第五講 うちのネコ、どこのネコ?
1
自室でカントのテクストを読みながら、指にはさんでくるくる回すペンの回転が止まらない。気がつくと、一度辞書で引いた単語をまたすぐに調べてしまっている。
このところ理子は落ち着かない日々を送っていた。先日の母との電話が気になっていたのである。
実家で飼っている猫のキタローが、外に出かけたきり帰ってこないというのだ。
理子の実家はのどかな郊外の一軒家で、周囲には畑も広がっている。車の往来も多いわけではない。だから東雲家では過度に心配することなく、キタローの希望どおりに外出を許していた。それに、野良猫から飼い猫に昇格したキタローを、狭い家に閉じこめるのも忍びなかったのだ。
キタローが東雲家にやってきたのは理子が小学四年生のときで、それからもう一三年の歳月が経過している。考えたくはなかったが、理子の頭には最悪の想像がよぎった。
(……猫って、どっか行っちゃうっていうもんね……うーん……)
理子は授業のない水曜日の夕方に、大学時代から続けている家庭教師のアルバイトを入れている。出かけるまでもう少し時間があるが、カントの難解なドイツ語が理解できる精神状態でもない。
(ちょっと違うことして、気持ち切り替えようかな……)
翌週の月曜日には、春学期の研究の進捗状況を報告してアドバイスをもらうため、指導教員の大道寺と初の面談をおこなう予定になっている。
(……先生と会うのって変な場面ばっかりで、きちんと話したことないんだよなあ……なんか緊張してきた……でも研究のこと教えてもらうの楽しみ……外国語のおすすめの勉強法も聞きたいし)
理子は家を出るまでのあいだ、大道寺に報告する内容と質問したい事柄をメモにまとめた。
理子が家庭教師を務めている
「理子ちゃん、答え、これでいい?」
「ちょっと見せて……うん、あってるあってる」
学習机のまえに行儀よく腰掛けて鉛筆を握る美優のノートを、となりに立つ理子がのぞきこんだ。美優は長方形の面積を求める問題に取り組んでいる。正答に気をよくしてさっそく次の問題に移る美優を、理子が頼もしそうに見つめる。
(……えらいなあ、美優ちゃん……私、こんなに勉強してなかった気がするよ……このくらいのときだよね、キタローがうちに来たのって……)
ふと、いなくなった飼い猫のことを思い出して、胸がきゅっと痛くなった。小学四年で家に迎えてから大学で一人暮らしを始めるまで、キタローは理子の生活の大切な一部だったのだ。
「理子ちゃん、大丈夫?」
ぼーっとしている理子の様子が気になったのか、美優が手を止めて心配そうな声で聞いた。
「ああ! ごめん、大丈夫だよ。どう、できてる?」
「うん、全部終わっちゃった」
どれどれ、と理子が確かめると、見事にすべて正解である。
「すごいね、美優ちゃん」
「えへへ。掛け算、好きだから」
「そっかあ……あ、じゃあ、面白いこと教えてあげる」
理子は自分のバッグからルーズリーフを一枚取り出すと、興味深そうに眺める美優の目のまえで、1から順番に数字を書き始めた。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 ……
「美優ちゃん、この数字の下に、それぞれの数を掛け合わせたものを書いてみて」
「1かける1、2かける2、ってこと?」
「そう。同じ数を掛けるのを累乗って言って、中学で習うんだけど。正方形の面積の計算と同じだから、簡単でしょ」
「うん、九九に出てくるし」
言われたとおりに、美優がせっせと作業を始める。
1 4 9 16 25 36 49 64 81 100 ……
「できた!」
「最初のグループは10で終わってるけど、このあとも11、12ってずっと続けられるよね」
「うん」
「そしたら、それを掛け合わせるのも、同じようにずっとできるよね。11かける11は121、12かける12は144みたいに」
「だんだん大きくなるけど、電卓があればできる、と思う」
「じゃあ美優ちゃんに問題。1から順番に書いていった最初のグループと、それぞれの数を掛け合わせた二番目のグループでは、どっちのほうがたくさん数があると思う?」
美優はふたつの数字の列を少し眺めてから、「なんで?」と言いたげな顔で答えた。
「同じじゃないの?」
「そう、正解」
そう言うと理子は、1と1、2と4、3と9という対応する数を、それぞれ線で結んだ。
「いま最初のグループから二番目のグループをつくったけど、反対に二番目のグループのほうから最初のグループを見てみれば、二番目のグループの数を1、2、3、4って数えてるのと同じだ、ってわかる? ちょっと難しいかな」
「うーん、と……あ、ほんとだ……こっちには1から100まで数が10個あるってことか」
美優の理解力に感心しながら、理子が続ける。
「ここからが本番。美優ちゃん、二番目のグループに2ってある?」
「ない」
「3は?」
「3もない」
「今度は二番目のグループの数が最初のグループにあるかどうか調べてみようよ。4はある? 9は?」
「えー、4も9もあるし、最初のグループは1ずつ増えてくから、全部あるんじゃないの」
「ふふふ……じゃあ最初のグループのほうが数が多い、ってことでいい?」
「えええ、さっきは同じだったのに……」
両方のグループを美優が不思議そうに見比べている。
「どんどん数が大きくなってくの想像すると、頭がクラクラする」
「そうだよね」
「でも、面白い! あとでお父さんにも教えてあげよう」
「ふふ、楽しみだね」
(……お父さんかあ……お父さんと勉強の話するのって、どんな感じなんだろ……それにしても……私も集合論の基本で小学生相手にえらそうにしてる場合じゃないな……帰ってまたカント読もう)
浜名家をあとにした理子が駅を降りてスーパーに立ち寄ろうとしていると、バッグのなかでスマートフォンが振動した。母の良子からの電話である。
画面に映った「母」の文字を数秒間見つめた理子は、気息を整えてから電話を受けた。
「……もしもし、お母さん?」
「あ、もしもし理子? いま平気?」
母の声は、絶望的な事態を想定させるものではない。理子の緊張が少しだけゆるむ。
「うん、大丈夫。どうしたの?」
「キタロー、帰ってきたよ」
「え! よかった〜」
ほっと胸をなで下ろした理子は、スマートフォンを耳に当てたまま立ち止まって、夜空を見上げた。閉じた目がじんわり熱くなった。
「……帰ってきたんだけどさぁ」
「?」
安堵した理子だが、続く母の口調の変化に、またゆっくりとまえを向く。
「……なんか様子が変なのよ」
滑舌の良い母の声には、かすかな困惑が混ざっていた。
「様子が変って、どういうこと?」
「うーん……うまく言えないんだけど……どことなく違うのよね。ご飯の食べ方とか、ちょっとした鳴き方とか」
「ワンって鳴くようになったとか?」
「そんなわけないでしょ」
ピシャリと言われた理子は、電話の向こうの般若のような母の顔を想像して肩をすくめた。
「理子、週末、忙しい?」
「……ん、特に予定はないけど」
「帰ってきてくれない? キタローの様子、見に」
そういうわけで理子は急遽、土曜日に帰省することになった。実家は理子のアパートから電車を乗り継いで一時間半ほどのところにある。まだ春学期の途中だから、週末を実家で過ごしたあと、月曜日の朝には戻ってくる予定だ。午後には大道寺との面談もある。
気持ちよく晴れた土曜日の朝。理子は最低限の身の周りのものだけを持って家を出た。
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