くなった。が、輝いていた絢音の目は、あらためて変なものを凝視するまなざしに変わる。


「とか言って、大学出たあとも勉強するなんて私には考えられないわ。卒論すら思い出したくないもん……理子、昔から勉強好きだったもんね」


「どうなんだろう……勉強が好きなだけじゃ足りないんだろうな、きっと」


 そう言うと理子は、両手で包むように持っていたカップに視線を落とした。しばしの沈黙のあと、秘めた決意を静かに再確認しているような理子の様子を見て、絢音が口を開く。


「理子ってさ、大学院でも『哲学』を研究するんだっけ」


 理子が顔を上げる。さっと強風が理子の髪を吹き流した。頬にかかった髪を指でゆっくりと払いのけてから、理子は絢音の目を見つめてうなずく。


「……それって、やっぱりお父さんのことと関係あるの?」


 午後の陽光が降り注ぐテラス席には、遅すぎる春一番のような突風が吹き続けていた。



 絢音と別れ、家へと帰る電車に揺られながら、理子は高校時代に母と交わした会話を思い出していた。「倫理」の授業で哲学に興味を持った理子が、「大学で勉強するなら哲学かなあ」と何気なく漏らしたときのことだ。

 ほかの公民の科目と比べて「倫理」は人気がなく、同級生たちは説教のような退屈な授業を我慢して、試験に出そうな知識だけをただ暗記していた。しかし理子には、「自由とはなにか」「幸福とはなにか」「生とはなにか」といった本質的な問いに取り組んだ古今東西の偉人たちが、単なる歴史上の人物とは思えなかった。生きる時代や社会が違うだけで、こうした問いそのものはいまもまったく新鮮さを失っていないからだ。

 学校のルールに縛られ、周りの友だちに流される自分は本当に「自由」と言えるのか。良い大学を出て一流企業に就職し、お金を稼ぐことが「幸福」なのか。どんな生き方を選ぶにせよ、これから私はどういう「生」を生きていくのか。

 哲学はこうした問いに答えを与えてくれるわけではない。身を置いている環境によっても変わるだろうし、そもそも一つの答えが決まっているはずもない。

 でも哲学は、あらゆる問いを考え抜いた哲学者たちの言葉を通して、こうした問いと格闘することの意味を私たちに教えてくれるのだ。


「たとえばさ、お母さん」


 理子が夕飯のキーマカレーをもぐもぐ食べながら言う。


「お母さんの作ってくれるご飯は今日もおいしいけど、私たちは『ご飯を食べるために生きている』わけじゃないよね。いくら食べることが好きでも」


「それはそうよ。理子だって、本読んだり映画観たり、ほかにもやりたいことあるでしょ」


「でもさ、反対に『生きるためにご飯を食べている』わけでもないと思わない? もちろんそれだけ恵まれてるってことだけど……ご飯は車のガソリンとは違うじゃない? 食べなきゃ死んじゃうけど、そういう『燃料』以上の価値とか楽しみがあるっていうか……」


 母の良子は、首をかしげながら自問する理子の顔を見つめて、静かに言った。


「……やっぱりお父さんの子ね…………いままで言ってなかったけど、お父さん、理子が生まれてすぐにヨーロッパに行ったのよ。『本当の哲学を探したい』って」


 その日まで幼いころに離婚したとしか聞かされていなかった理子は、あまりの衝撃に、少しのあいだ瞬きを繰り返すことしかできなかった。


「理子って名前もね、お父さんが考えたんだよ。『理性』の『理』なんだって」


 母はいつも仕事で忙しくしていたが、幸い理子は寂しさを感じることなく生活を送ってきた。父親の不在も、そう大きく意識することはなかった。だから哲学をきっかけに突然生まれた父親とのつながりをどう考えたらいいのか、そのときの理子はまだよくわからなかった。



 駅を降りると、日中の陽気が幻だったかのように、冬の寒さがまた戻ってきていた。首筋に冷気を感じてコートの襟元を合わせながらも、煌々と光る月の下を歩く理子の心のなかには、昼間の強い思いが変わらず宿っていた。


『お父さんに会いに行くなら、私が旅行の手配してあげるね』


 理子は別れ際に綾音がかけてくれた言葉を思い出した。


(……お父さん、「本当の哲学」見つけられたのかなあ……私も哲学の研究してたら、いつかお父さんに会って……どうして「理性」の「理」にしたのか、聞いてみようかな……)


 理子は固く握った両手を夜空に突き出して、大きく伸びをした。

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