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「失礼します、大道寺先生。こちらにいらっしゃると柳井先生から伺ったものですから」
「ああ、
「ええ、それが……」
言葉を濁した田部は、理子の顔を見て驚いた様子を示したが、なにも言わずにすっと大道寺のそばに寄ると、右手で口元を隠してこそこそと耳打ちを始めた。
「……そうでしたか。それならしばらく大丈夫そうですね。どうもありがとうございました」
田部は大道寺と理子に軽く頭を下げると、素早く共同研究室を去っていった。
まったく状況を把握できずにぽかんとしている理子に、大道寺が説明を始める。
「最近ですね、図書館の本へのイタズラが相次いでいたんですよ」
「イタズラ?」
「はい。落書きされたり、ひどい場合にはページが破かれていたり……特に参考図書コーナーの高価な辞典類が標的になっていたようです」
大道寺は今学期の授業は担当していないが、各学科の教員で構成される「図書館委員会」の委員になっており、先立つ会議でもイタズラ問題が協議されていた。
「僕は今学期は時間に余裕があるので、なにかあったらすぐ対応できるように図書館で警戒することになったんです。それで、参考図書コーナーに辞典を戻した学生がいたら自分のところに持ってくるように、田部さんに伝言しておいたんですよ。教員と職員の連携プレーです」
「田部さんって……さっきの方ですか?」
「はい。僕は自分の用事で『哲学大辞典』を借りて使っていたんですが、気づいたらうしろの台からなくなっていて」
「……つまり私が『哲学大辞典』を返した直後に、たまたま先生がその辞書を持って地下の閲覧室にいらした、ってことですか? で、私が返し忘れたと思ってそれをまた参考図書コーナーに……」
「そういうことになりますね。返すとき、田部さんの視線、感じませんでしたか?」
「そう言えば……なんか妙に見られてるな、とは思いました」
「驚きましたよ。『あれ、ないな』と思ってたら、すぐに田部さんが持ってくるじゃないですか」
「え……じゃあ、私、イタズラの犯人に疑われてたってことですか……」
「ああ、いえいえ、疑ってまではいません。ほとんどのひとは普通の利用者に決まってますから、あくまでもただの確認です。それに……」
「?」
「哲学が好きなひとに、悪いひとがいるわけないじゃないですか」
そう言うと大道寺は、閲覧室で理子に見せた以上の満面の笑顔になった。
(……なんだ、哲学へのこの絶対の信頼は……あ、それより……犯人に疑われてたんですか、って言っちゃったけど、さきに先生を疑ったのは私のほうだった……)
「イタズラしてたひとも見つかりました。司法試験に何度も失敗していて、ストレスを感じていた、と……来月、試験ですもんね。とても反省していたようです」
この大道寺の最後の説明を、もう理子は聞いていなかった。
(……先生を不審者扱いするなんて、私、どんだけ失礼なんだ……ああ、恥ずかしい……)
「……あ、でも!」
理子は劣勢を挽回するかのように言った。もっとも、理子の狼狽は大道寺にはまったく伝わっていないのだが。
「どうして先生なのに、『哲学大辞典』使ってらっしゃったんですか? こういう辞書って、基本的なことを調べるために使うんじゃないんですか?」
「ああ、長くイギリスにいたせいで、日本語の哲学用語をよく知らないんですよ。秋学期からは授業も持つでしょ。それで柳井先生から、辞書でざっと確認しておいたらって勧められたんですよ」
(日本語の哲学用語がわからない? この先生、すごいのかすごくないのか、どっちなんだろう……いや、すごいのか……)
「……そう、なんですね……」
「そうなんですよ。reasonが理性なのはまだ許せるとして、understandingが悟性でしょ。全然わからないですよね。『理解する能力』くらいの意味なのに」
「カントは特に難しいです」
「そうそう、カント。悟性もそうですが、ほかにもありますよね……あ」
大道寺が少しだけ真剣な表情に戻る。
「それで、東雲さん。結局、修論のテーマはどうなさるおつもりですか」
理子も軽く姿勢を正し、大道寺の目を見つめながら、ほかならぬ自分自身を納得させるように、はっきりと宣言した。
「カントのアンチノミーについて書きたいと思っています」
まったく新しい研究テーマに、突然交代した指導教員。大学院に入ってすぐのドタバタは、これからの研究生活の波瀾を予告しているのだろうか。
ミネルヴァの梟は黄昏に飛ぶ─ヘーゲルの有名な一節である。
ミネルヴァは知恵の女神、梟は彼女のお気に入りの鳥だ。ミネルヴァの梟すなわち哲学は、現実が成熟し完成し終わった夕暮れどきに、その本質を認識するために飛翔する。
(……なんとかテーマは決まったけど、いちから勉強か……まずはドイツ語……それにドイツ哲学の流れも押さえないと……そう言えば、大道寺先生ってなにが専門なんだろ……)
短いようで長い理子の院生生活がこうして始まった。ミネルヴァの梟が飛び立つまでは、まだまだ時間がかかりそうである。
*
理子との面談の終了後。大道寺は暗くなるまで、自分の個人研究室に残っていた。
着任したばかりの大道寺の研究室には、まだ研究用の机や椅子などの最低限の備品しか置かれていない。机の上では真新しいデスクトップパソコンが新品の匂いを放っている。壁に据えつけられた大型の書架はからっぽで、部屋の隅には何十箱というダンボール箱が積み上げられている。
大道寺はさきほど柳井から理子を紹介されたときのことを思い返していた。
(……東雲、か……よくある名字ではないが……しかし……)
大道寺は腕を組んだまま、電源の入っていない真っ暗なパソコン画面を見つめていた。
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