第二講 喫茶店という洞窟

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 今年のゴールデンウィークは、休みの取り方によっては十連休近くになるようで、テレビ局による空港での行き先調査にも例年以上の勢いが感じられる。ハワイ、グアム、モルディブといった「南の島」から、韓国やタイなどの近隣のアジア諸国、はたまた定番のヨーロッパ各地へと、大勢のひとが巨大なスーツケースを転がして旅立っていった。

 そんな大型連休が明けた週の火曜日。ここ、城京大学そばの喫茶店「クレール」では、海外旅行の高揚感とは縁のなかった女子二人が、テーブルをはさんで熱いコーヒーをすすっていた。


「いやー、感動したよ。天下の城大の門をくぐれるなんて」


「大げさな……誰でも入れるじゃん」


「キャンパスに入るだけならね。ふふふ」


 旅行代理店に勤めている能條絢音は、連休が終わってようやく取れた休日を利用して、東雲理子の通う城京大学の見学に来ている。理子は午後に授業があるから、朝からの待ち合わせだ。

 国内最難関と言われる城京大学は、地下鉄・南郷五丁目駅を降り、美しいケヤキが立ち並ぶ南郷通りを歩いて一〇分ほどのところにある。二人のいる「クレール」から大通りを渡った正面には有名な黒塗りの城京大学「東門」があり、験担ぎなのか、制服姿の高校生たちが楽しそうに記念撮影をしている。


「理子ちゃん、珍しいね。お友だちと一緒なんて」


 水を注ぐために店内を回っていたマスターの小山内おさないが理子に声をかけた。五○歳はとうに過ぎていると思われるが、髪は黒々としていて、肌も若々しく、年齢不詳の中年男性である。


「あ、はい。高校時代の友だちに大学を案内したとこです」


「こんにちは! コーヒー、とっても美味しいです!」


「あ、ああ……どうもありがとう。ゆっくりしてってよ」


 どんな堅物の人間の好感度でもごっそり鷲掴みにしてしまう絢音の笑顔に、さすがの小山内もたじたじになっている。理子がはじめて見る姿だ。

 今日の綾音は白いシャツに丈の長いベージュのスカートを履いていて、茶色の豊かな髪にはゆるやかなウェーブがかかっている。実際の年齢よりも大人っぽく見えるから、よりいっそう年配の男性への受けがいいのかもしれない。


(……絢音、就職してますます営業スマイルに磨きがかかってる……おそるべし……)


 カウンターに座っていた初老の男性がゆっくり席を立った。グレーの中折れ帽が目を引く。


「マスター、今日はいつもと違って華やかでいいねえ」


「『いつもと違って』は余計でしょ、田中さん」


「田中さん、こんにちは。もうお帰りですか?」


 理子が軽く会釈してから尋ねる。


「うん、そろそろね。そっちはお友だちなんだって?」


「そうなんです。この子、旅行会社で働いてるんですよ。田中さん、海外旅行とかいかがですか?」


「ははは、退職してから暇だし、いいかもね。女房に話してみるよ」


「ぜひ、そうしてください!」


「じゃあ、理子ちゃん、またね」


「はい、さようなら」


 会計を済ませた田中が、ドアの鈴をカランカランと鳴らして退店した。その音を聞きながら、理子は店内奥の壁に掲げられた絵をぼんやり眺める。素朴派の代表的画家であるアンリ・ルソー『眠るジプシー女』の複製画である。その様子を、今度は絢音が感嘆のまなざしで見つめていた。


「すごいね、理子」


「へ?」


「なんでもう常連みたいになってるの? こんな雰囲気ある喫茶店で」


「えっ。たまに授業のまえに寄ってるだけだよ」


「たった一ヶ月で知らないおじさんとも仲良くなるかな、ふつう……いやあ、すごいわ」


 よほど感心したようで、絢音はいつまでも首をコクコクと振っている。


(……私には、あなたの破壊力抜群の愛想の良さのほうがすごいけど……)


 理子は午後から授業がある火曜日と木曜日に「クレール」に立ち寄り、授業の予習をしたり本を読んだりしている。四月から毎週二回、欠かさず訪れている理子は、コーヒー一杯でスタンプを押してもらえるカードも一度溜まったことがあるほどで、一ヶ月足らずでもう常連の扱いになっている。少しまえからマスターの小山内や常連の田中とも言葉を交わすようになっていた。


「で、大学、じゃない、大学院はどうなの? 心配してたじゃん」


「うん。だんだん慣れてきて、いまは集中して勉強できてるかな……あ」


「ん?」


「指導教員の先生が急にかわっちゃったんだよ……不安と言えばそれが不安かな」


「入ってすぐ? 会社だったら、入社後にいきなり直属の上司がかわるってことでしょ。それは動揺するわ」


「そうなんだよね……絢音のほうは? 仕事は順調?」


「まあ、やっぱり就職すると自由がないよね。好きな格好もできないし……あ、そうそう、上司で思い出した。このあいだ職場の先輩から面白い話、聞いたんだよ」


「どんな?」


 ピンクのニットに包まれた細い腕を組んで、理子が身を乗り出す。

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